優しい振り


 私は優しい人間ではない。どちらかと言えば冷たい人間だ。

 自分で言うのも何だが、常に冷めており、正直言って、他人の心は解らない。

 誰がどう思うのか、誰がどう感じるのか。

 そもそも、それを知りたいとも思っていないのかもしれない。

 誰が何をどう感じようとどうでもいい、とまでは言わないし、思ってもいない。出来るなら良いように

したいと思うが、悪気無く他人を苦しめる事もまた多い。

 別に苦しめたいのではなく、喜ばせてあげたいと思っていても、無遠慮な言葉で傷付ける事は多い。

 私は相手に拒絶されて、初めてその過ちに気付く。傷付けていた事に気付く。そんな愚かな人間。

 だから私は優しくない。人の心の解らない、冷たい人間である。

 思えば昔からそうだった。だからきっと、死ぬまでそうなのだろうと思う。

 もう何十年と生きてきて、それでも変わらないのだから、きっとこれからも変わらないはずだ。

 そもそも変えたいと、自分が思っているのかどうかすら、私には解らない。

 何処か、もうどうでも良いではないか、という思いを抱いている。

 それもまた人に伝わり、私から遠ざけさせる原因になるのだろう。

 優しくない人間には、誰も寄り付かないのだから。

 いつまでもそれではいけないという思いがある。

 別に私は悪い人間に、冷たい人間になりたいとは思っていないのだ。

 生まれてより一度も、悪人になろう、そうなりたい、と思った事は無い。

 それどころか、私は世の中にばら撒かれる悪意というものが、一番嫌いだった。

 冷たい人間であるくせに、一面ではそれを認めながら、一面ではそうある事を嫌っている。

 冷たさと悪意を憎む。

 それが今の私に、このどうしようもない天邪鬼な心を持たせている、理由なのだろうか。

 私はいつも相反する心を胸に抱き、相反する言葉と行動を取ってきた。

 どちらでも良いと本当にそう思っていても、良くありたいという思いが同時にある。

 冷たく振る舞いながら、優しくしたいと考えている自分も居る。

 不思議な事、或いは当然の事だろうか、善意と悪意が共存しているのだ。

 私は人嫌いでありながら、誰よりも人が好きであり。

 私は人と関わるのが嫌いでありながら、人に関わる事を喜んでいる。

 二面性があるのではなく、それが一つの私として、同時に感じ、存在している。

 その私という一つの括りが崩壊した時、おそらく多重人格となるのだろうが、幸いにも私は一つとして

の私を保ち続けていられる。

 しかしこれは不思議な事だ。どっちでも無いのではなく、そのどちらでもある。これはとても不思議な

事で、自分でも訳が解らなくなる時がある。

 いや、もしかすれば、常に解らないのかもしれない。

 私は一体何がしたいのだと。

 それでもこうして生きていると、少しだけ何がしたいのか、何が自分の喜びかが解ってきた。

 自分を見詰める時間が、一日の内ほんの僅かしかないとしても。それを続け、年月を得る事で、それな

りの時間の積み重ねになり、理解出来る事が増えてくる。

 私は何をしたかったのか。

 それはつまり、私は人と関わりたくはないけれど、でも人を喜ばせたいのである。

 人間という種に愛想を尽かしているが、私は人間そのものに対し、深い愛情も持っている。

 私という心は、本当に自分勝手だが。それでも、人に迷惑をかけたい訳ではないのだ。

 そう、きっと私は人が好きなのだ。

 だから嫌うのだろう。好きだからこそ、嫌いになるのだ。

 好きだからこそ、いい人間で居て欲しい。自分がそうなりたいように、人もまた、それを目指して欲し

いと思う。

 自分勝手だが、確かにそう思っている。だからそれに反する人間が嫌いになる。しかしどうこう言って

いても、最終的には人間が好きだ。たまらなく愛しいと思う。この地球一おかしな生物の事を、私は愛し

ているのだろう。

 二面性も何も、そんな理由ではなく。叫びだしたい程に、私は人間が好きだったのだ。

 私は冷たい人間だが、それでも人間を愛したい。

 もっと具体的に言うなら、人に優しくしたい。

 そういう人間でありたい。

 冷たい人間だが、そういう人間になりたい、そうしたいと、心から思う。

 しかし冷たいから、今更そういう人間にはなれない。私はそんな都合よく、自分の望むように生まれ変

われるとは、思えない。

 そう思えない以上、私は生まれ変われまい。

 だから私は、せめて、そういう人間の振りをする事にした。

 私は冷たい。それは解りすぎるくらい解っている。そしてそれはもう変えられないとも思っている。ど

うしても変えられないのだと。

 私はどうしようもなく、そして酷い人間である。

 けれど、そうであるからこそ、人の優しさというものも知っている。

 意外に思うかも知れないが、ちょっと考えれば解る事だ。

 冷たい人間である以上、普段の自分と、自分の本質と、真逆な事をすれば、それが優しさになる。

 誰よりも冷たい人間だからこそ、誰よりも優しさを知っている。優しさが解る。

 だから私は優しい振りをする。

 心の底でどう思っていようと、いくら私の本質が優しさを哂っても、私は優しい振りをする。

 人の為だけではない。私自身の為に、それを続けている。

 今では心の何処かでそんな自分を嘲笑しつつも、概ねそういう自分を受け容れられている。

 私の心は、優しい振りをするだけならば、完全に否定をしない。

 真に優しい人間になる事なら、完全に否定しているが。その振りをするだけなら、私は私を許している。

 何故なら、それもまた、人を欺く事なのだから。

 優しい振りをする事で、私は世界一つまらない人間になったのかもしれない。

 だが、私は今の自分に満足している。

 あくまでも振り、嘘でしかない。虚構である。それは何処にも無い。私の本質はそうではない。

 しかし優しくありたいと、あふれ出す程に想うこの気持は、それを求め続ける。

 私は人を愛したい。優しくしたい。

 私の本質が悪である。それに抗う事はもうしない。

 だから、せめて優しい振りをする事だけは許して欲しい。

 私の本質が悪であるならば、死ぬまで人を騙し続けてみせるから。

 私は優しい人間なのだと、嘘でもいいから、生かせてくれ。

 舌を抜かれようと、永遠に責め苦を味わわせられようとも、構わない。

 嘘でいい、優しい人間で、いさせて欲しい。

 それが私の願い。

 私の生き方。

 私なりの、私だけの生き方。




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