灯火の法


 灯火を点すにも一定の法が定められている。

 第一に人を暖める事。ぬくもりこそ最上である。

 第二に行く末を照らす事。道を照らし、導く事が使命である。

 三番目もあったようなのだが、今では失われてしまっている。昔は広く知れ渡っていたらしいのだが、だからこ

そわざわざ文字に残す必要性が感じられず、結果として忘れられる事になってしまったのだろう。

 案外、貴重なものではなく、ありふれたものの方が消えてしまうものなのかもしれない。

 とはいえ、一と二を守れば大体の役には立つ。今では三番目を気にする者の方が稀で、三番目がある事すら知ら

ない者も少なくない。

 それを嘆く者も居るが、その者達とて三番目を知らないのだから似たようなものだ。


 灯火を点す人は通称灯火師と呼ばれる。

 その名が示すように、元々は人から尊敬を受けていたらしいが、今ではありふれた仕事の一つでしかなく、人気

の職とも言えない。

 火を点す手段がありふれたものになってきた事もそれを助長する。

 昔は火自体が貴重であり、灯りを点すという行為自体が神聖なものであったのだが。今はもう誰でも火を点す事

ができるし、誰が点けても火に違いはないので、敬意を持つ理由が薄い。

 神秘性は失われ、ただの使いに成り下がっている。嘆かわしいが、それが時代の流れというものだ。


 灯火師の一日は灯火から始まる。

 つまり火を点ける行為である。

 だが前述したように簡単に火を点せるようになっているから、昔のような神聖さやありがたみは感じられない。

道具を使えば一分とかからないのだから大したものである。

 逆に言えば、そこまで進歩させるくらい火は人類にとって重要なものだという事だ。

 火を点した後はそれぞれが与えられた古ぼけた松明にその火を移し、消さないよう注意しながら街を歩く。

 そして街灯を調べながら火を点け直したり、消えないように修復したりする。この作業はなかなかの手間だが、

重労働という程ではない。誰でもできる仕事で、隠居した年寄りが多いのにはそういう理由もある。

 逆に若者には人気が無く、老人の趣味と捉えている者も少なくない。

 まあ、給金も安いし、若者が目指す一生の仕事というよりは、隠居した後の暇潰しと捉える方が合っているのか

もしれない。

 悲しい事だが、時代はそうやって変わっていく。必要性の薄れたもの、単純化された仕事からは少しずつだが確

実に人の興味が失われていく。例えそれがどんなに意義のある事でも、それがなければ人の暮らしが成り立たない

のだとしても、人の意識を変える事はできない。

 それでも必要なのだから不思議なものだが。では本当にこの灯火法が必要なのかと問われれば、あまり自信が持

てない。

 有れば便利なのは確かだが、無いからと言って代用がきかない訳ではない。そういう所もまた人気を失う理由に

なるのだろう。

 自分のやっている一々の事に意味を見出せなければ、人はそれに価値を持てなくなる。人とはそんな即物的な生

き物なのだ。

 街を一通り見て回った後は何をする事もなくなる。明日の用意と言っても知れているし、準備を必要とするもの

の方が少ない。

 昔はまだ火の取り扱い全般に関する注意をしたり、人々もまた大切な火に詳しい彼らを大切にしたのだが、火の

神聖性が失われていくにつれ、そういう役割を求められる事も無くなった。

 火を点ける事に労力を必要としなくなった今、火の専門家という仕事は必要でなくなっている。

 それもまた権威を失った大きな理由なのだろう。

 あれば便利かもしれないが、なくてもさほど困らないという状態は、とても軽く見られる。

 目指す者は皆無で、今現役である老人達が辞めてしまえば、彼らが最後の灯火師になるだろうと言われている。

 灯火師達もそれを受け入れ、個々の差はあれ、自分達の役割はもう終わったと感じているようだ。


 世の中には奇特な人が居るもので、若い青年が一人、灯火師になりたいと言ってきた。

