憂鬱、よく使われる言葉です。現代においては風邪なんかと変わらないくらい、当たり前に関わる。鬱

病なんて言葉も生まれ、その手の本も沢山出ているようですね。

 そもそも憂鬱というのは何なのか。よく解らないけれど、何だか気が滅入って体がだるく感じる。大脳

新皮質だかいう、人間の感情やら心を司る器官が衰えてしまうとか、上手く働かなくなるとか、ともかく

何だか上手くいかなくなる症状らしいですね。

 詳しい事は知りませんし。その説明が証明されているかも解らないので、何とも言えませんが。とにか

くも上手く行かない状態であるようです。

 確かに現代、そして日本は窮屈であると言われます。私もそう思います。

 価値観が一つしかなく、ただ勤勉、勤労、それは素晴らしい言葉ですが、それだけを子供の頃からお祖

父さん御祖母さんになるまで周囲に、或いは自分自身に言い続けて、プレッシャーと言うのか、こう重圧

を感じていれば、それは心が塞いで当然と思います。

 やる事が色々選べれば良いのですが、それ一本槍ではどうしてもしんどくなってしまいます。

 これやらないと今日食べる物がない、これやらないと明日死ぬかもしれない。そういう状況にあれば、

また違うと思いますけれど。別にそれをやった所で自分に何があるのか、自分がどうなるのか、言われる

ままに進んで、その先に一体何があるのかも解らない。

 ただただ言われるままに進む。これは辛いと思います。こう風船のように風に飛ばされている気がする

のですね。どうしても自分が鳥とは思えない訳です。

 勿論鳥であっても風や気流を利用して飛んでいるのでしょうけど、実感としては風船とは大きく違いま

すよね。

 そんな風ですから、やっぱり不安も相まって、とても精神衛生上よろしくない結果になる。

 しかも今までそうしてきた今の年配の方々。いやその人達の全員とは言いませんが、その方々の大半は

毎日満員電車に乗り、苦労されて真面目に働いてきたのに。それでもリストラやら左遷されてしまったり、

通勤電車で溜息吐かれたりされてる。そんな光景を当たり前のように目にしていれば、そりゃあ誰でもや

る気がなくなります。

 こんなに頑張って、こんなに努力して、それでもあんなに疲れた顔で、夜遅くまでこうして電車で揺ら

れていなければならないのか。

 だから親なんかはもっと勉強して良い大学出れば、もっと若い頃に頑張っていれば、などと思うのでし

ょうが。実際はそんな事は大して関係ない訳です。勘のよさというのか、こう器用さというのか、合う合

わないとかもありますし。大体が仕事と勉学と、最近はほとんど関わらないようになっている。

 だから皆大人になれば、子供の頃に学んだ事なんか、すっかり忘れてしまう訳です。

 私もほとんど覚えていません。今覚える必要も使う機会も無いからですね。

 社会に出てからもそう。さっき言ったリストラもありますし、あれだけ頑張った事がまったく報われて

来ない。年は関係なく、皆思っています。今までは何だったのだろう。今までの自分のやってきた事は、

自分の人生はなんて虚しく、そして良く解らないものだったのだろうか。

 解らない。不安というよりも、何が何だか解らないのですね。何一つ納得いかないから、心を一撫でし

て落ち着く事が出来ない。絶えず心に問いかける。これはしんどくなります。

 張り合いが無いのですね。人から言われる事も、どうもそこまでしてやるべきものかと。そして誰にそ

れを問いたとしても、誰もそれに答えられない訳で。

 何と言いますか、皆むきになっている。何か解らないけれども、とりあえずやらなきゃやらなきゃと思

う。そしていつしかそれが常識になる。これは怖いです。

 しかももっと悪い事に。それが良い悪いという事よりも、両親や家族などそういう人達の為の装飾品に

なっている感があります。自分に返ってくるものは少ない訳です。他人は良いように言いますが、自分は

虚しい訳です。

