ある所にとてもかわいらしい子がおりました。 あまりにもかわいらしいので、山と川は自分だけのものにしてしまおうと思いました。 そしてさらってしまおうと隙を窺っているのですが、かわいいその子を離したくないのは皆同じですから、邪魔されて上 手くいきません。 喉が渇いて子が川に近付こうとすると動物達が水を汲んできて渡し。 お腹が空いたので山菜でも採りに行こうかと考えると、鳥達が果実を運んできます。 子は川にも山にも興味があるようなのですが、皆でそちらに行かせないようにしてしっかり護っているのでした。 山も川も腹を立てまして、君達だけでかわいがって私達には触れさせない、こんな不公平な事があるものか、と何度も抗 議したのですが。皆山川の魂胆(こんたん)を知ってますので、無視します。 中でも腹が立つのが、山の親戚である森、川の親戚である湖が彼らを裏切っている事です。 どちらも山川に近いものですから代用が利きまして、そのせいで色んな計略が失敗するのでした。 山も川もこのままではどうしようもないと思い、しかたなく互いに協力する事に決めました。 まず二者で子を奪ってから、どちらが独り占めするかを決めようとそういう訳なのです。 でもあまり効果はありませんでした。向こうには森湖がおりますので、山川が協力しても大して変わらないのです。 森湖をどうにかしてしまいたい所ですが、山川も天の運行を妨げる訳にはいきませんので(父である天と母である地がと ても怖かったからです)、悪戯や嫌がらせもできません。 これは敵側にしても同じで、心でどれだけ憎みあっていても、表面上はいつもと変わりなく自然という運行がなされてい るように見えます。 どちらも天地に怒られたくないという共通した想いがありました。 こうして山川対陸勢という図式でにらみ合っていたのですが、このままではどうにもなりません。陸陣営の方は子を手中 におさめておりますので、このままの状態が続けばいいのですが。それは山川がいつまでも子を奪えない事になります。 いっそ天地に反乱を起こしてでも・・・・とも考えたのですが、どう考えても敵う訳がないのです。天と地の力は圧倒的 でした。 そこで山川は海を味方にする事にしました。 海は山と川の子供です。正確には弟分みたいなものかもしれませんが、とにかく山と川が居なければ存在できません。山 と川には逆らえない立場にありました。 でも陸勢と敵対するのも損ですし、何より後が怖いので、どちらの誘いものらりくらりとかわしてずっと中立の立場に居 たのです。 そんな海も山川からそろって強く言われると断れません。水と土砂を流す量を減らしてやるぞ、と脅されるともう従うし かないのです。 さてこの海、知っての通りとても塩っ辛い。塩は動植物達にも必要なのですが、ありすぎると病気になってしまうという 難しい物質でした。 山と海が塩を止めてしまうと、陸勢に大打撃を与える事ができるのですが。そんな事をすると天地にこっぴどく怒られて しまうでしょう。 下手すると塩を取り上げられてしまうかもしれません。そうなると山も海も立場がぐっと弱くなる訳で、どうしても避け なければなりませんでした。 減らすくらいならばれないでしょうが、少々減らした所で効果が出るまでに長い時間がかかります。あまり長い時間減ら していると天地に気付かれるかもしれません。 ここは発想を逆転させて、陸を塩浸しにしてしまう事にしました。 海は風に頼んで台風をたくさん起こしてもらい、それらを一斉に海辺に行かせて津波を起こし、陸の半分を海水で浸して しまったのです。 天地に怒られそうですが、風というのは実に世渡りが上手く。天と地を繋ぎ、この夫婦の仲を良好にさせる役目を持って おりましたので、どうしても風には甘くなるのです。 風のご機嫌を損ねたら、余計な事をお互いに吹き込まれるかもしれません。天と地の間には空という溝がありますので、 ちょっとした事でしょっちゅうけんかするのでした。 