映り込む残像


 ガラスに映り込む姿。あれは本当にただ映り込んでいるだけなのだろうか。

 特に深夜。誰も居ない暗いガラス。外部から差し込む僅かな光が、それを通る物体をはっきりと映し込

んでいる。

 暗いのに解るはっきりとした姿。自分で自分が居る事に驚いてしまう。まるで自身が二人に分かたれて

しまったかのように。

 見ているとどちらが本物なのか解らなくなる。もしかしたら、どちらも本物なのかもしれない。

 振り返ってふとそちらを見た時の、暗闇の奥に潜むかのような自分の顔。あの顔は一度見たら決して忘

れられない。

 例えば私が光を失った世界。そう死の世界に行った時、私はあのような顔をしているのだろうか。

 それともあれは違うのか。あれもまた生きているのだろうか。

 もしかすると死んでいるのは私の方なんじゃないか。影とは私の方なんじゃないのか。ガラスの向こう

に分かたれた、あいつの方が本当の生身の私なのかもしれない。

 よく解らないが、そう思う時がある。

 いや、そうではない。そう思わなければならない時があるのだ。私は知っている、本能で、知っている。

 だが認めたくはない。そういう心がある。認めなくはない、私が私よりも私ではないなどと、決して認

めたくはない。

 それはただの願望か、負けず嫌いなのか、それとも・・・。

 いっそ、手を伸ばしてしまおうか。

 あの奥へ手を伸ばせば、全てがはっきりするのかもしれない。

 私は意を決してそこへ近付いた。ガラス、はめられた枠の中に映る、影びた私、私よりも薄れた私に向

かって、そっと手を伸ばす。

 すると私もそれを望んでいたように手を伸ばし返してくる。

 その動きも速さも全く同じ。どうにもならない程に、二人は同じだった。同じ存在。私も私も共に同じ。

 おそらくそれが同じだけ、私達は同じなのだろう。

 そしてそう思わされる事は、不思議と不快ではなかった。

 もう一人、いやもしかしたら本当の私と、また一つになれる。これでどちらがどちらかという疑問は不

必要になる。どちらも居ない、一人だけの私が出来上がる。

 だがそう思っていても、私の手はそこまで達せなかった。

 恐れか。そうかもしれない。自分が負けてしまうかもしれない、自分だけが消えてしまうかもしれない

という恐れ。あるとすればそのどうしようもない恐れが私の全てを閉ざしてしまう。

 映る私が笑っている気がした。いや違う、笑ったのは私だ。私の意志が、二人の私の意志なのだ。

 それとも、映る私の意志の方が、この私の意志なのだろうか。

 どちらだ。私は一体どちらに動かされている。私が私であるのなら、本当の私はどっちだ。

 解らない。解らないままに私は私で居る。私で居たい。

 解らないからこそ、せめて私で居たい。

 あの私は、私が私である事さえ奪うのか。その手で、その私と同じだけ伸ばしている手で、私を奪って

しまうのか。

 張り付いている笑み、あれは本当はどちらの笑みなのだろう。

 人が自分の顔を見る事ができないのは、その為なのかもしれない。誰も誰が本当の自分なのか、あのガ

ラスに映る表情が誰のものなのかを、解らせないように。

 なら何故だ。何故そうなのか。あの顔は、一体誰のもので。それを隠す必要が、一体誰にとってあると

いうのだろう。

 見せてくれ、全てを。

 聞かせてくれ、その訳を。

 この伸ばした手を引き戻せるだけの理由を、誰か私に与えてくれ。

 あの笑顔は一体誰のものなのか。

 私は引き寄せられるように、いや、違う。はっきりと見た。あの手は私を掴み、そして引きずり込んだ

のだ。本来の在るべき場所へと。全てを失った場所へと。



 我々の世界は、そこに居る我々は、全てこの場所から逃げた者達らしい。

 何故ここから逃げ出すのかは解らない。この場所はこんなにも満ち足りているというのに。何が不満だ

ったというのだろう。

 全てが逃げられる訳ではないようだ。全ての人間の丁度半分ずつしか向こうへは行けないという。あの

やたらに明るい、自分を無闇に映し出すだけの場所へは、丁度半分だけその存在を許される。

 その理由は、本能的な恐れ。誰かに見られる事への恐怖。そして外見を取り繕わなければならない事へ

の嫌悪か。

 誰もが本当は隠したがっている。だからここに居るのが自然なのに。それでも行きたいのなら、半分だ

けを行かせるしかない。自分が耐えられるだろう半分だけ。真っ二つに半分だ。

 それなのに何故私の半分はあちらへ行きたがったのだろう。半身と分かたれ、決して満たされない場所

へと、何故自分から進んで行ったのか。

 解らない。今一人だけで完全に満足できている私には、まったく理解出来ない。

 だが私が生まれたのは、紛れもなく今の満たされた私からだ。満たされた私が、満たされない世界を求

め、満たされない私を生み出した。

 そしてこちらへも同じだけ満たされない私を残して行く。

 何の為に。一体どういう理由があって。

 解らない。私はどうしたのか。何がしたかったのだろう。

 他の人間達もそうだ。皆この暗闇で満たされ、優しく隠されているのに。誰もがいつかはあそこへ逃げ

出す。少なくともそう志す。

 私はそれを知っていた。それでも尚、そうした。そして再び戻ってきた。

 これは同じではないらしい。全ての人間が、全ての半身が、こちらへ戻ってくる訳ではないそうだ。

 あちらの世界はあんなに居心地が悪かったのに。こちらの世界をあんなに恐れる程、向こうの世界を嫌

がっていたのに。あの世界では自殺する人間すら居るのに。何故私は行きたいと願うのだろう。今もまた

少しだけそういう想いがあるのだろう。

 そして多くの人間が、何故そのまま帰って来ないのだろうか。どうしてこちらの世界を忘れてしまうの

だろうか。

 解らない。こんな私は、嫌だ。

 ああ、何故だ。私は満たされているのに、何故疑問が浮かび続け、何一つ晴れないのか。

 いつまでも、何故こうなのだろう。

 満たされながら、満たされる事に不満を抱いている。

 私が私である事に、何故こうも不満になるのだ。

 私が私で満たされている事に、何故こうも嫌悪するのだろう。

 ああ、乾きが欲しい。飢えが欲しい。全てをありがたがる為に。

 無い事が懐かしい。すべてがある事の、なんと薄汚い事だろう。このやり方には我慢ならない。私を拒

否している。私が私を拒否している。そういう私が在る。

 だから逃げたのかもしれない。

 全てが満たされる事に、うんざりして。絶対的な幸福から逃げたくて。

 しかし逃げた先の向こうの世界では、満たされない事にうんざりする。

 私という存在は、きっとそういう存在なのだろう。

 そして他の人間達も、きっと皆、そうなのだろう。

 怯えつつ消える場所は、誰にも優しくない。

 私はその事を知っている。

 それがきっと、憎いのだ。

 それをきっと、愛せないのだ。

 許せない。憎しみが、溢れてくる。

 満たされた想いが、私を閉じ込める。

 誰も抜け出せない場所は、本当にはここに在る。

 それを知った時、私は本当の意味で、あらゆる世界から、消えたくなった。

 それ以外に、どうしろと言うのか。

 答えがあるのなら、教えてくれ。もう一度。もう一度教えてくれ。

 私がこの世に生まれてくる事を、選択したあの時のように。

 もう一度。もう一度だ。それだけで、いい。 




EXIT