 そしてうちの子はどこどこ大学だの、うちの主人は妻はどこどこ企業で何々長なのです。などと当人と

はまったく関係無い所でもてはやされる訳で、それもまたおかしな気分にさせられる。

 俺が、私が、やっている事なのに、何故なにもやっていないお前達がそんなに誇らしげなのか。人に自

慢をするのなら、何故自分をもっと誉めてくれたり、苦労をねぎらってくれたりしないのか。

 不満なわけです。宝石やらブランドやらと変わらない。自慢するだけしか能が無い物に思えてくる。自

分は一体なんなのだと、疑問がわいてくる。

 でも期待に応えなければと思う。そしてそんな不満を持つのは悪い事だと、必死に頑張ってきた真面目

な人だけに苦悩するわけです。

 しかし家族や両親は、そういう装飾品を無理に付けて、その人をがんじがらめにしている事に気付かな

い。気付かない内にもますます締め付けられる。決してゆるむ事は無い。皆自慢してても所詮は他人事で

すから、気遣いなんか一切無い。そのくせ悪い結果が訪れると、これみよがしに責める、文句を付ける。

これもまたしんどいですね。

 こんな風に外でも言われ、家でも言われてはたまりませんよ。それは気が滅入ってしまいます。

 そのくせ貴方には期待しているなどと言う。うるさい事を言うのも貴方の為だからと言う。ある意味責

任転嫁なんですね。聞こえの良い言葉ですが、全部その人に押し付けるわけです。

 しんどいです。これはとてもしんどいです。もういっそ、自分達が自慢する為に頑張って、と言われる

方が楽ですね。

 そう言われてしまえば、言い返す事も出来れば、まだ何か言いようがある。

 でも貴方の為とか言われてしまうと、もう何も言い返せませんね。実際、勤勉勤労というのは、その人

の為にもなりますから。これは非常に手の込んだというか計算高いと言いますか、とってもいやらしい言

い方なんですね。

 どっちにも取れる、しかも本当に周りの人は自分の為に言ってくれてるのかもしれない。本当に心配し

てくれてるかもしれない。その気持をうるさいと言って黙らせる事は出来ませんね。それが出来るならば、

初めから憂鬱なんてなりません。

 頑張って頑張って、真面目に真摯にやってきている人だからこそ、憂鬱になってしまうのです。人の言

う事を気にしないようならば、初めから気が滅入ったりしませんよ。

 鬱屈した気持になるのは、自分で自分の心を抑えてしまうからなのですが。それは自分の為というより

も、他者に関する理由である方が多い。

 まだ自分の劣等感とかそういうのなら良いです。でも他人に対する優しさや思いやりを大事にし、何が

あってもぐっと自分一人で堪えるのが美徳と思われてるこの国では、他者に対する理由から気が滅入って

いますと、本当にどうしようもありません。

 何度も言いますが。それをどうにか出来るような楽観というか、適度に力を抜ける人でしたら、初めか

ら滅入ったりしないわけです。

 どうしようもないから、身体を壊してしまうのですね。ここでいえば、脳でしょうか。ぐっと堪えて、

他人の期待に応えようという希望ではなく、応えなければならないという義務感を持つ。しなければなら

ない、こう断定的になると危ないです。

 ようするに自分の脳が耐えられないくらい、重圧を感じているのですね。よく言うストレスです。

 そして暗い気持になるから、態度も暗くなる。暗い人は嫌がられますね。すると何とか明るくなろうと

思う。人に嫌われたくないと思う。不必要に背伸びする必要性を感じるのです。明るさを演じなければな

らない。これは辛い。これも本当にしんどいです。

 そうしていると何処にも逃げ場がなくなる。

 家に帰っても落ちつかない。友人と居ても落ち着かない。独りでも色々考えてしまって落ち着かない。

 どうしようもないでしょう。ええ、もう気が滅入るのも当たり前なのですね。

 それなのに、まるでその人本人の問題であるかのように世間は言います。自分だけでなくて、他人様が

