時計


 ふと見やると、いつもの場所でいつも通り針を動かす時計の姿。

 彼女は働き者だ。一分一秒と休まず、毎日それを繰り返している。そして繰り返す事が時計にとっての

存在意義であり、人にとっての存在価値である。

 針がどんどん進む。それに表されるように、時間と云うものは休む事を知らない。時計が可哀想に思え

るくらい、時間というものは容赦なく進んでは消費されている。

 私もどんどん老いていく。毎日毎秒老いていく。この時計の針が、そのまま私の人生であるかのようだ。

 それが事実であれ、いや事実だからこそ、目に見えて解る事に、あまり良い気持がしない。しかし私の

目は時計を離れない。

 私の時間は常に流れ続けている。何処から生まれ、何処へ行くのか知らないが、生まれてから死に果て

るまで、無限に消費されていく。或いは死んでからでさえも、私の時間は消費されるのかもしれない。

 時の流れは速い。

 朝起き、気付けば日が暮れている。

 日が暮れれば、次に来るのは朝だ。

 はっきりした一日という感覚も無いままに、一月、一年、十年と時は過ぎて行く。

 そして私は老い、尽きれば死に逝く。

 何故時間と云うものは、私の知らない場所で過ぎているのか。一体時間と云うものは、どうして消費さ

れるのか。それに何の意味があるのだろう。

 時が永遠に尽きる事のないものならば、私もまた永遠である筈。そうでないと云う事は、時間もまた消

費されているという事。有限であり、何かが減る、或いは増える、どちらかは知らないが、変化がある事

に間違いはない筈だ。そしてその流れが即ち、生命の消費である。

 時は命と共にあり、常に命を消費する。新たな命を生む事はあっても、今ある命を永劫にする事は無い。

 時は命を喰らい、命を生み出すのか。そうして入れ替える事で、時はそれを保つのだろうか。その変化

から生み出される何かが、時を存続させているのか。

 それとも時は減るのみで増えはせず、繰り返す事で、経る事で、終わりへと近付いていくのだろうか。

 このまま過ぎ去れば、時間と云うもの自体までが、全て消滅してしまうのか。

 だとすれば、一体それを消費している者とは誰だ。何の現象なのか。

 時と密接に関係するのが命だとすれば、消費させているのは、命そのものなのかもしれない。

 つまり、それは私なのだろう。私が生きる為に時間を消費している。だとすれば、時間を喰らっていた

のは、私自身だったと云う事になる。

 私が時に命を生む事をせがみ、時を存続させる何かを、消耗させている。それが事実である可能性まで

は、否定できない。

 ならば何故。いや何故と云う言葉は虚しい。そうしなければ生きられないからだとすれば、その問いは

虚しい。

 ふと思う。

 私は時を憎んでいるのかもしれない。

 死へと向う、それが即ち生だとすれば、私は死ぬ為に生き、生きる為に時間を消費している。そして私

は更に時を消費させる為に命を生ませ、或いは私の死という事実を別の生に転化させる事で、時が全てを

失なうまで、その無意味な消費を続けようとする。

 再び生を生むくらいならば、始めから死ぬ意味は無いのではないか。なら、わざわざそんな事を繰り返

すのは、生命が時間へ復讐しているとでも思うしかない。

 だが何故、時はそのような営みをするのだろう。不思議だ。それを愛と呼べば簡単だが、そんな無意味

な理由なのだろうか。

 時は何故、自らを消費する生命を生み出すのだろう。

 そういえば、不思議な事がある。

 この世の生命全てが時間を喰らっているとして、何故同じ時でも、人によって感覚的に違ったりするの

だろう。早く喰らえる者、喰らえない者、という差なのかもしれないし、単に調子の良し悪しであるかも

しれないが、それにしては不自然な事がある。

 それは進む時間は個々が感じる速さに関係なく、皆一定と云う点である。

 同じ一時間を途方も無く長く感じる人も居れば、一瞬であったかのように感じる人もいる。しかしそれ

は等しく一時間であり、お互いに矛盾せず同居し、世界には個人個人の時間の流れがありながらも、決し