 老人達は若さの気まぐれで一生を棒に振ってはならないと思い、真剣に諭したのだが、どうしても聞き入れてく

れない。よく解らないが、彼には灯火師にならなければいけない理由があるらしい。

 面倒見の良い者が一人、丁寧にその理由を聞いたが、教えてはくれなかった。

 老人達は青年の将来が心配だし、その理由も言えないので益々心配になって、何とか諦めさせようと頑張ってみ

たのだが青年は一向に聞き入れず、とうとう灯火師になってしまった。

 昔は試験を通らなければなれなかったのだが、今は権威も意味も失っているので特別な許可がなくとも誰でもな

れてしまう。一応試験は受けるがそれも形式的なもので、落ちる事はまずない。

 しかし老人達は最後の抵抗として、試験を正式なものとして厳しく審査してみた。ところがこれが抜群の成績で、

文句のつけようがない。

 火の知識から取り扱いまでしっかりと学んでいて、下手をすれば老人達よりも詳しいときている。

 不思議に思って色々聞いてみたが、それも答えない。彼の素性は一切話せないという事だ。

 こうなるとちょっと怪しくも見えてきたが、今時珍しく礼儀正しい青年であり、老人達に対する態度にも優しさ

と敬意がにじみ出ていて、これ以上引き止める事はできない。ともかくやらせてみようという事になった。

 老人達としてみれば、この青年も今は意地になっているだけで数日経てば飽きるだろうし、それで気が済むだろ

うと思ったのである。

 若い内は大抵何にでも反発するもので、飽きも早い。ころころ興味が移っては消えていく。何にでも興味を持つ

という事は、まだ何一つ興味を持てていないという事なのであり、灯火師になるという決意もその過程の一つに過

ぎないと考えた。

 こうして仕事を任せたが。青年はどの仕事も見事にこなし、長くやってきた老人達も目を見張り、鱗が流れてく

るような具合だった。

 老人達が間違って解釈していたり、教わっていた事なども発見され、珍しく彼らは意義のある時間を過ごす事が

できた。

 老人達はそれだけでもう満足で、これだけ真面目な青年ならば、もっと良い仕事についてその情熱と能力を存分

に揮ってもらいたいと思っているのだが。彼と接しているのはとても気分がよく、次第に孫のように思うようにな

っている内に、早一年という歳月が経ってしまっていた。


 この一年の間に灯火師は随分変わった。

 誰もが楽しそうに仕事をやるようになったし、青年によって新たな発見を与えられたり、一つ一つの仕事を丁寧

にし、心を配る事で自分の人生に意味を見出すかのような心持になり、今まで嫌悪すらしていた仕事が少しずつ好

きになっていった。

 そして彼らが生き生きとした表情で仕事をしているのを見、行き交う人の灯火師への見方も変わってきた。

 挨拶を気軽にするようになり、お互いを慈しみ、労わり合い。火とは全く関係ない事でも、誰かが困っていたら

率先して助けるようになって、それに感謝した人々も彼らを助けようと考えるようになった。

 人々は彼らがただの背景ではなく、生きている人間なのだと言う事を思い出したのだ。

 これは大きな変化であり、灯火師のあるべき姿であると言えた。

 灯火師は尊称であり、火を扱える者に対する敬意を示す名。つまり知恵多き、人の助けとなる立派な人だという証。

 そしてその広範な知識によって人々を教え導き、人々の前途を照らしてきたのである。

 これがつまり、第一と二の法。

 幸いな事に老人達は知識と経験だけなら売る程に持っていた。人の相談に答える言葉を、いくらでも持っていた

のであり、その活用法を知っていたのである。

 元々あるべき姿に還れる素養はあったのだ。後はきっかけだけであったが、そのきっかけが他ならぬ青年によっ

てもたらされた。

 こうして灯火師は灯火師としての役割を取り戻したのだ。

 しかし喜び浮かれる灯火師の中で、青年だけはどこか不満そうな顔をしていた。

 別に喜んでいない訳ではない。彼も一人の灯火師として嬉しいし、そのきっかけとなれた事に誇りを抱いている。