関わっているから苦労しているわけです。それをお前一人のせい、みたいに言われると、泣きっ面に蜂で

すよ。止めですね。そうなるともう気力がわいてきません。

 行き場が無い。誰も相談にのっているようでまったく聞いてくれず。例え聞いてくれても解らない訳で

す、その人以外にはね。だからよほど思ってくれる友人や恋人、家族がいない限り、何の助けにもなりま

せん。下手すれば逆に締め付けられかねない。

 けれども人間はえらいもので、気力が無くても生存本能で生き続けます。何となくでも人は生きれてし

まうのです。これは素晴らしい能力ですが、これがまた逆に負担になる。生きなければならないと、自分

の本能からも叱咤される。こうなるともう痛いです。心も身体も痛いと思いますね。

 こう締め付けられるわけです。追われるわけです。何とかしなければと、益々意固地にされる。

 なので何処に居ても、誰と居ても、例え独りで居ても、気の休まる時がない。何処までも何処までも自

分を追い詰めて、もうぐたっとしてしまう。

 どうしようもなくなるから、突飛な行動に出たりします。突然家を飛び出してしまって、何処か知らな

い地で途方にくれてたり。引き篭もってどうにか解決しようと、答えのない思想の中を模索する。

 何でだと言われれば、どうにかしんどさから抜け出そうと、自分でも努力しておられるからですね。逃

げた訳でも、我侭でもありません。皆さん努力している。どうにか解決しようと、独りで努力しておられ

るのです。

 それを責めてはいけませんよ。それをしたら、本当に行き場がなくなってしまう。

 かといって、放って置いてもどうにもなりません。放っておいてどうにかなるならば、とっくに解決し

ているのです。どう接するべきか、そこがまた難しいところですね。

 責めず、大衆的価値観を持ち込まず、一人の人間と人間として、素直に関わらないといけないと思いま

す。そして世の中には辛い事だけではない、そんな簡単な事を見つけさせれば良いのです。

 勿論、なかなか難しい事です。でもやって出来ない事は無いです。元来簡単な事ですから、一時見失っ

てしまっても、急にぽんっと見付かったりします。

 答えは自分の中にあるのですね。難しくないです。自分を素直に見つめる。これしかない。

 そして周りの人は見守りながら、とにかく話を聞いてあげる事です。こちらから下手な事を言ってはい

けません。とにかくこりをほぐしてあげるように、丹念に聞く。今まで誰にも話せなかった事を聞いてあ

げるのがいいと思います。

 へそを曲げるかもしれませんし。怒り出すかもしれません。でもそれもまた人と関わると言う事で、そ

れはそれで良いと思います。癇癪だしてもいい。あれは自分でストレスを発散させる一つの手法なのです

から。

 少しずつかもしれませんが、確実にその人の心に訴えるものが芽生えてきます。人と人とは関わってい

る。自分は一人ではないのだと、そんな事を思い出してきます。

 青臭い青春ドラマ、そんな光景が解りやすくていいかもしれません。あそこまでいけばやりすぎの感が

ありますが、思い切ってぶつかればいい。人との接し方を忘れてしまっているのですから、思い出してあ

げないと。

 そっとしておくのも良いですが。やはり一人で思い出すのには時間がかかりますし、どんどん独りの中

へ閉じ篭ってしまうことにもなりかねない。

 そうやってほうっておかれる事が、無視や嘲弄に感じてしまう事もあります。何しろ悪い方悪い方へ考

えてしまうのです。それならぶつかった方がいい。やんわりで良いです。でもほったらかしはいけません。

それは放棄してしまうことと同じだと思います。

 ほったらかしは寂しいのです。

 そして周りの人間もその人に合わせて深刻にならなくていい。どんなに辛いときでも一分の明るさがあ

れば、案外笑っていられるものです。人の心は脆いですが、決して弱くはありません。何度でも形作り、

その度にしっかりと結び付きます。

