繋がりの木


 この地にある木は皆繋がっている。

 比喩ではなく、文字通り枝と枝でしっかりと繋がれている。一体化していると言ってもいいかもしれない。

 そうして木々は養分を分け合い、助け合って生きている訳だ。

 しかし場所は限られているので、木々の数が増え、大きく生長してくると、枝だけではなく、幹まで一体化し

てしまうか。もしくはある程度の大きさのままで抑えるか、の選択をしなくてはならなくなる。

 その場合の反応は木によって様々だ。一生を共にしようと思う木も居れば、いくら枝が繋がっていても、そこ

まではできないと思う木も居る。

 意見の相違(そうい)によって諍(いさか)いが起こる事もある。

 一方が同化を望み、一方が今のままを望む。これは決して相容れぬ選択であるから、どちらかが必ず我慢しな

ければならない。一本一本の木に意思がある事が、この場合は悪い方に働く。

 それにこういう諍いは当事木だけではなく、周囲の木にも大きく影響する事だから、他木事ではいられない。

 木であれ、何であれ、相手を思いやる気持ちがなければ繁栄を続ける事はできないという訳だ。

 そこで皆が繋がっているのを幸いに、諍いは全て多数決で決めてしまう事にした。養分と一緒に自分の意志を

送る訳だ。

 集計は面倒に思えるが、二択だから難しくはない。同化賛成は意志を一緒に送り、同化反対は何も送らない。

そんな具合で時間さえかければ何とでもなる。

 問題になるのは集計する木を誰にするか、という点だ。中にはずるしたり、いい加減な事をする木も多いから、

しっかりと木選しなければならない。

 そこで集計木はこの木々の一番元となっている木、母木とも呼ぶべき最も大きくて古い木が選ばれた。この木

なら皆相応に敬意を払っているし、位置的にも丁度森の中心にある。母木以上の適任木は居なかった。

 年齢のせいか最近ちょっとぼけてきているのが心配だが。集計する程度なら何とかなるだろう。公平でさえあ

るなら、ちょっとやそっと時間がかかったくらいで怒る木は居ない。

 何しろ木々には無限にも等しい時間がある。

 枯れても養分となって他木の一部となり、そしてまた新たな芽となって生まれてくる。そういう循環を繰り返

して森は大きくなった。森がある限り、木々の命は無限であるとすら言えるかもしれない。

 そしてそこまで関係が深いからこそ繋がっていられるのだろう。

 誰もが誰もの意志と栄養を持っている。どの木も自分であり、自分ではない。そういう不思議な共生関係が木

々を一つの大きな森として生かしているのである。

 だが中にはこういう状態に我慢ならない木も居るようだ。

 この木々はとにかく必要以上に繋がる事を好まない。同化にも批判的だ。

 極端に言えば、一本一本独立したいと考えている。

 この状態が長く、今更一本になっても一本で枯れ果てるしかないだろうから黙っているが。だからこそその不

満は日々大きくなり、その言動にも大きく影響するようになっているのだろう。

 なるべく多くの木と繋がっていなければならないからこそ、それを不満に思う。哀しくも、呪わしく思う。決

してこの状態を望んでいた訳ではなかった。生まれた時からこうだから、仕方なく受け容れている。そういう気

持ちはえてして悪い方へ行きがちである。

 そういうやり場の無い気持ちをどの木も多かれ少なかれ持っているのか、個木主義というものが木々の中で流

行っている。

 全体として生きるしかない中でも、個々木の意志をもっと尊重しよう、という考え方である。

 これは一時大いに流行り、最盛期は何となく参加している木の方が多かったにせよ、実に全体の半分近くの木

がこの主義に賛同していたと言われている。

 だがそうなると反発したくなるのが木情だ。

 個木主義が大きくなるにつれ、全木主義というものを提唱する木が現れてきた。

 これは個木主義とは反対に、できるだけ全体的になろう、その為には積極的に同化しよう、という考え方である。

 全木主義は母木が賛同した事もあって個木主義以上に流行り、最盛期には全体の三分の二が参加していたと言

われる。

 その裏には同化を進め一本でも木を減らそうというある勢力の思惑があった、という噂もあるようだ。

 こちらは母木主義と言われるもので、最終的には皆同化して一本の母木に戻ろう、という全木主義を更に進め

た考え方である。

 ただしこの主義は願望というのか、懐古主義にも似たおぼろげな感情のようなものであり、実際にはそれほど

積極的に何かをやろうとする木は居なかったようだ。

 なのでこの陰謀説は個木主義が全木主義の評判を貶(おとし)める為にでっち上げたものではないか、という

説が有力である。

 その真偽は定かではないが、この陰謀説の効果は大きく、全木主義の印象は悪くなり、全体の五分の一程度に

まで減少した。

 では再び個木主義が流行ったのか、と言えばそうでもない。個木主義は全体の六分の一程度になり、むしろ減

少してしまっている。

 最終的に最も流行ったのは、今のままで別に良いんじゃないか、無理して何かを主張する必要はないのではな

いか、というどこにでもありそうな考え方であった。

