風、吹き流れる風。何処から生まれ、何処へ行くのか。身近にありながら、私はあまりにも彼らの事を 知らない。 常にこの肌を撫で、おそらくこの地上で一番私に触れるもの、生まれ出でてよりその手に抱かれていた もの。でも私はそれを知らない。 一番気になるのがその終り。風の行き着く場所。一体彼らは何処に行き、何処に消えるのだろう。 それとも永遠に流れ続けるのだろうか。だとすれば永遠に生まれ続けているように思えるこの風達は、 永遠に同じ風でしかなく。世界が始まった時からずっと同じ数だけ吹いていたのだろうか。 私はどうしてもそれを確かめたくなり、風を追う事にした。 流れるこの風を追っていけば、その後をずっと付いていけたなら、必ずそこに辿り着ける筈。もし終り が無いのだとしたら、私はまたこの場所に帰ってくる。答えがどちらでも、付いてさえ行けばそれが解る。 ただし一つ問題があった。それは私の足ではとても風に付いていけないという事だ。風はあまりにも速 く、すぐに見失ってしまう。どれだけ頑張っても置いていかれてしまう。これでは知りたい事が解らない。 そこで私は船を造った。風に乗る船を。この船に乗っていれば、その風が在り続ける限り、ずっと付い ていく事が出来る。風が私を導いてくれる。決して置いていかない。 完成するとすぐに帆を張り、出発した。早く知りたい。その想いに突き動かされるように。 急ごしらえの帆はそれでも身にいっぱいの風を包み、船は空を漕ぐようにして進んでいく。私は風と共 にある。 速い。あまりにも速い。これが風の速さ。風の見る景色。 私は飛んでいた。鳥のように、そして鳥よりも風に溶けて。みるみる私の居た場所、私の生まれ育った 場所が視界から消えていく。もうここが何処だか、あの場所が何処にあったのかも解らない。視界に広が るのは新たな景色、空という居場所、見知らぬ全て。それが私の求める道。 空を翔けていると風がありとあらゆる場所から襲いくるのを感じた。 まるで私という異物を排除するかのように、空を乱す怒りをぶつけるかのように、私の乗る風に向かっ て無数の風が牙を剥く。 船は悲鳴を上げ、心なしか私を乗せる風も苦しそうだった。しかし風は決して揺るがない。風の牙と牙 の合間を縫うようにして、必死に船にしがみ付いて震える私を笑うように、彼は優雅に飛ぶ。これが風の 力だと言うのなら、私は何という場所に来てしまったのだろう。 少し怖くなり、もう少しだけ後悔したが、それよりも不思議な勇気が湧いてくるのを感じていた。 風はいつもこの荒波の中を優雅に飛んでいる。つまり地上で私を撫でてくれていた風達は、皆歴戦の勇 者なのだ。だとすればそれに抱かれていた私にも、その勇猛な風の血が流れている。 だから私もまた勇敢であらなければならない。それが空に抱かれる資格なのだ。 私は背を伸ばし、下を向きかけていた顔を上げた。 誇りを持て、私はこの空を翔ける雄々しき風達の子。彼らの血を受け継ぐ者。 怒り狂う風が激しさを増し、私の船を引き千切ろうと荒れ狂ったが。私の乗る風は見事にそれを切り抜 け、最後まで私と船を護ってくれた。 そして嵐を抜けると、明るい日差しが私に降り注ぐ。 私はこの時初めて風もまた光を遮るものである事を知った。風もまた光を浴び、光に突き動かされるよ うにして空を巡る。我々と同じ形ある何かなのだ。 風は速度を上げ、高度を上げた。鳥よりも高く、雲を突き抜ける。雲をばらばらに打ち砕きながら飛ぶ 風は、あまりにも強く、あまりにも美しい。 雲の中から無数の水滴が飛び散り、光を七色に帯びて私達を彩る。 私はまるで虹になったような気がしていた。そして気付く。もしかしたら風の果てとは虹の果てなのか もしれない、と。 どちらも遠く限りないように見えるが、きっとそこにはいつもそれがある。ここに虹と風があるように。 風が虹を生むのなら、その目指す所は同じ筈だ。 風は終わり無く私を運び続け、何処までも何処までも高く、そして速くなっていく。 すると私の風の側で、追従するように小さな風が満ち、私達を押し上げるようにしていくつもの風達が 吹いた。そして次第に一つとなった我々は嵐へと姿を変え、強大な力を撒き散らしながら、それでも足り ないように速度を上げて何処までも進む。 追従していた風達は私達を終えなくなり、力尽きては離れていく。彼らはまた別の道を探し、別の世界 に行くのだろう。私はその先が気になったが、それを知る術はなかった。