 当人も深刻にならなくていい。世の中そんなに難しくはないです。難しく考えて、難しくする事が人間

を高尚にするのだと、そんな馬鹿な考えの人もいますが、人間は単純です。人間が形作る社会もまた、当

然のように単純です。

 悩んでも悩んでも答えが出ないのは、答えがあるほど難しい事ではないからです。単純なのです。

 例えば棒が転がっている。そこに答えなんか見つけなくていい。単に棒が転がっているだけです。そん

なようなものなのです。

 楽しめばいい。別に難しく生きる必要はありません。仕事を一生懸命すればいい。勉強を一生懸命すれ

ばいい。でもやらなくてもいい。それは自分が望むだけやればいいことです。人の期待だとか、しなけれ

ばいけないとか、そんな法も決まりもないのです。

 親なんて心配させてやればいい。妻子とは一緒に考えてもらえばいい。それもまた家族です。一人で背

負い込む事はないです。期待されてるのですから、こっちもそのくらい期待しても罰は当りません。

 期待出来るような親や妻子でないと言うのなら、初めからこっちが深刻になる事は無いです。嫌な家族

だと思いながら、そんな期待なんかほうっておけばいい。どうせ応えても応えなくても、何が変わる事も

ないのですから。

 そうして嫌な自分も出せばいいのです。我慢する事はないです。ぶちまけてしまえばいいのです。

 むしろそうして伝えてこなかったから、今一人で悩まなくてはならない。その結果喧嘩してもいいでは

ないですか、どんな形でも関われば、そこから生れてくるものがある。諦めた、といって我慢してしまう

のはえらい事です。でもそんな事をしても何も変わらない。人はお互いに伝えなければ、何も伝わらない

のです。だから言葉があるのです。

 でもそれも嫌でしたら五年でも十年でも閉じ篭って寝ていればいい。その内寝てるのが退屈になって、

また何かしようって気が起こってきます。何かするのはそれからでもいい。

 何でも良いのです。深刻さが抜ければ、後は気がふっと楽になります。

 らしくない事をしないでも、自分のままに生きればいいのでしょうね。よく解りませんが、とにかく自

分の身を置ける場所が、一つでもあれば良いのですね。ああ、こうしても良いんだ。そう思って一つだけ

でも軽くする事が大事だと思います。

 人の言うとおりしてもいいし、自分の思うままにしてもいいのです。決まりはありません。

 やりたい事をやればいいですし。やりたくない事でも、自分のできるだけすればいい。高望みする必要

はありません。頑張ることと無理は違います。無理はどうしても無理なのです。

 例えば100m13秒で走る人が、なんで自分は10秒きれないのかと、世界新記録に届かないのかと、そんな

風に嘆く必要はありませんね。貴方が心配しておられる周りの方も、貴方にそんな事を望んではいません。

 一生懸命の元の言葉である、一所懸命と言う言葉は、自分の魂にかけて此処を動かないと言う事です。

自分の信念ですね。誰かに言われてするのではないのです。ただ自分が望んでそこに立ち、弁慶が死して

も倒れなかったように、自分が望んでいる事をやるという事です。他人はまったく関係ない。

 自分の望まない事は、誰も一所懸命には出来ません。それで当たり前なのです。何も一人で変な義務感

を背負ったり、自分を情けなく思う事はありません。出来る方がおかしい。

 そして貴方が思うほど、他の人は一所懸命に生きているわけではないのです。誰もがずっと全力で生き

ているのではない。ほら見てみなさい、案外気を抜いてぼけーっとした顔をされてます。それが大事なの

ですね。気を抜く、溜めたら抜きましょう。やる時にだけやればいい。

 気が滅入る。そう書くといかにも減っているように思えますが。これは気が増えてるのですね。増えす

ぎてぱんぱんに膨らんで、いっぱいいっぱいになるから苦しい。そこでまた気合を入れてはいけませんよ。

そりゃあもう入りません。

 抜きましょう。抜きましょう。



 

