小さなトゲ


 理想の女性、理想の男性、人は望み夢見る理想の伴侶がいる。

 しかしその理想と出会える人は少なく、その人と関係を持つ人は更にずっと少ない。

 その理想の人にとっても、自分が理想ではない事が多い為だが。そんな風に、人間というのは贅沢でど

うしようもなく作られているような気がする。

 理想の女性、私が夢見ていたのはそちらの方だ。

 そんな女性に会える事を夢見た日も、すでに遠く過ぎ去った日々の間に埋れてしまい、今では思い出す

事すら難しい。

 理想とは言わないでも、自分には分不相応だと思える程の人と結婚出来たし、今も色々ありながらも、

全体的に見て悪くない人生を送っている。

 不満がない。不満がないことにも不満はない。

 私は幸せだった。いや、今もきっと幸せなのだろう。

 だが今更出会ってしまったのだ。

 そう、理想の女性というやつに。

 出会うべくして出会った訳ではない。出会ってはならない時に出会ったのだと、そう思う。

 結婚し、不満もない。そんな時に昔描いた理想と出会う。

 しかもただ出会うだけでなく、少しずつだが会話するようになり、不思議と気が合うのか、会う間に親

しくなってしまう。

 その上、妻とも仲が良い。自然、家庭内での話題でも出てくる。

 私は悪魔の仕業だと思った。これこそが話しに聞く悪魔のやり口だと。

 街角で一目だけ見て、もう二度と出会う事がなかったとしたら、どんなに楽だったろうか。

 心にずっと残り、あの時声をかけていれば、なんて、悔いたのかもしれない。しかし一度だけならば、

それだけで済んだ筈だ。それだけで良かったのだ。

 何故こんなすぐ側に居るのだろう。何故無邪気な笑顔を寄せてくるのか。

 これでは私がおかしくなってしまうのも、時間の問題ではないか。

 これは試されているのか、それとも私を陥れる為の罠か、或いは単なる偶然か。

 どうするべきだろう。人はこんな状態に陥った時、一体どうすれば良いのだ。

 迫る人もいれば、このまま仲の良い関係を続けていこうとする人、またはその理想の人から離れようと

する人、やり方は様々。しかし私はどれも選びたくない。

 出来れば出会わなかった日々に戻りたい。呑気に平和を享受出来ていたあの日に。

 しかしそれはもう、決して叶わないのだろう。

 悪夢だ。

 私に下心が無い。といえば、嘘になる。勿論そうだ。むしろ下心しかないのかもしれない。結婚しなが

ら他の女性を気にするなどと、良い大人がやる事ではないと思う。

 こんな時に自己弁護する方法と言葉はいくらでもある。しかしそれはまやかしなのだ。

 もし妻が同じような事をしていたら、私は一体妻に何と言うのだろう。どう思うだろう。

 それなのに自分の場合は仕方ないと肯定するのか。それは許されない事だ。それこそが最も大きな裏切

りではないか。

 第一、理想の女性が既婚者に近付くなどと、そんな事があるはずがない。そんな悪魔のような事を、私

の理想がする筈がない。

 しかしそう思っても心は揺らぐ。

 理想とはつまり、自分にとって都合が良い妄想であって、理想の女性とは、私にとって一番都合の良い

女性に他ならない。

 私はその事にも気付かされてしまった。出来れば永遠に知りたくはなかったのに。

 もう言い訳する事は出来ない。

 恥ずべき事だが、私の理想とは醜い欲望に彩られた穢れた妄想なのだ。

 情けない事だ。私はなんて卑小な人間なのだろう。

 これ以上関わるべきではない。しかし誰よりも彼女に関わりたい。今では彼女と仲良く話している妻を

見るだけでも、嫉妬心を揺さぶられる。

 私は頭がおかしくなってしまったのだろうか。

 これでは一体どちらが本当の妻なのか解りはしない。

 私は誓ったのではないのか。妻を、妻のみを生涯愛すと。そしてそれを私も心から望んでいた筈だ。

 ならば今の私はなんだ。どうしたのだ。

 そうか、これは病気に違いない。一時の迷いに違いない。

 時を置けば癒される。きっとそうだ。

 いや、よそう。どうやっても否定は出来ない。

 際限なく欲望が募る。そこに居る、息吹を感じる。頭の中にしかいないと思った理想の人が、この世に

存在している。私のすぐ近くに居る。彼女が居る限り、私の欲望は止まらない。

 これは病気ではない。正常だからこそ困っているのだ。病気であれば、どんなに良かったろう。

 この苦しみ、愚かさ、拷問以上の何者でもない。

 罰が余りにも重過ぎる。耐えられない。

 優しげな香りが漂ってくる。全身に善意と敬意が溢れている。何をしても許してくれそうな、そんな気

になる程に。

 やるなら全てを擲ってでもやるべきだ。

 やらないなら、心を消し去ってでも、今すぐに忘れるべきだ。

 だが結局私に出来たのは、中途半端な迷いを抱えたまま、この醜い欲望を隠しながら、いつまでもその

状態に甘えて生きる事だけ。

 私は誰にも知られないよう彼女の写真を撮り、そっと胸に忍ばせて持ち歩いている。

 今も、そしてきっとこれからも。

 何と醜く、浅ましく、そして意気地の無いやり方だろう。

 私はこんな事をする為に生まれてきたのか。妻と彼女に罪悪感を抱きながら、それでもその一枚の写真

を生涯離さず持ち歩く。そんな事の為に生きてきて、そしてこれからも生きていくのか。

 私はなんと言う愚かな人間だったのだろう。

 愚かな人間の愚かな望み。確かに私には相応しいのかもしれない。

 結局、私はそれを望んだのだ。

 今もその小さなトゲは、私の心を突き刺している。

 決して抜けず、そして抜こうとも思わない。

 私の理想は、こんなものだったのだろうか。

 今では風化した記憶と共に、その答えも失われてしまっている。

 私は罰を受け続けるだろう。

 それを知りながらそれを止めない私は、恥ずべき人間である。

 生き恥を晒すとは、こういう事なのだろう。

 そんな自分に酔いそうにもなる私は、最後にどんな報いを受けるのだろう。




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