それは他の灯火師達と変わらない。

 だが違うのだ。彼が求めたのはそういう事ではない。

 彼は単純に失われた三番目の法を探していたのである。その為にこそ火を学び、自分を磨いてきた。あらゆる困

難に耐え、自分に打ち克てるように。そして灯火師としてあるべき姿になる事で、自然と第三の法が見えてくると

考えていたのである。

 だが答えは返ってこなかった。人々の喜びも、笑い声も、彼が究極的に求めていたものではない。言ってみれば

副産物であり、それを求める為の過程に過ぎない。

 だからどうしても満足まではできなかった。

 当然だろう。喉が渇いているのに、いくら豪勢な食事を与えられたとしても満足はできない。その食事がどれほ

ど美味であろうと、いつまでも渇き続ける。

 青年には水が必要だった。


 二年、三年と経ち、灯火師の名誉はふくらむばかりだったが、皆良い意味で枯れている為に大きな間違いを犯す

事はなかった。

 青年がしっかり目を光らせていたという事情もある。彼は第三の法を求める為、決して自惚れる事も態度を変え

る事も許さなかった。

 しかし勿論恐怖政治のような事を行っていた訳ではない。彼は何か感じる事があれば遠慮なしに言うようにして

はいたが、その声は優しく丁寧で、老人達を怒らせるどころか喜ばせるものであった。

 老人達も青年の事を尊敬し、それ以上に感謝するようになっていたから、少々の事を言われただけでは拗ねたり

などしない。むしろその声に応えたく思い、懸命に励んだ。

 彼らは気付いたものだ。年老いてから懸命になる事も、本当はとても楽しい事なのだと。

 懸命に生きるからこそ老いても益々自分の生に意味と幸福を持てる。これは得がたい発見であった。

 そして思い出す。全ての不幸は退屈と怠惰から始まるという事を。

 全てはほんの少しの事。それだけで、自分が少し動くだけで変わる。その喜びは老人達の心を満たすのに充分だ

った。

 だがそんな彼らも青年がふと見せる寂しげな顔に気付いていない訳ではなかった。

 何とかしてやりたいのだが、その理由が解らない。灯火師は昔日のように人々から尊敬されるようになったのに、

これ以上何を望むというのだろうか。

 彼には彼なりの苦悩があるのだろうが、それを悟るには彼らはあまりに年老い過ぎてしまっていた。彼らも青年

時代は経験しているが、この青年とは全くかけ離れていたし、何の参考にもならなかった。

 青年に話を聞ければ良かったのだが、あれだけ口にする事を嫌がっていたのだから、それを今また聞いてしまう

のは何とも申し訳なく思え、とても聞く事などできない。

 口惜しいが、結局彼らは青年の力にはなれなかった。


 十年、二十年、三十年が経ち。最初に居た老人達は天に召され、新しくきた老人達もその大半が天寿を全うした。

 今では灯火師になる者は若者の方が多い。それほど多くの人を必要としない職業なので、そうは言っても知れて

いるが。確実にこの数十年で灯火師に対する認識が変わり、子供が志すにも相応しいものになっていた。

 青年も老い、まだ老年とは言えないが、若いとは言えなくなった。

 彼は灯火師全体の長のような存在になり、あらゆる灯火師が憧れる対象となっている。

 しかし彼の表情は相変わらず晴れない。

 失われたものは時を追うに従って益々消え去っていくものであり、老いれば老いるだけ真実から遠ざかるような

気もし、彼も絶望するしかなく。でもどうしても諦めきれず、追い求め、悲愴なまでに彼の心を蝕んでいた。

 やるべき事は全てやってきたはずだが、答えはいつまでも出てこない。

 何かが間違っていたのだろうか。

 それとも、第三の法自体が存在しないのだろうか。

 解らないまま、時間だけが過ぎていく。


 青年が灯火師になってから、とうとう八十年という歳月が流れた。

 もう彼の若い頃を知っている者はいない。本当の友人と呼べる年代は先に逝き。彼もまた同じ場所へ逝かんとし

ている。

 身体に力が入らず、起き上がる事もできなくなった。食べる事も、飲む事さえ億劫になり、自分の生命力という