別話

 学歴社会もどうでしょうね。もう消えつつあるのか、まだまだ濃厚にあるのか。正直解りませんが、段

々と資格社会、技能社会になりつつあるようで。ようするに学歴があっても、学者や研究者にでもならな

い限りは、役に立たないって事なんですね。

 仕事に就くには技能が必要で、同じ学ぶでも一般の学校では学べません。

 それもまたやる気を削ぐ事なのですが。まあ、一昔前とは違う訳です。明治時代からバブルまで、学校

行けばとにかく職に就けました。

 特にバブル当時、経済成長期はそれで良かったのです。とにかく人が居れば、誰がどんな事をしても、

大抵儲かりました。だからどんどん人を雇ったのですね。

 暮らしが楽になってくると、人は衣服住以外の余計な物にまで感心を示し始めます。戦前からあった秀

才信仰、エリート意識が再び加熱していったのでしょうね。何しろ勉強だけしていれば就職出来たわけで

す。それだけやっていろって親が言うのも当然でしょう。

 それに学歴が良ければ、戦前も軍人とか良い地位に就けたのです。戦後いくら変わったと言っても、人

間の中身はそう一度に変わらない。引き摺ったのでしょうね。勉学に励む事がお国の為だと。

 第一解りやすいですね。学歴がどうのこうの言った方が、その人の人間性とかよりも評価しやすい。簡

単に決められる。企業にとっても都合良かったのでしょう。判定しやすいっていうのはとてもいい。

 この物凄い学歴意識というのは、明治維新で武士階級は一斉に無職になった訳ですが、その頃から次

第に芽生えてきたそうです。学さえあれば、何とか食える、そういう状態になったのですね。生きる為に

は勉強しかない。切実な想いからきております。

 いや私が考えた事ではないですよ。そう考えた人が居まして、私もそう思うだけなので、私自身が古今

に詳しい訳ではないです。私は良く調べもせず、おぼろげな記憶を頼りに、好きに喋っているだけですか

ら。その程度に聞いて下さい。

 まあ、学歴意識は案外古くからある考えなのですね。でも明治以前はさほど無かった。学ぶ必要がほと

んどなくて、よほどの秀才なら出世する道として勉学に励みましたが、一般には大して勉強とかしなかっ

たようです。

 勿論する人は物凄くしましたよ。薬草学とか漢学とか、医者や学者の家系に生れた人は、死ぬ思いで勉

学に励んだと思います。武家に生れても、それなりに知識を詰め込んだでしょう。でも一般的にはするよ

うな風潮が余り無くて、字が書ければ上等なものであったようですね。

 日本だけでなく、それは世界的に見てもです。識字率の高さで、当時の日本を上回るような国がどれだ

けあったかどうか。

 まあ詳しい事は知らないので、その辺は良く解りませんが、とにかく大体の国民が字を読めるというの

は、なかなか大変な事だったようです。

 それはお触書という手段で、将軍家やお殿様から命令が出ていた影響かと思われますが、まあそれはま

た気になったら調べてみて下さい。私は結構いい加減な知識から話しております。申し訳ない。

 ともかくも勉学熱が沸騰するのは、外国から色んな書物が入ってきてからではないでしょうか。

 そしてそれは他国から文明を吸収せねば日本が滅びるという恐怖感と、学ばねば職に就けないという危

機感からでありました。ようするに怖かったのです。この時は確かに義務感を背負うべき時でした。

 でも、今はそんな事ないですね。時代は変るわけです。だから無理が出る。状況が違うのに、昔のまま

でいようとする、それは歪みが出て当たり前です。その必要性が無い、或いは感じられないのですから。

 やる気も使命感もわいてこない。ただただ疑問だけが出てくる。当然ですね。

 あ、でも新しい技術に対応するという点では、今コンピューターが当たり前のように導入されている事

