ツッコミらない師


 薄暗い街角、高架橋の下、静けさに沈み込むようにして一人人影が座っている。

 小さな机と小さな椅子。そしてその机の上に置かれた水晶らしき球。それだけが薄明かりを浴びて光っ

ているように見え、薄寒い光景に一片の明かりを灯している。

 黒い衣装に全身を包み込み、女なのか男なのか、歳はいくつなのか、背格好や髪や目の色、全ての特長

が何一つ解らない。

 解る事といえば、この人影がここで何かをやっているという事、そして客を待っているという事だけだ。

 寂しいこの界隈には一日中誰も訪れない事が多い。人知を超えた何かに導かれるように、或いはこの人

影に会う為に、そういった理由がなければ来ないだろう。気が向いたから訪れる、というような場所では

ないのである。

 しかし人影を訪れる客は存在している。こんな場所にでも足を運ぶ奇特な客が、どこの世界にもいるも

のである。その数は少ないものの、この人影を必要とする人が世界には極少数だけ存在する。

 そして今日も誰かが人影を訪れる。

 それはふくよかな女だった。それがどこまでふくよかなのかは重要ではない。それが一目見るだけでそ

うと解る程のふくよかさで、そうでありながら必死にそれを隠したがっている事が重要である。

 まだ冷え込む前だというのに全身を覆う格好をし、その上でまるで自分を抱きしめるように体を縮めよ

うとし、少しでも自分を細く小さく見せようとしている。

 それがかえってその女を目立たせ、その体形に注目させる事になるのだが、本人はその事に気付かない

ようだ。それだけ彼女は必死なのだろう、彼女なりには。

「あのう、友達に聞いてきたのですけど」

「失礼ですが、紹介者のお名前を」

「須田、須田恵です」

「須田、恵、さんですね。確かに承っております。ささ、こちらの椅子をお使い下さい」

 女は指された場所を見ても、椅子なんて物は何処にも無い。そこには小さな石が転がっているだけだ。

不審がってじっくり人影の手を満遍なく見ていると、一本の指だけがある一点を指している事に気付く。

 それは確かにその小さな石を指しているのであり、ふくよかな女は意を決してそこに腰を下ろした。

「あいたッ」

 ゆっくりゆっくり腰を下ろそうとしたのだが、筋力も平衡感覚も足りないふくよかさのせいで、ある一

点を越えると堪えきれず腰が一気に落ちてしまう。そんな女に対してこれは惨い仕打ちだと思われるが、

女は慣れているのだろう、一切抗議する事はなかった。

「それでですね」

「はい、何でも仰って下さい」

「それで、ええと、あの・・・」

「心配なさらなくても誰にも言ったりはしません。絶対に口にはしませんから、ご安心下さい。・・・・

・・・まあ、文字にしたりはするかもしれませんが・・・・」

「え、今、いま、何ておっしゃったんですか」

「いえいえ、こちらの話ですよ。ささ、先をどうぞ」

「はあ、では、そうですね、折角来たんだし。ええっとですね、実は私悩んでいまして」

「いやいや、はっはっは、そんな事は至極存じておりますよ。ささ、その次を」

「えッ、あ、はい。そ、それでですね、それでその悩みというのが」

「はいはい、その体形についてですね。解ります、解りますよ、貴方くらいのお歳の方にとってそれは」

「え! ち、違います、違います。そうではなくて、私の友達の話なんですけど」

「そうでしょう、そうでしょう。人は誰しも認めたくないものです。ましてやそれを他人に話す事なんて

とんでもない。だから友達と言う便利な表現をお使いになる。皆さんそうです。しかしですね、例え話し

難い事であられても、正直に話していただかなければ、私共と致しましても」

「え! ち、違います。違いますよ。友達が結婚したので、それを見て私もそろそろと思いまして。それ

で今の彼氏と結婚したらどうなるかっていう」

「大丈夫です。解ってますよ。全て解ってます。そうですね、ではお話をお聞きしましょうか」

「えーと、今ので全部なんですけど」

「ふうむ」

