鋼の翼


 私には翼がある。

 誰よりも強く、硬い、鋼の翼だ。

 でも誰よりも重く、はばたいても浮かばない、飛べない翼。

 どんなに立派で、美しく飾っていても、私は決して飛べないのだ。

 空を見上げ、翼を広げる。

 翼に皆目を見張り、賛美する。

 でも飛べない。

 誰だって飛べるのに、私だけが飛べない。

 しかしこの役立たずの翼も私が望んだもの。

 今日はその話をしよう。



 昔、私の翼はかろやかにはばたく事ができていた。

 立派とは言えず、皆よりも一回り小さかったが、よく動いてくれた。

 その翼でいつまでもどこへだって飛べる気でいた。

 あの頃は。

 でもいつ頃からだろう。

 自分の翼に嫌悪感を抱くようになった。

 どこがおかしいという訳ではない。

 ただ皆よりも少しだけ小さく、より多く速く動かさないと飛び立てない事に、恥を感じた。

 恥というのは不思議なもので、感じる前は意識さえしていなかったのに、一度感じてしまうとほんの些細

(ささい)な事でさえ気になってくる。

 それまでは素直に気高く飛んでいたはずの私。しかしその時には自分の姿に酷く落胆し、嫌悪していた。

 小さな翼を憎みさえしていたように思う。

 今では恥ずかしくなるその態度も、その時は誇らしく思え、私を突き動かした。

 自分を貶める事が、小さな翼をののしる事が、その時には言ってみれば正義だったのだ。

 そして私は少しでも大きく強くしようと努力し始めた。

 その事自体は悪くない。努力こそが人の証。自分を自分足らしめる為に最も必要な人生の仕事。人がやる

べき道。そう思っている。

 努力こそ美しいのだと。

 しかし美しいはずの努力も、いつしか曲がってしまっていた。

 より強く、大きくはばたけるようにしたい。とそれだけを思って努力していたはずなのに。

 初めはまだ上手くいっていた。

 毎日毎日激しく動かし、重い錘(おもり)を翼に付け、食べ物にも気を配った。

 その成果があり、翼は少しずつ大きく強くなっていった。

 だがどうしても私の翼は皆よりほんの少しだけ小さい。それ以上はどうしても大きくならないようだった。

 それでも強くはできる。

 鍛え上げられた筋肉で、より強く、大きくはばたく事ができた。

 努力は決して無駄にはならない。

 しかし私が気にしていたのは見た目だ。それだけはどうにもならない事に、だんだん苛立ちを覚え始めた。

 他人がどれだけ賞賛し、時に気にし過ぎだと呆れられたとしても、私にはどうしても惨めに思える。

 この小さな翼がひどく惨めに見えた。

 人がどう言おうと関係なかった。私にはどうしても満足できないのだ。他人の言葉なんて耳に入らない。

私は誰の言葉も必要としないようになっていった。

 必要だったのは、誰よりも大きな翼、それだけである。

 その為に全ての努力を捧げ、私は一冊の本にたどり着いた。

 誰かからもらった物だが、未だにその人が誰だったのか思い出せない。

 もしかしたら自分が作り出したまやかしだったのかもしれない。

 どこでどう出会ったのか、何一つ解らない。思い出せない。

 解るのは、私がもしそうなっていたとして不思議ではないほど、取り乱し、焦っていたという事だけ。

 それが喜びからだったのか、恐れからだったのか、それすら解らない。

 本には翼を作り変える術が書かれていた。

 私がやっていたように努力して少しずつ大きくするのではなく、人工的に作り直す。翼を自分の好きな姿

に作り変える。

 それはとてもすばらしい事に思え、その本を懸命に学んだ。

 様々な方法があったが、私はその頃最も好み、憧れさえ抱いていた鋼に翼を作り変える事に決めた。

 作業は単純だ。

 翼を溶かした鋼で覆い、その上に鋼で作った新たな翼を接(つ)ぐ。私本来の翼を元に、大きな機械的な