に似ているでしょうか。年配の方は大変ですね。したくもないコンピューターの勉強を、今になって必死

にやらないといけないわけですから。

 若い人は当たり前に使えますが、年いってからだとなかなかしんどいです。

 ただその若い人が大きくなれば、また新しい技術が入ってくるわけで、これはもうどうしようもない問

題でしょうね。これもやはり出来る程度にやるしかないです。練習しましょう。

 いやいや、そう身構えなくても良いです。コンピューターを軽快に使われるお年寄りもおられるように、

本気でやろうと思えば誰でも習得出来るものです。ちょっと前までは難しかったですが、今は随分簡単に

動かせますので。

 MS-DOSとかは私も解りません。今はマウスでちゃっちゃと簡単になったものですよ。

 いけないのがあれですね、私は解らない、これが駄目です。初めから解らないと思ってしまったら、も

う何にも出来ない。駄目だと思わずに、やってみようと思いましょう。全てはそこからです。

 話がそれましたが。まあそう言う風に、この資格資格言われる時代も、またいずれは変ってしまう訳で

す。流行物なんですね。今頃たまごっちだの、ルービックキューブだの、エアジョーダンだの言っても、

皆さん苦笑されると思いますが、その程度のものです。

 それを深刻に考えるから、おそらく気が滅入るわけですね。

 所詮はそんなもの、その程度のもの、そう思って楽天的というよりも、素直に考えれば良いのです。そ

のもの以上に考える事は無いです。素直に生きましょう。

 孔子、孫子、老子、ブッダにキリスト、ソクラテス、一々挙げるのも飽きるくらい、何千年も前から人

は考え、色んな生き方を模索してきました。

 そしてその考えが古臭くならずに、今も浸透している。

 つまり人間は思想的にはまったく進化していないわけです。まったく変わっていない。人間なんてそん

なものなのです。自分がしなければならない、自分は偉大なる人間の一人である。そんな風に思う事はな

いです、むしろ滑稽になります。

 別に自分を卑下しろっていっているわけではないですが。ようするに元々一人で色んなものを抱え込め

るほど、人間は上等に出来ていないのです。見て下さい自分の脳を、頭を。確かに今の技術でもついてい

けないくらい高性能です。素晴らしいです。でもですね、こんなちっこい、ちっぽけなものなのですよ。

 こんなものにどれだけの容量が詰め込めると言うのでしょうか。家のタンスの方がまだ入ります。初め

から無理なんですね。自信過剰になってはいけません。自分は人間はそのていどのものなのです。

 そこは、そこはね、軽く考えれば良いと思いますよ。この私という存在がいなければ人間が成り立たな

いわけでも、社会が成り立たないわけでもない。単に私と言う一人の人間なわけです。私の言葉もちっぽ

けなものです。これを聞いても、何言ってるんだこいつ、くらいにしか思われないでしょう。

 単なる一人のたまたまこの地球という星に生れた、偶然発生しただけのちっこい人間なのですね。

 自分がやらなければならない。これもあれもしなければ、何てちゃんちゃらおかしいわけです。蟻が象

を持ち上げようってなものですよ。無理以前に滑稽でもあります。そんなものなのです。

 誰も何も縛る必要はない。私も貴方も何でもかんでも受け止める必要もない。

 貴方も私も、一人の小さな、だけれどしっかり生きている、ちょっとだけ誉められてもいいかもしれな

い、それくらいの人間なのですね。

 それで良いと思います。

 あ、少し話し過ぎましたね。そろそろ疲れている頃だと思いますので、帰ったらゆっくり湯船におつか

りになって下さい。無理はいけません。

 ご拝聴ありがとうございました。



  