 人影は水晶に手を当て、呼吸をゆったりとしたものへと変えた。それが意識してなのか、無意識の内に

した事なのかは解らない。

「それではその男性との出会いからどうぞ」

「ああ、そういう事ですか。そうですよね、ちゃんと話さないと解りま」

「ささ、お早く!」

「ひッ! す、すいません。すいません」

「なるほど、出会いはすいませんからですか。これは運命とやらをびしびし感じます。感じますね。うー

ん、良いですよぅ」

「え、ち、違、え、あ、そうだ、それでも良いんだ。それで何度か謝る内にあたたかく接してくれる彼の

事が好きになって、それで思い切って告白したら、あっちもそうだと言ってくれて」

「なるほど、告白して、そうだと」

「はい。それからは幸せな日々でした。彼とバイキングに行ったり、ハイキングに行ったり、バイキング

に乗ってみたり、ジョギングしているのを見守ってみたり、バイキングになってみたり、ショッキングな

事実に遭ったり、バイキングとして名を馳せたり、ダッキングしてうまくかわしてみたり」

「なるほど、さては重要なのはキングですね。よく解ります、解りますよ、貴女の事は、全て」

「それでそろそろアジトも手狭になってきたので、引っ越そうって。だからこの機会に・・・なんて私は

思っているのですけど、でもこのまま続けていいのか、このままでいいのかって思ってしまって」

「ふうむ、確かにこの辺は家賃が高いですからね。ああ、そういえば最近また上がったなあ」

「ええ、そうなんで・・・、いえ、それもそうなんですけど、違いますよ。お金の事は良いんです。充分

稼ぎましたから。それは良いんですけど、肝心な彼の気持ちが今ひとつなんて言うんですか、このまま二

人でやっていけるのかって、そんな感じで。そろそろバイトとか雇って人数増やしておかないと、他のバ

イキングに共食いされてしまうんじゃないかとも思ってるんですけど。だからこんな時期に結婚するより

ももっと落ち着いてからって」

「なるほど、共食いですか・・・。では貴女は主に豚を食されておられると」

「はい、豚と言いますか、肉が好きで。あ、でも最近はちょっと控えているんです。どうしても干し肉と

か塩漬けとかが多くなるので、栄養が偏ってしまわないようにって、彼が」

「なるほどなるほど、確かに貴女の体重は非常に偏っておられる」

「え、やっぱり偏ってますか」

「ええ、確かに偏ってますね。それがどれだけっていうよりは、もう貴女そのものが偏っておられる」

「じゃ、じゃあ、やっぱり」

「はい、もう少し冷却時間を置いて」

「解りました。ありがとうございます。大事な事ですもんね。焦って今すぐ決めなくても」

「そうです。もう少し時間を置いて、肉からは暫く遠ざかって置かれた方が」

「そう思ってたんです。でも友達が結婚したから、何だか焦ってしまって」

「ええ、そうです。そういう席にいくとどうしても太りやすいものを食べる事になりますのでね」

「解りました。ありがとうございます。おかげですっきりしました」

「はいはい、無事すっきりした体形になられたら、いくらでも食べれば良いのですよ」

「これからも一生懸命略奪していきます。あ、もう行かなくっちゃ。そろそろ出航だわ。本当にありがと

うございました」

「ええ、ええ、体を動かす事はとても良い事ですから」

 女は朗らかな顔で駆けていく。これで少しは体脂肪も燃焼されるだろう。それが体積に比して極々僅か

だとしても、それは確かに燃えて減少していくのである。

「どうぞ御贔屓に」

 人影は女が去った後、残った小さな石に向かい静かに頭を下げた。それが頭かどうかははっきりとは解

らないが、その位置と下げ方から言って多分頭だろう。それがもし腰だったとしたら、えらい体形だと言

うしかない。

 そして夜は暮れていく。

 人影は人影のまま夜に紛れ、朝闇に消えていく。

 人影の仕事はいつでも終わらないし、始まる事もない。

 次に足音が聴こえる日は、いつの事か。




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