あたたかい心は日差しに似ている。 生れ落ちた時から人は光に焦がれ、その全てへ心を当てようとした。 だから最も尊い感情に、それを求めるのだろう。 安らぎ、喜び、救い。そういった心は日溜りのような心地よさを与えてくれる。
暗い心は日陰の中、隅の隅、誰にも触れられずにいるいじけた湿りに似ている。 それを一言で言い表す事はできない。 あたたかみには光というぴったりくるものがあるが、暗いものにはそれがない。 光に対するのだから闇ではないのか。そう考える人もいるかもしれない。 でも闇は光とは全く違う。対照にはならない。 光の当たらない所、という現象は表現のしようがないものだ。 対ではなく、ただ置き忘れられたかのような心を闇という言葉は内包している。 どれでもない、どれにもなれない、そんな寂しさ。 ただの影であり、それ以上にはなれない。 なれたとしても、もっとごてごてしたまとまりのない心になるはずだ。 だから闇で暗い心を現すことはできない。
暗い心というものは一体なんだろう。 どう言えばいい。 どう規定すればいいのだ。 日陰というように、それは光が当たらなかった部分でしかない。 しかし暗いという事ははっきりしている。 光が当たらない。 それだけの事で人は自分を不幸だと思うのだから。
多分、そのはっきりしない所が、不安になるのだろう。 |