別文

 腑抜けていると言いたい。

 気迫が無いのである。魂魄が叫ぶような躍動感がこの心から感じられない。

 やる気が無いと言うよりは、やる気をだしてまでやるような事がこの世界に無い、そんな風に思う。

 同じように思われる方も多いだろうと思うが、そもそも何でこうなのかと言えば、自分で納得して出来

る事が少ないからのように思える。

 楽しい、やりがいがある。そういう風に自分で思い込まなければ、まったく生き甲斐を感じられないよ

うな、そんなつまらない社会になっていると思うのだ。

 何だろうか、この茶碗の中でどんぐりでもコロコロと転がっているような、乾いた虚しさは。

 しかしである。しかし、それこそがまやかしであると私は言いたい。

 元々楽しみも生き甲斐も心の感じ方の問題である以上、本当にどうかとかそう言う事は問題ではないよ

うに思う。それよりもむしろ、そう思い込めるくらい、自分がそれにのめり込めるかどうか、ではないだ

ろうか。

 何が言いたいのかといえば、ようするに人から与えられる物にすがらず、頼らず、自らで見つけようと

いう事だ。

 人は他人から与えられる物ばかりであるからこそ、こうも虚しく思えるのではないか。こうも自分が無

力で、どうしようもない人間だと思ってしまうのではないだろうか。

 頑張りがいも生き甲斐も感じられない。それは単に自分が望んだか望んでないか、それだけではないだ

ろうか。

 本気で好きな人は創作に走るといわれる。

 それはようするに楽しくないならば、この自分が楽しい物を作ってやろうと、そういう気概が出るから

ではないだろうか。

 人が作って与えてくれるもの、そんなものは次第に飽きてくるに決まっている。

 確かに物凄く面白い物を作る方もおられる。しかしそれはそれで結局自分の力で楽しんでいるのではな

いのだと、そんな風に思ってしまうのではないか。

 それが楽しかろうがつまらなかろうが、結局は虚しいのである。自分がその物に対し、本質的には何も

関わっていないから。

 そこで私は何かを作る、生み出す事をお勧めしたい。

 絵でも文字でもいい。話を書いても良いし、遊びのルールを自分で考えてもいい。何でも良いのだ。

 子供の頃を思い出してみよう。あの頃があんなに楽しかったのは、自分達で色々工夫し、そして自ら楽

しみを生み出していたからではないだろうか。

 あの頃が眩いばかりに輝いて思えるのは、自らの才能というべきか知恵というのか、その大小は関係な

く、自分にあるものを精一杯使って考えたから、何もかもが楽しかったのではないだろうか。

 それを我々は見失っているのである。だからこうもつまらない。

 考えてみれば当たり前の事だ。自分で何も考えず、ただただ与えられたままに遊ぶふりをして、楽しい

ふりをする。それでは何が楽しいと言えるのだろう。そんなに小難しい事をして、しかめつらで遊んで、

一体何が楽しいのか。

 ある意味自分を苛めるというのか、望んで困難を受け入れ、それを乗り越える事は楽しい。しかし困難

を人から与えられてもつまらない。全てはそのような事に起因していると思われる。私はそう思う。

 しかしそれにはまずやる気という好奇心をださなければいけない。あのワクワク感だ。あれを今一度思

い出さなければ、何も始まらない。

 いや難しい事ではない。誰もが持っていて、今はしまっているだけ。胸の内を覗けば、誰の中にも眩い

ばかりに輝いているはずだ。

 きっかけはなんでもいい。少しだけまわりを見てみよう。家族でもいい。風景でもいい。普段は見てい

るふりをしていただけの全ての物を、今改めて素直な心で見てみるのである。

 心に訴えかけるものをいつも見過ごしていた事に、驚きと共に貴方は気付くだろう。

 ほんの些細な事、しかしその些細なものがなんと美しい事か。太陽はなんと美しい事か、空はなんと美

しい事か、雲はなんと美しい事か。

 人はなんて面白い事か。この世の中の動きは、なんて驚きに満ちているのだろう。こんな事で、これだ