私を乗せるこの風、これだけが 今の私の道なのだから。 余りにも速度が増したせいか、ただ飛ぶだけで船が悲鳴を上げている。このままでは船自体が私を乗せ る風に壊されてしまうかもしれない。 私を乗せる風はいつの間にか余りにも凶暴になってしまい、私を小さな風同様捨ててしまおうとしてい る。私とこの船が異物である事を思い出したのかもしれない。そしてこれ以上速度を上げる為には、私達 が邪魔だと考えたのだろう。 私もまた恐怖を思い出していた。今船が壊れれば、私も何処へ落ちてしまうのか解らない。余りにも高 く、余りにも速くなった私は、もう止まれもしなければ、この船を降りる事も出来はしない。 必死にしがみ付いていたが、とうとう限界が訪れた。帆がそれを張っている柱ごと根元から折られてし まったのだ。 船は浮力を失くし、私を乗せたまま何処までも落ちていく。風はもう助けてはくれない。そうあるべき 無慈悲さで飛び去る。 私は去り行く風に、本当の自分を解き放った者の悦びを見た。彼は爆発的に速度を上げ、突風となって 空を切り裂きながら視界の果てに消えて行く。それは私が今まで見た事も無い姿で、私が邪魔者でしかな かった事を思い知らされた。 私は風ではない。地面にへばりつくだけの、ただの人間なのだと。 あれが風本来の姿。そしてその果てへと導く、風の力。それを追う事が出来ると考えた事が初めから間 違っていたのだろう。こんなちっぽけな船で付いて行けると信じた私は愚かであった。 そして何処までも落ち、然るべき場所へと衝突する。 全てが砕けてしまったかと思った。余りにも大きな音がし、余りにも大きな衝撃が私を襲ったからだ。 しかしまだ生きている。目を開けば空が見え、耳には風の奏でる歌が聴こえる。私は生きている。まだ この生という時間に取り残されている。 手を置き、起き上がろうとしたが無理だった。せめて首だけを動かそうとするがそれも動かない。生き てはいるが、風と共に行こうとした代償を支払わされた。 それでも時間が経つと少しずつ体に力が生まれ、もう一度立ち上がる事が出来た。 見回すとそこは私の見知らぬ場所、見知らぬ景色。私が以前想像した事のある世界の果ての風景に少し 似ている。 風はそんな場所にも当たり前のように流れていた。まるで自分こそがこの地上の、空の、万物の主人で あるとでも言うかのように。 私は頭を垂れ、風に祈りを捧げた。風こそが我が主。私は風の僕である。それを思い知らされたからだ。 風はあさはかな私を嘲笑うかのようにちょっとだけ頬を撫で、空へと消える。 私はそれを眺め、溜息を吐く。 それが全て。ここが私の終着駅。これ以上は何処へも行けない。 しかし諦めない。私は諦めない。必ずそこへ行くのだ。風の住まう、あの世界へと。 まだ、生きているのだ。
私はもう一度船を造ろうとしたが、しかしそれでは重過ぎると思い直す。荒れ狂う風に耐えるのは不可 能。軽くなければならない。何処までも軽く、いつまでも軽い。たんぽぽの綿毛のように柔らかく風に乗 らなければならない。 風に逆らえば落とされる。屈服させようとしてはいけない。ただそこにあるがまま、その流れに乗る。 それだけがきっと風と共に在る事を許される道。 軽やかに舞い、何者にも侵されず、流れるままに飛ぶ。雲のように、風と共に。 私はその為に大きな風船を作った。そして軽い羽を身に付けた。もし風船が弾けても、私だけは飛び続 けられるように。風船は空に上がる為の手段に過ぎない。 そして私は待つ。風の訪れるのを。 強く、そして激しく、天へ貫く雄々しき風が吹く時を。 幾条もの風が吹いては過ぎ去っていく。この程度では足りない。か細い糸のような風では、私を空へ導 く事は出来ない。あの天へ届く事はない。 風船が風に揺らぐ、私はそれを押さえつける。まだだ、まだだ。 風が変わり始めた。抵抗する私を嘲笑うかのように、逆らう者には容赦しないと叫び、抗すれば抗する だけ牙を剥く。その事は充分学んだ。 止まる私に報いを与える為、幾条もの風が絡まり、竜巻のように一体化し始める。それは巻き起こる全 ての風を内包し、際限なく高まっていく。あの時の風と同じだ。 遂に抗しきれなくなった。私は風船と共に天へと吹き上げられ、一瞬で天にまで達し、再び空に溶ける。 空と一体となり、私は遥か天空の中に浮いている。 そんな私に止めを刺すかのように、風はまたしても無慈悲に牙を剥く。 風船が耐え切れず弾け飛んだ。