 色々やってみたけれど、結局それが一番いい。

 そんな感じで落ち着いてしまったようだ。

 こういう主義主張は一時の遊びのようなもので、大体はすぐに冷めてしまう。

 物珍しさから一時は流行るのだが、それだけのものだ。

 中にはそんなものに命までかけようという木もいるようだが、木は動けないので大した事もできない。平和な

ものだ。

 これが動いて行動できていたらと思うとぞっとする。

 動けない木で良かったと心から思う。

 そんな風にして木々は変わったようで変わらない、変わらないようで変わりながら長い長い時を生きた。


 そんな森にいつしか動物が住み始めた。

 リスである。

 彼らは木の皮をがりがりやって引っぺがしたり、うろの中に勝手に住み着いたり、葉っぱを千切ったり、木の

実を取ったり、色々してくれるが。種を色んな場所へ運んでくれるし、何よりリスを見ているのは面白かった。

 木々は皆どこか退屈していたのである。

 主義主張などというしょうもない遊びに興じたのも、ようするに退屈だったからだ。

 そんな木々にとって、リス達は迷惑どころかありがたい存在だった。少々の乱暴など許容範囲という訳だ。

 このように木とリスは共存し、共栄していったのだが。その内厄介な問題が生まれてきた。

 それは主にリスが巨大化した事に原因がある。

 豊富なえさと天敵が居ないという安全性から、リス達は次第に大きくなり始め、終には最初の体格の倍近い大

きさにまでなってしまった。

 その上数も増え、森からあふれ出さんばかりにまでになっている。

 当然食べ物は足りず。木の実は枯渇し、木の皮、木の葉も軒並みはがされ、それでも足りなかったのかリスは

枝まで食べ始めた。

 さすがに黙ってはいられなくなり、木々は何とかして止めようとしたのだが。木がリスに意思を上手く伝達で

きる手段は無い。

 動く事もできないので、結局はされるがままにしているしかなかった。

 リスはその後しばらくの間猛威をふるったのだが。リスも大きな枝までは食べられないし、食料が尽きた以上、

このまま森に居ても飢えるだけなので、森に見切りを付け、来た時と同じようにどこからともなく去っていって

しまった。

 残されたのは禿げ上がった木々。

 惨めな姿、と思うのは我々の了見であって、木々からすれば何でもない。幹と根が残っていれば、後は飾りみ

たいなもの。

 中にはリスが傷付けたせいで枯れた木も少なからずあったのだが、そのくらいでは木々全体の存亡には影響し

ない。むしろその程度で済んで、木々はほっとしたのだった。

 そこでめでたしめでたしといきたい所だが。一つ大きな問題が残されていた。

 以前は全ての木々が繋がれ、一つであったのに。リスが食い散らしたおかげで枝が分断され、いくつかの集団

に分けられてしまったのだ。

 枝と枝が離れてしまっては意思疎通もできないし、一番大事な栄養供給もできない。

 こうなると一つであるという意識は薄れ、それぞれの木々は次第に完全に別の集団として機能し始め、盟主を

いただいて独立してしまったのである。

 一番大きな勢力は母木を中心とする集団。この集団が一番多くの木を擁(よう)し、思想も生き方も以前の全

体としての木々のものをそのまま持っている。しかしだからこそ自分達が本家という頭があり、排他的で、多く

の木が他の考えを許そうとはしない。

 頑固木が多く。中には柔軟な考えを持つ木も居るのだろうが、そういう意見は外へもらせないようになってし

まっている。母木を中心にしているが、母木の意思とは最早別の意志を持っていると言えるのかもしれない。

 不思議な集団である。

 二番目に大きな勢力は、姉木と呼ばれる木を中心とする集団。これがとにかく母木集団に反発していて、全て

の事において母木集団と反対の事をしようと考え、実行している。

 ただし母木集団以外の考えには概(おおむ)ね寛容で、懐の深い所もあるようだ。

 三番目に大きな勢力は、妹木と呼ばれる木を中心とする集団。前に出る事を嫌い、争う事や対立するという図

式自体を嫌がっている。

 とにかく平穏に生きられればよく。ある意味で母木の思想に一番近い。

 四番目に大きな勢力は、姪木と呼ばれる木を中心とする集団。この集団は母木、姉木、妹木の三勢力以外の集

団の総称とも言え、それぞれが小さい集団なので、とくに争う事もなく、また争う必要性も力もなく、日々を必

死に生きている。

 それはあるがままの自然な姿と言えるのかもしれない。

 それぞれの小集団で違った思想があるようだが、前述したようにその事に大して意味は無く、平和なものだ。

 こうして母木集団対姉木集団、その争いの動向をうかがう妹木集団、そしてそのどれにも組せずいつも通りや

っている姪木集団、という図式になるかと思われたが。互いの集団は分断され、繋がっていないので、現実には

何もできないようである。

 結局、そのままそれぞれに色々とやりながら、表面上は平和に暮らしたという事だ。

 この木々は一体何の為に、どこの誰と戦っているのか。

 そんなお話。



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