忍道と武士道


 わしは忍ぶ者、陰に潜んで為し難き事を為す。それが我が使命にして生きる道。

 誰にも知られず、誰にも悟られず。陰に在り、陰そのものになる事こそが忍の道である。

 今も天井裏に潜み、ある一人の武士を覗き見ている。

 決して意味無く覗いているのではない。興味本位ではないのだ。考えても見られよ、男の部屋を覗いて

一体何が面白いというのか。わしの個人的尊厳を護る為にも、それだけは明言しておきたい。

 ならば何故こんな面白くも無い事をしているのか。それはこの武士を暗殺する事が我が任務だからであ

る。即ちわしが忍である証、仕事をしているのだ。

 この男に恨みは無いが、依頼を受ければしくじる訳にはいかぬ。必ず死んでいただく。でなければ仲間

にわしが殺される。受けた以上、逃げも隠れも出来ぬ、それもまた忍道。

 名も知らぬ武士。始めは楽だと思うたが、この男、やけに隙が無い。

 今は天下も定まり、それ故にほとんどの武士、忍が職を失ってしまい。今は名も無き者として下働きす

るのが精々。真に嘆かわしい事だか、このわしも今はこうして名も知らぬ武士を暗殺、闇討ちするが仕事。

昔のように城に忍び込み、殿様の寝面を笑いながら拝むような真似は出来ない。

 だがわしはまだ良い方だろう。ほとんどの者は乞食同様の暮らしか、或いは下男として忍びのしの字も

使えぬ有様。悲しいがこれもまた時代の定めというやつか。

 この武士も、せめてもう少し早う生れておれば、或いはもっと違う生き方が出来たかもしれぬ。

「だれぞ、そこに居るのか」

 何という事だ。このわしが気付かれてしもうたらしい。この武士への憐憫の情が、皮肉にもわしの気配

を悟らせる事になってしまったのか。このわしも落ちたもの。乱世を生き抜いた忍も、太平に塗れればこ

の体たらく。嘆かわしい。

「忍でござい」

 なれどわしにも意地がある。こうなればざっと斬り合い、華々しく散ってくれよう。忍として生きられ

ぬのならば、最早わしに生きる術はない。

 天井裏から階下へ滑り落ち、最後の維持で武士の背後を取った。この位置で仕留められなかった事は無

く、わしの必勝の瞬間である。しかし今のぬるいわしで、昔と同じように出来るかどうか。

 まともにやりあえば、忍が武士に敵う法は無いのだ。気付かれている以上、わしの優勢もとうに消えて

いる。この一手が最後の勝機。

 だが願いは虚しい。わしが動く間もなく。

「武士が背をとられる訳にはいかぬ」

 目にも止まらぬ速さで武士が振り返り、わしをきっと睨んだ。

 もしわしが刀の届く距離に居れば、おそらく今の間で真っ二つにされていただろう。やはりこの武士、

只者ではない。

 しかしそれはそれとして、わしにはもっと気掛かりな事がある。

 斬られるのはまだ良いとして。

「忍が真正面から見られる訳にはいかぬわ」

 それが忍道、忍足る者、決して己が姿を人にさらしてはならぬ。

 衰えたとはいえ赤子の時より鍛えたこの脚力、宙返りして一跳びに背後をとるなどは造作も無い。気配

を悟られはしたが、まだまだ体術で忍以外の者に遅れはとらぬ。それに背後さえ取り続けられれば、勝機

もまだ残る。

 されど武士も然る者。この者にも意地があるのだろう。

「侍が背後をとられてはならぬと、そう言うておろうが」

 再び疾風の如き速さで武士が振り返る。この回転の速さだけは、流石のわしも負けそうだ。

 しかし。

「そうといわれて、忍が姿を晒す訳にはいかぬ」

 当然、わしは再び宙を跳んで武士の背後へと移動する。

「だから、武士道に反するというに」

 武士がくるりと振り向く。

「いやはや困った御仁じゃ、忍道に背くというに」

 わしは跳ぶ。

「お主もわからんやつだな。拙者は武士、武士は武士道あっての武士。背後をとられては飯が食えぬ」

 くるりと武士。

「馬鹿な事を言う。そんな事をすればわしはおまんまの食い上げじゃ。武士なら武士らしく、正々堂々と

背後をとられい」

 そろそろ足が痛んできたが、ともかくわしは跳んだ。漢には引けぬ時がある。