け動いているのか。こんな事にそんな理由があったのか。

 昔という歴史はなんと興味深い事だろう。私がここに生れ、今こうして生きているまでに、こんなに驚

くべき出来事があったのか。古人はなんて素晴らしく、そして愚かな事か。

 今ゆったりとした眼差しで、あらゆるものを見てみよう。ほんの少しだけ、いつもよりも興味を持って

みよう。そして少しだけ動いてみよう。少しだけ調べてみよう。

 自らに張り付いていた虚無感などは、何処かへ吹っ飛んでしまうだろう。

 憂鬱なんぞくそ喰らえ。

 そんなものは心でそしゃくして、飲み干してしまえばいい。

 ぐっと呑んでしまえばいい。それもまた自分なのだと、何も考えずすっと受け入れてしまえ。

 良いも悪いもない。全ては自分なのだと、呑んでしまうのだ。ぺろりと朝飯前に飲んでしまえ。

 人を見る時もその人が自分をどう思っているかだの、好きか嫌いかだのはどうでもいい。単に何をして

いるのかだけを、興味を持って眺めればいい。

 例え嫌われようと、好かれようと、こちらにはどうでもいいこと。嫌われても、こちらが嫌わなければ、

相手の想いは虚しく相手に返る。一々相手にしなくていい、放っておけ。そんなものはこちらの知った事

ではない。

 嫌いだのなんだの言う必要はない。そいつが嫌な奴なのは言われなくても皆知っている。ほうっておけ

ば、そいつが勝手に嫌われ者になるだけだ。一々そんなつまらない事を口にする方がどうかしている。

 自分が良いかどうかは自分が知っている。自分が自分に恥じない行動をしていれば、人はそれで良いの

だ。他人の想い等、自分の貴賎にはまったく関係ない。

 誰か困っていれば助けてやればいい。それだけで気持が良い。

 自分が困ったら助けを呼べばいい。百人に一人でも助けてくれれば御の字と思え。

 人は誰も自分の考えに従って生きている。自分一人が他人の考えに従っている事の、なんとつまらなく

馬鹿馬鹿しい事か。

 人は自分の良心にだけ従えばいい。それをした方が良いと思ったら、素直にそうしろ。駄目だと思った

ら、決してするな。それが自分の為なのだ。後でどうせ悔いるのだから、悔いる前にやっておけ。後悔は

あっても、前悔なんて言葉はない。

 自分、他人、そういったまどろっこしい想いを放り出せ。そして素直なまなこで眺めやる。少しだけ周

りの事を気にかけるようになったら、貴方はもう大丈夫。自分だけしか見ないから、貴方はそんなに辛か

ったのだ。

 誰でも不安である。それでも生きている。実際苦しい事はある。でも楽しい事も当たり前にある。辛い

辛いと閉じ篭っているだけで、自分だけしか見なかったから、貴方はどうしようもなく不安だったのだ。

 見ろ、周囲を。楽しみも苦しみもそこにはある。それが人間なのだ。それでいいのだ。それでも一つ二

つ楽しみがあればと思いながら生きている。皆そうなのだ。

 幸せを羨み、不幸を笑う。それでも良い。そうして知ればいい。それでも人は笑って生きているのだと。

 おかしいから笑うのではない。まじないだから笑うのだ。笑って少しでも幸がくればいいと笑うのだ。

 ちっぽけと笑えばいい。そのちっぽけを気にしてた自分も笑えばいい。

 良いのだそれで、難しくはない。笑い飛ばして生きていくのだ。

 楽しそうな自分を演出し、自分で馬鹿馬鹿しいと思いながら生きてもいい。自分を笑い飛ばしてやれば

いい。でも飽きたら止めればいい。それだけの事だ。義務なんてない。

 暗い思いを飲み込んで、それから笑って吐き出して、そうして人は生きていく。二つしかやってない。

生きるなんて簡単なことだ。そんな事なのだ、人の悩みなど、実は悩みというのもおこがましいものなのだ。

 人を気にし、自分を気にし、でもそんな自分を笑って生きていけ。人間は変なやつだと笑って生きれば

いい。

 飲んで笑って生きてやれ。誰もが同じ、幸も不幸も人にはある。 



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