破片が無数の異物となって、以前の私のように風に翻弄されて音も無く 消えていく。まるで初めから存在していなかったかのように。 私は羽を広げ、風を優しく抱きしめた。薄く輝く羽は私を上手く風に乗せ、荒れ狂う風に揉まれながら、 しかし何も害される事なく浮き上がらせる。風も抗しない者には優しい。 荒れ狂ったままの風もこうして見れば頼もしい味方だった。この背に乗る限り、もう二度と落ちる事は ないだろう。 風が私の全身を支え、何一つとして無理はなく運んでくれる。何処にも負荷はかからない。強かろうと 弱かろうと、この柔らかな羽はその分だけ浮き上がる。逆らいはしない。強まれば上がり、弱まれば下が る。決して消えぬ風がいつまでも私を飛ばし続ける。 風は勢いを増し、私を天へ押し上げる勢いで四散した風達を取り込んで大きな一つとなった。そして竜 巻になってもう一度私を突き上げる。恐ろしい力だが恐怖はない。風は私を導こうとしているのだ。 雲が弾け飛び、空には風だけが在る。 雨も何も存在する事を許されない。この揺るぎなき力の前には何者も無力。風に抗する者は全て吹き消 された。 しかし私だけは違う。私もまた風なのだ。彼らと同じ雄々しき風。私は空へ帰ってきた。 両手を広げ、羽をはばたく。加速し、弾丸のように空を切り裂く。私は風。空の王。何者も私を邪魔す る事は出来ない。 私は風を置き去りにした。 最早必要ない。私を押し上げるだけの、私に追従するだけの風は要らない。私はもっと上へ、もっと先 へと進む。誰も止められはしない。例え風そのものだろうと。私は全てを越え、そこへ辿り着くだろう。 はばたく度に加速し、私という風は荒れ狂う嵐となって空を蹂躙した。 私こそが王。この空の支配者。揺るぎなき風も、私を乗せるだけの従者に過ぎない。どれだけ吹こうと、 どれだけ荒れようと、私は常に彼らの上を行く。身にまとう羽は王者の証。 「ひれ伏すがいい」 嵐すら私の前では無力だった。私の心は風そのものになり、ただ飛ぶ事だけを考えている。 私は自分が人である事すら忘れ、高揚する心のままに飛んでいた。この時には空に上がった理由も忘れ ている。私はただ吹き荒ぶだけの風なのだ。 より高くより強い風を目指しながら、常にその上に立ち、更に加速、高度を上げる。身が引き千切れる ように感じたが、それすら今の私には悦びでしかなかった。まるで肉体という束縛を剥ぎ取られるかのよ うに感じたのだ。 肉体など邪魔でしかない。重さは罪。天を行く我々には必要ない。こんなものは、捨ててしまえ。 しかしどう感じようとも私は人でしかなかった。 ただの人間。肉の塊。大地に縛り付けられた、それだけの人。私は、いや私の祖先は空よりも大地を選 んだ。この速度よりも大地に立つ重さを選んだのだ。 私の体は次第に耐えられなくなり、皮が裂け、血が流れ、赤く、赤く染まっていく。 それでもはばたいた、力の限りはばたく。この開放感を失いたくない。その為には痛みなど何でもない。 何を失おうと、ここから落ちるのだけは嫌だ。 「嫌だ!」 だが私の肉体はそれを許さなかった。肉体を傷付けるだけの私に向かい、とうとう牙を剥く。風が私に そうしたように。肉体にとって精神である私は、空へ向かおうとする私は、異物でしかない。 肉体はその本来の重さを取り戻し始めた。 私の重さに羽は耐え切れず、空に屈し。私は投げ捨てられた何かのようにただ速く、どこまでも速く、 大地へと落とされていく。 余りにも速過ぎた私の肉体は火を帯び、血よりも赤く燃え上がり、その身を怒りの炎へ変えた。 そして私の肉体は塵となり、燃えかすとなって空に散りばめられる。それは花火のようには美しくなく、 憐れな光が瞬くのみ。私の最後は愚かな私に相応しく、憐れなものだった。 風が嘲笑うようにして最後の残骸を吹き消し、私という存在は空に溶けた。 失われたものはもう戻りはしない。私の全ては失われたのだ。 肉体から解き放たれた筈の私の心は、しかし風にはなれない。私は風ではない。ただの人間。どこまで もそれからは逃れられない。 だが求めていたものは思い出し、その答えを理解した。 風となった私の辿り着く所、それは空であり、風の中。 風の行き着く先は風の中。人が人の中で死ぬように、風もまた風の中で溶けるのだろう。 それが風の終着駅。そして全ての終着駅。 死という終着駅。 そこは私を包み、安楽に落ちていく。どこまでも。どこまでも。とこしえに。 |