「聞き分けの無い奴だ。正々堂々で背後もくそもなかろうに」

 それでも武士は汗だくの額をぬぐって振り返る。

「なんという事を。なんという武士じゃ。わしが後ろにおらねば、忍にならんじゃあないかえ。あんたは

そこでじっとあちらを見てれば良いんじゃい」

 足が痛い。汗水流しながら、気力だけで何とか背後へ回り込んだ。まったく人の苦労が解らんのか。親

はどういう育て方はしたのだ、けしからん。

「お主こそふざけた事を申す。武士が仕合う以上、背後を向けては始まらんではないか。なんだ、お主は

拙者の背でもかいてくれるのか。おかしいだろう。いい加減覚悟を決めて向かい合えい」

 武士はしつこいと聞いていたが、よもやここまでしつこいとは。

 普通折れるだろう。わしがこんなに苦労して飛び越えているのに、この武士といえばさっと振り返るだ

け、一体どっちが疲れると思っているのか。まったく近頃の武士はけしからん。

 ああ、時代はすでに過ぎ去ったわい。

 わしの足はもう持たず、どれだけ力を入れても跳べはしない。おいぼれにこんな重労働させよって。考

えた末、いっそこうだとわし自ら背を向ける事にした。

 敵の背後を取れぬまでも、せめてこの面だけはさらしはせぬとの忍の心意気、さあ見よ、わしの最後の

一華を。

「何をやっておる。こっちを向けと言っているのだ。拙者を見よ!」

 だがこの武士というやつがまったく空気が読めない男で、ずかずかとわしの前に回り込んだ。何と云う

事だろう。わしがこんなに苦労しているというのに、こういう時は若い方が譲るべきではないのかい。え

え、今の世はこんなもんかい。こんな些細な遠慮も出来んのか、この若造め。

「あっちいかんかい、このちょんまげがッ!!」

 思わずわしはばっさりと武士を斬り伏せた。むしろちょんまげを斬り損なって、首元からばっさり行っ

てしまった。怒りに任せて振るうものではないと、少しく反省する。

 しかしこの一刀は、我ながら生涯最高の一刀ではなかったかと思う。

 とはいえ、このちょんまげを斬りそこなった事は、返す返すも腹立たしい。

 大体なんなのだ、ちょんまげとは。ちょんと頭に乗ったまげの事か、ちょんとのったまげだからちょん

まげか、人を馬鹿にするにも程がある。わしの怒りは最早こんなちょんとまげは許しておけぬ。

 そりゃあ確かに少しく大人気ないとは思うたけれども、これはこれで仕方ないと思わんか。わしは精一

杯やった。そうだろ。なあ、わしは間違ったのかい。何を間違ったのかい。

 ああ、そうか。まげを斬らなかった事か。それはそれ、だがしかし謝ろう。もういいだろ、なあ、良い

と言っておくれ。

 そんな苛めるなら、もう自分で言っちゃうぞ。

 よし、良いはずだ。そして任務完了。確かに顔を見られたのは不味いが、それも殺してしまえば無意味

な事。こうなった以上、誰も見られていないのと一緒ではないか。なあ、そうと言っておくれ。この老い

ぼれにせめて情けをかけてくれい。

 くッ、こんな訳の解らぬなんたら道なんぞ無ければ、わしも武士も楽しくやれたものを。

 忍道なんぞくそ喰らえや!


 この後全てに嫌気が差したわしは稼業を引退し、坊主となって今も斬った武士を弔っている。

 確かにそこまでする必要があるのかと問われれば、わしも言葉に詰まる。しかし、しかしだ。ちょんと

まげまでは真似出来ないものの、せめてつるつる頭にしてやろうと思ったのだ。武士もまげを切れば、そ

の頭はつるりと禿げている。禿げに弔われるのが、せめてもの供養になるだろう。

 何故に皆禿を求めるのか。それは禿こそが全ての心の現われだからだろう。禿げる事で人は全てをさら

けだす。

 まあ、そう言う事にしておいてくれい。

                                                      了




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