翼を付け加えていくのである。

 それは芸術であり、まさに自分というものを表現するに相応しい方法だった。

 少なくともその頃の私はそう考えていた。

 物珍しさからだろう。鋼の翼が出来上がるにつれ、それを賛美し、羨(うらや)む者が増えてきた。

 いつも私の側には人が集まるようになり、口々に翼を称えた。芸術だ、芸術だと。

 私もそれを喜び、ようやく認められたのだと心から安堵していたように思う。

 そうしてよせば良いのに、周りに煽(あお)られるようにして翼をどんどん大きく、そして重くしていった。

 その頃にはすでに、満足にはばたかせる事もできなくなっていたのだろう。

 まさに芸術品。私そのものが彫像になっていく事に、その時はまだ気付いていなかったのだ。

 いや、気付きたくなかったと言うべきか。

 だが程なくして気付く、飛べなくなった事に。

 気付いた時はもう遅い。

 確かに生きていくだけなら問題は無い。昔誰もがそうしていたように、両の足さえあれば充分である。

 しかしこの世界で、私だけが飛べない。

 私を賛美する者の中には私を真似ようとする者がいたが、それもごく表面的な事だけで、飛べなくなるま

でしようとする者は居ない。

 口ではなんと言っていても、自分がそうなるのは嫌なのだろう。

 どれだけ褒め称えていても、自分が飛べなくなるのは嫌なのだ。

 こうして芸術という言葉で塗り固められた私は、人間でなくなった。

 鋼の翼。その付属品に過ぎない。

 そうなってやっと気付いた。人の目がいっていたのは全て翼の方であり、私自身を見る者は一人としてい

なかった事に。

 それどころか、本心では私を軽蔑すらしている事に。

 私が称えられたのは誰もがしない事をやったからだ。

 つまり、誰もしたくない事を。

 誰も飛べなくなるのは嫌だ。

 だからこそ新しさ、芸術がある。

 誰もできないからこそ、したくもないからこそ、称えられる。

 大いなる無駄であり、偉大なる挑戦。それが芸術だ。

 私は誰もしたくない事を愚かにもしたからこそ、称えられていた。

 幸福であるはずがない。

 芸術とは他人を幸福にしても、自分を幸福にはできないものだ。

 自己表現の場などではない。ただのさらしもの。

 少なくとも、私はそうなった。

 どれだけ称えられても、どれだけの人が集まっても、そんなものは無意味でしかない。

 私は結局、ずっと惨めになっただけである。

 誰も私にはなりたくない。

 褒め称えながら馬鹿にしている。

 それが今の私、偶像になった私、鋼の翼の付属物である私。

 飾りであり、人間ではない。

 何度も言う、私は人間ではない。

 普通の事が普通にできなくなった時、人は人でなくなる。

 上辺だけ何を言っても無駄だ。私は人間ではない。

 違うのだ。明らかに。



 今日も翼を見にたくさんの人が来る。

 一人として私を見ようとはしない。

 隠れる事も、逃げる事もできない。

 私がどこに行こうと、彼らは空を飛び、私を見付ける。

 飛べない私を。

 翼もまた惨めなものだ。形だけ残っているが、存在意義を失っている。

 翼としての役割を失い、そういう意味で死んでいる。

 つまり、ごみだ。

 そこには何も無い。

 偶像とは空っぽという意味か。

 人に崇められれば人でなくなる。

 誰も崇めているモノを見ようとはしない。

 人に見られない者は、人ではない。

 そして腹が立つ事に、飛べない私には彼らを見下ろす事すらできない。

 いつも見上げ、絶望する。

 あの頃に戻れたら、きっと誰よりも高く、かろやかに飛べたはずなのに。

 誰よりも小さく軽い翼には、その可能性があったのに。

 私はもう、飛べはしないのだ。




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