て一時間と云う共通点を崩す事は無い。

 つまり世界が一定した時間を取りながら、個人個人は別種の流れの中にいる。

 そんな事が、果たして有り得るものだろうか。

 不自然極まりないが、確かに現実はそう動いている。

 これは一体どう云う事なのか。等しい流れにありながら、個人個人に差が生まれる。その理由は、そこ

に何者かが干渉しているとしか思えない。

 一番長い一時間が世界共通の一時間であるとして、それより短いと感じる分だけ、何者かに喰らわれて

いるのではないか。そうとでも考えないと、疑問は埋まらない。

 とすれば短いのでは無く。人は時間、つまり記憶を喰われ、その失われた事すら忘れ、速く過ぎ去って

しまったように感じるのではないか。

 自分の時間を、誰かが代わりに使ってしまっているのだ。

 そう考えれば、人が万民同じ時間を生きながらも、各々その感じる時間が違う、と云う事に納得できな

いではない。

 しかしそれも途方も無い話だ。我ながら無理があるように思う。

 本当はもっと簡略と言うのか、もっと直接的な理由ではないのか。

 私は時間が過ぎ去っていくのを目にする度、何者かが、つまりは私と誰かが、時間を喰らっているので

はなく。時間そのものが、私自身を喰らっているようにも感じる。

 何故なら、時間と云うものさえなければ、私という存在は永遠なのだから。

 おそらく私は、つまり生命は、時間を存続する為に生まれ、その役割として消費されて死ぬ。

 時は私を喰らい、その結果老化が起こる。老化は明らかに消費だ。ならば時が私の生きる糧を喰らって

いるのだと、言えない訳がない。

 時が進む、それは我々を喰らって進むのである。

 しかしその消費は、生命平等には訪れない。おそらく私に味の好みがあるように、時にも好みがあるの

だろう。

 だからその時の時の味覚に合わなかった人は、随分と長く同じ一時間を過ごせる訳だ。

 人の時間を喰らい、時間は初めて生きられるのではないかと、私は考え始めている。

 被虐的な思考かもしれないが、何となくそれもまた、辻褄が合うような気がするのである。

 又は、人が成長する代償として自らの生、時間を消費する、時とそのような取引をした、と云う可能性

もある。

 まあ真実がどれであれ、誰かが一方的に喰らい、消費している事は間違いないようだ。私達は一定の流

れの中に居るが、決してそれは等しい時間などではない。

 それが虚しいとか、悲しいとかは思わない。逆に、そう云う風に出来ているのならば、それが一番理に

適ったやり方であるのだろうとさえ思う。

 しかしこの思考は止められない。後から後から浮んでは消えて逝く。

 無意味な思考であるのに、私の脳はそれを止めない。やはり生命は時間を憎んでいるのかもしれない。

 無意味だが忘れるな、時が我らにしている事を忘れるな。

 そういう呪詛にも似た声が、何処からか聴こえてくるような気がする。

 この時計の針が進み、刻み付けては過去を忘れていくように。私の思いも、考える度に心へ刻まれ消費

される。

 いつまでもいつまでも無意味な思考が浮んでは消え、私は老いて消えて逝く。

 永遠に続く思考の中で、永遠に消費される時間の中で、私は生きている。

 誰の何が誰に喰われようと、それを理解しようとしまいと、私は結局変わらない。変わらず老いて死ん

で逝く。

 この生は死に逝く旅の通過点に過ぎない。

 契約は成された、後は代償を支払うのみ。

 もう一度時計を見る。変わらず針は時を刻んでいる。

 同じ事の繰り返し、この針が止まった時、時計はその役割を終える。

 その為に生まれ、その為に生きる。

 私もまた、そうであろう。

 むしろ私こそが、時計なのだ。



                                                               了




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