うつる


 飛び乱れる木漏れ日のように、何決まるでもなく。

 陰から影へ渡る一瞬のまばたきのように、何求めるでもなく。

 移り変わる景色の中、瞬間瞬間だけを捉え、形にして残す。

 それは自然であったり、そうでなかったり、理屈に合わない想像もしなかったものも映し出す。

 その場所から発せられる光を正確に写し取っているだけなのに、何故それ以外の、それ以上のものを一

枚の絵に映し出すのだろう。

 影を踏めば、闇夜になり。

 灯火に浮かべば、真昼になる。

 昼も夜も関係ない。ただ光りあれ、光あるものだけを捉え、写し出す。

 絵には決して描けず、しかし絵よりも時に非現実的。

 鏡のようでいて、鏡より正確に。

 何故光だけを見るのか、それは解らない。

 しかしそれは我々の持つ第三の目であり、もう一つの記憶。決して覗けず、見る事のできない、過ぎ去

ってしまったもう一つの世界。

 果たしてどちらが現実なのだろう。

 一枚の写真を見ていると、たまにそれこそが本当の世界であり、私の見ているそれが幻想であるかのよ

うに感じる。

 目に映るモノを捉えず、ただ機械の目で見たそれは恐ろしく正確で。

 存在というものの生の姿を映し出している。

 それが光に彩られたものであるなら、それこそが本当に私達が見るべき世界である。

 例え本当とは違っても、それこそが我々にとっては本当の世界になる。

 理屈を言えば、そうだ。

 だから写真を見ていると、その世界と私の世界が換わってしまわなければならないような気になる。

 いつまでも隠してはいられないとでも言うように。

 もし私の中のそれを抑える何かが衰えてしまったら、そちらの方が現実になってしまうのではないか。

 それは時間でさえ関係なく、私をもそこに取り込んでしまうのではないか。

 そもそも我々も誰かを写し取り、それを真似る事で生きている。

 我々という人格がある。心がある。

 母であり、父であり、友であり、教師。それらを見、そこから発する光を通してその姿を真似、理解し

た気になり、彼女らを私に移すようにして、私という存在が形成された。

 心は元々あったのだとしても、そこに肉付けされたものは、何一つ自分のものではない。

 それらから新たに作り出したものは私のものだが、それ以外は全て誰かの写し身である。

 そう考えれば、何よりも正確に写し取られた筈のこの写真が、このままでいるとは思えない。

 ただの一瞬を盗ったもの、それだけだから成長も退化もしない。果たしてそうなのだろうか。

 ただの写真。そうなのだろうか。

 これだけ多くの情報を空の器に入れられたのだから、何らかの変化が起こってもおかしくない。

 長い年月を経た写真は、それだけではない何かを作り出し、いつの間にか別の何かになっているのかも

しれない。

 それは本当の世界を写し取ったものから生まれたものだから、本当の現実でしかない訳で。いつしか我

々に抑圧されている世界を、自分達の手に取り戻そうとするのではないか。

 そして一斉にこちらの世界に移り込んでくる。

 そんな気がする。

 明日の私は、どちらの私なのだろう。




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