それでいつも争っているので、色んな事に気付くのが遅れる訳です。 困ったものですね。 陸は数日海水に浸かり、水が引いた後も塩が残って植物は育たなくなり、動物は病気になり、土と塩だけの不毛の地にな ってしまいました。 あまりの事に海は酷く後悔したのですが、今更どうしようもありません。 風の方は自分のしでかした事などすっかり忘れておりました。 山川は大喜びで、ざまぁみろと機嫌を良くしたのですが。ここで予想外の事が起こりました。 かわいらしいあの子が台風と津波に怯え、水を極度に恐れるようになってしまったのです。 川の野望はもう二度と叶わなくなりました。どんなに誘っても、水恐怖症になった子は絶対に近付いてくれないでしょう。 前はあったはずの好奇心も恐怖一色に塗り替えられ、今では飲み水さえ恐がるといいます。 川は立ち直れなくなり、もう全てを諦めてひっそりと流れる事にしました。 競争相手が居なくなった山は大喜びだったのですが、ふと独りになっている自分に気付きました。 仲間だったはずの川は離れ、海も二度と山の言う事を聞かなくなりました。陸のすべても深く山を恨んでいます。 そして何よりも愛らしいあの子を恐怖に満たしてしまいました。 自分はなんて事をしたのだろう。一時の高揚から醒めると、後は惨めなものでした。 山を着飾っていた植物達もさすがに愛想を尽かして下山し、山はみるみる禿げ上がっていきます。 そこに復讐に燃える動物達がやってきて、散々に山のものを痛めつけたものですから、最後まで残っていたほんの少しの 動植物さえ陸勢に降伏して命からがら逃げて行きました。 残ったのは禿げ上がった自分の身体と、どうしようもない虚しさだけです。 山は絶望し虚ろな目で自分の有様を眺めていましたが、子の事は忘れていません。 このまま水を嫌い、恐れたまま生きていくのでしょうか。そして塩に侵された陸は永遠に不毛の地として自分のように禿 げて行くのでしょうか。 自分がやりたかった事はなんだったのだろう。 こんな事ではなかったはずだ。 山は孤独の中で長い間考えました。 答えは解りません。でもこれからどうすれば良いのかだけは解りました。 あの子の為になる事をするのです。 植え付けた恐怖心を取り除かなければなりません。 山は最も親交のあった(今では絶交されてますけど)雲に必死に頼み、海にも今度は土下山してお願いし、三者協力して たくさんの雨を降らせました。 雨を降らすには、蒸発した海水を吸って重く硬くなった黒い雲を山にぶつけなければなりません。山にぶつかる事で、た めた水を一度に降らす事ができるのです。 黒雲が少しずつ雨を落としていくだけでは望むような事はできません。今回はどうしても大雨が必要だったのです。 それは辛い作業でした。痛いのです。黒雲は誰が思うよりも硬く重く、今回はそれを遠くまで降らせなければなりません ので、いつも以上の物凄い勢いでぶつかってきます。 それは涙が出るほど辛いものでした。 山は必死に頑張りました。これで罪が許されるとは思いません。天地にも後でこっぴどく怒られるでしょう。 でもあの子を恐怖から救う為にはこれしかありません。 それから何十回、何百回黒雲が山にぶつかったでしょう。そこから生じた大雨は陸を侵していた塩を洗い流し、不毛の地 を住みよい場所に変えました。 まだ少し塩は残っていましたが、少量の塩なら動植物に元気を与えます。 みるみる内に陸は活気付きました。 子はそれを見て水にも怖い事だけではないのだと知りました。 大雨が降った時はまた怖い事が起こるのかとびくびくしていたのですが、こうなってみると怖がっていた事自体が馬鹿み たいに思えてきます。 子は照れて笑いました。 山はそれを見て満足し、疲れた身体を癒す為に長い長い眠りについたのです。 動植物達も山がした事を知り、その全てを許す事はできませんでしたが、共に生きる事を許しました。 そうしていつか起きてくる山を迎えてやろうと、もう一度山を着飾ってあげたそうです。
そんなお話。 |