とまどいの尾根


 とまどい、不可思議な感覚である。

 対処の方法が解らず、おろおろと行方を見失う。つまりは自分の許容範囲を越えている。逆に言えば自

分の限界を知る術の一つなのかも知れない。

 ようするに帰るべき家、つまり自分の居る場所を見失う事。戸惑うとはそのような意から付けられたの

かと思える。

 誰が付けたのか知らないし、その誰かが意図したかは解らないが、この名は非常に哲学的な事から来て

いると言えよう。

 だがこれはあまり良い言葉では無い。時には侮蔑の意味を伴う程の言葉であるが、しかしこの戸惑いの

状態以上に有用なモノは無いかも知れない。

 この戸惑いについて今回は話してみるとする。

 まずここにある旅人が居ると仮定してみよう。

 男でも女でも構わない。歳や背丈も何でも良い。自由に想像していただきたい。

 だが一つだけ忘れてはいけない事がある。あくまでもその存在は旅人だと言う事だ。この一線だけは違

えてはいけない。くれぐれもそこをお願いする。

 その旅人が見知らぬ土地に出てしまった。

 得てして旅人と言うモノはそう言うモノであるが、しかしその中でも先の見当もまったく付かず、迷子

と言う意味の見知らぬ土地だと、今回は考えてもらいたい。

 当然この旅人はうろたえる。つまりは戸惑ってしまうだろう。

 無論、世の中にはまったく言って戸惑わない種も居る。いや戸惑う所が常人と違うと言った方が良いだ

ろうか。この場合、そう言う種の人間は省かせてもらう。

 それよりもむしろ、むしろ恐怖を多量に持つ人間を想像してもらいたい。

 その人物であれば、確実に戸惑うだろう。

 これは災厄であり、不幸である。誰しもそう思うし、実際そうでしかない。

 しかしそこでそう断定せず、いっそこの戸惑いを乗り越えてしまってはどうだろうか。

 この場合はそれを、取り合えず進んでみた、と仮定しようか。つまりは進むと言う行為によって、この

旅人は戸惑いから解放されたと言える。自ら道を選択したのだ。

 そして進む。しかし進んでも進んでも、相変わらずここが何処かも解らない。

 当然、再び戸惑う。

 だがここでもそれに敢えて反してみようか。

 今は夜だとしよう。そして思い出したとする。この夜空には、北極星と言う道しるべがある事を。そし

て旅人は進んだ、北へ、北極星を目指すように一心に。

 その結果、この旅人は街道に出、無事旅を続行出来た。めでたしめでたし。

 勿論こんな上手い具合にいく事はそうそう無いだろう。

 だから例えの話である。リアリティなどの問題は今はただ流して欲しい。

 まあそれだけの話である。

 いやいや、だからと言って焦るな。まてまて、ここからだ、ここからが本題となる。

 つまりは何が言いたいと言うと。この旅人は戸惑いによって成長していると言う事である。

 それは普段よりも、より頭を使ったのだと言い換えられる。

 我々の成長と言うのは、もしかすればこういう事なのでは無いだろうか。

 戸惑い、自分の許容外の事に接してしまった。しかしそこで常よりも少しだけ考え、それによって例え

無謀なものであっても答えを出した。

 例えそれで上手くいかなかったとしても、それを学習し、もしもう一度同じ事態にあえば、もっと上手

い方法を考える事が出来るに違いない。

 これこそが成長ではないか。つまり戸惑いの中で答えを出す。自分の居る場所を新たに創り出してしま

う事。それで自分の存在出来る場所が広がれば、当然自分が出来る事も広がるというものだ。

 そしてそれは無限の可能性を秘めている。

 冒頭で不可思議な感覚と言ったのはそれである。

 矛盾、そうではないか。迷うからこそ新たな道が拓ける。これを矛盾と言わずしてどう言うべきか。

 しかしその矛盾を成せる力こそが、人間の最も恐るべき力、成長と言うものなのかも知れない。

 ようするに諦める事を知らないと言う事であろうか。つまりはしぶといのだ、人間は。

 いやいや、そうだ。その通り。

 これは単なる戯言に過ぎず、またこれを実証も出来まい。各々の経験から察するしかなく、その経験が

バラバラであるから、証明は出来ない。それに確実性は無いのだ。それをしたから必ず成長出来るとは、

御世辞にも言えない。

 だが諦めなければそれは叶う、初めてそれを口にした者はこう思ったのでは無いだろうか。例え可能性

は不可能に近いとしても、少なくとも諦めない限りは零にはならないのだよ、と。

 そして不可能とは誰かが決める事ではなく。本人が結果で決めるモノだと。

 こう思えば何だか面白く思えないだろうか。

 いやいや、そう言わずにもう一度考えてみるといい。きっと楽しいはずだ。無限に広がる可能性、それ

こそが人の夢であり、人の夢以上に楽しい事は無いと思う。

 そのはずだ。多分。

 だから大いに迷おうでは無いか。

 迷いすらすてて、素直に諦めてしまうより。いっそずっと迷っていればどうだろう。例え道が見えなく

とも、迷えるのならまだ道はある。

 それに例え確立が1%でも、それは百回やれば必ず一回は成功すると言う事に他ならない。だから確立

が解るという事は、いずれは必ず成功する証拠だとも言える。

 

 おや、嫌か。ああ、そうだろう。百度もし続けるなどと、辛いとしか思えない。それに人生一度しか機

会の無い事も多々ある。その場合は諦めようが無かろうが、もう二度とチャンスは無い。

 だから勧めはしない。

 しかし一度くらいはやっても良いかもと思わないだろうか。もしかすれば、とても楽しいかも知れず。

また、大いなる成功を掴んでしまうかも知れない。

 それに言うでは無いか。宝くじは、買わなければ当たらない、と。

 まあ、そうだ。この言葉は少し違うと思う。でもあれだ、あれ。そうそう、語感で想像して良い方に巧

く受け取って欲しい。

 そして人間は先が見えないから楽しいと思えるのだと、その事も忘れてはいけない。つまりは道の行き

着く先が見えないから、冒険心が、好奇心が起こるのだろう。

 なんだ、そう考えれば戸惑いも、ただの楽しみの一つでは無いか。

 そう思えば、もう先が見えてしまう。もう面白くは無くなってしまった。残念だ。

 まあでも楽しみだから良しとしよう。戸惑いに戸惑ったおかげでまた一つ成長したのだと、そう思って

満足する事も出来る。 

 ああ、違う違う。深く考えてはいけないな。これはただの雑談である。

 結局はそれだ。何が言いたかったかといえば、深刻に考え過ぎるのは楽しく無いと言う事だよ。




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