ものが日に日に尽きていくのが解る。

 どこかが悪い訳ではない。病にかかっている訳でもない。それは寿命であった。彼の生きる力そのものが、今こ

こで尽きようとしている。

 それは良かった。もう充分生きた。そろそろ眠る頃合である。

 しかし一つだけ悔いが残るのは、今になっても答えを見つけられていないという事だ。

 彼の人生のどこを探しても、納得のいく答えが見付からなかった。意義のある人生だとは思うが、その点がとて

も残念でならない。

 もう半分も開かなくなったまぶたをこじ開けては天井を眺め、日々訪れる沢山の人々の顔を見、優しく笑う。そ

れが日課であり、それ以外の事をする時間は無くなってしまった。

 最早仕事はしておらず、全ての責務も後輩に委ねた。時間はあるはずなのだが、彼にはもうわずかに見える目で

寝台の周りを見回す事しかできない。

 だから一日の内ほとんどの時間を記憶の中から答えを見つけ出す事に費やしている。

 それでも見付からない。

 彼にとっての水は、どうやら死を前にして尚与えられないようだ。

 だが諦められない。それは彼の人生の命題であり、生きる事の全てだったのだから。

 ならこの生は無意味だったかと言えばそうではなく。少し述べたように、この人生には満足していた。

 確かに求めていた答えは見付からず、常に絶望と共にあったが、彼はそれでも美しく生を全うしたし、彼を知る

者の大部分は同意してくれるだろう。彼を嫌う者もいるが、その者達だって死を目の前にしている老人に何をか言

えるものではない。口をつぐんで、精一杯の虚勢を張っていた。

 彼らもまた多くの人とは別の意味で老人を必要としていたのかもしれない。その言葉に異議を申し立てる事で、

自分の存在を証明しようとしていたのか。

 別の道を模索していたのかもしれない。同じ道では老人に勝てる手段がないから。

 嫌うのは憎んでいたのではない。彼らは老人になりたかった。そして勝ちたかった。認めて欲しかったのだろう。

 だから今となっては彼を虐(しいた)げるはずの言葉でさえ、懐かしくも愛おしく思える。

 彼らが居るからこそ、自分の言葉が輝きを帯びた。そんな風にも思う。

 この長い長い人生は、実に幸せなものだった。

 目をつぶれば記憶と共に様々な顔が浮かび、その誰もが笑っている。

 彼は人々にたくさんの明るい笑顔を与えてきた。彼の人生は笑顔と共に在ったと言っていいくらい、人々の笑顔

にいつも彩られていた。

 悲しい事も辛い事も沢山あったが、いつも最後は笑えていた。

「ああ、いい人生だった」

 今も彼は笑顔と共に在る。

 自分のやってきた事の全てを託せる相手が居る。それは何よりの喜びであり、幸せであった。

 悔いはない。全てに感謝したい。いい人生であった。

 命は尽きかけている。もう目を開ける力も、何かを聞く力も残されていない。自分は喜びに包まれて死ぬのだ。

これほど嬉しい事はない。

 後を心配する必要もない。彼の伝えた笑顔は、これからもきっと託した者達の手で伝えられていくだろう。そし

てまた彼らも喜びに包まれ安堵して人生に幕を下ろせるだろう。

 これはとても幸せな事だ。

「ああ、そうか・・・・・そうだったのか」

 そこで老人はようやく悟る事ができた。

 第三の法は後に伝える事、灯火を継続させていく事だったのだと。

 灯火はいつまでも点っていなければならない。現実にも、人の心にも、ずっとずっと輝き続けていなければなら

ない。

 つまりそれが最後にして最大の法。


 こうして老人はその生涯をかけて自らの問いに答えを出す事ができた。

 それはとても幸せな生だったはずだ。

 心からそう思える。

 そんなお話。



                                                             了




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