憂鬱な男


 ある所に憂鬱な男がおりました。

 なんでもかんでも暗く考え、この世の中には悪がはびこり、騙しあいや心労で溢れていると言うのです。

 そんな事は無いと人が何と言おうとも聞こうとせず、お前らも私を騙してるのだろうと言って、意固地

なくらいに憂鬱になっておりました。

 そんな事だからそのうち誰も近付く者がいなくなり、とうとう男は一人ぼっちになってしまいました。

 こうなると自分で追い払ったくせに、ああ本当の友情など、愛情などは存在しないのだ、とまたしても

憂鬱になり。何処までも憂鬱に考えます。真に憂鬱な男でした。

 男は全てが嫌になり、もうこんな所には居られない、もっと自分に合った、相応しい場所があるはずだ

と、とうとう誰も自分を知らない場所を探しに旅立ってしまったのです。

 当ても無い旅、付き添いは誰も居ない旅、しかし本で読んだ物語が好きだった男は、それでも胸をわく

わくとさせておりました。自分は本当の冒険へ旅立つんだと、夢ばかり見ておりました。

 だけれどあまりにも無計画に、身一つで家を飛び出したせいで、食べ物もすぐに無くなり、すぐに元気

も体力も潰えてしまい。ああ、やっぱりこの世に本当の冒険などないんだ、全ては夢幻なんだと、また

憂鬱になり始めます。

 いやいや、そりゃあ何の準備も無しに旅行などは出来ないよ、と親切な草木が教えても、彼は聞こうと

もしません。

 ひたすらに涙を流し、世の中の不条理を責め。だけれども自分の事には何一つ触れようとしませんでし

た。昔から自分の事はすっかり外において、悪い事は全て他の所為にしていたのです。

 そうです。男は自分を見るのが怖かったのです。自分が本当は何もしていないのだと、解るのが怖かっ

たのです。現実の自分を知るのが嫌だったのです。

 けれど、男は気付かないふりを続け、今も絶望を楽しみながら、新たな絶望を探し出し、もっと大きな

憂鬱を味わう為に、再び歩き始めました。

 自分から絶望に向っているのですから、好きでやってるとしか思えません。それでも誰かを責めるので

す。憂鬱なのは嫌だと嘘を吐くのです。

 ゆっくりゆっくり歩きながら、お腹が空いたら必死に木の実や食べられそうな物を探して食べ、喉が渇

けばその辺の川や湖で飲みました。

 幸い、ここいら辺は森が多く、生きようと思えば何とか生きられるのでした。

 男が人目を避けて今まで生きてこれたのも、そのおかげだったのです。

 しかし男は自然の恩恵を全て否定し、やれ不味いだのまだ熟れてないだの、この川はどうせ誰かが川上

で洗濯してるに違いない、多分水浴びなどもして汚れきってるに違いない、だの言って、口に入れる度に

憂鬱になりました。

 男はもう意地でも憂鬱にならないと気が済まないようです。

 ちょっとつまづいた。雨が降ってきた。暑い、寒い。そのような自然の中では当たり前の事でさえ、生

まれてこの方そんな事は日常茶飯事である事を忘れ、きっと自分を苦しめる為だ、ああ、自然まで私を苛

めると言っては、その度に泣きながら拳を振るって、天に嘆きました。

 何故この世の中にある全ての物事は、ただ自分を苛める為にだけ存在するのだと。そんなに自分が憎い

のかと。

 そんな事を言われても、天の方も自然の方も、何のこっちゃら解りません。

 普段通りしてるだけなのに、男がこの世に生まれる遥か以前からそうしてるのに、何故この男はこうも

いちいち反応するのでしょう。

 男一人に対して、何故皆して意地悪をする意味があるのか。そんな事をして一体どうなると言うのか。

逆に男に問いかけてみたいくらいです。

 大体が、天や自然は、天や自然の思惑があってやっているのです。人が人の思惑で生きてるのと同じよ

うに、天には天の、自然には自然の考えがあるのです。

 それを何故人間の、しかもその中のたった一人を気にしないといけないのか。

 それならその人間の方は、天や自然に対してどれだけの事をしてるというのか。天や自然が人間達の為

にあるだなんて勝手に思われても、天や自然は困ります。

 人間も自然の一部でしかありません。一人の人間は、一本の草、一匹の虫と同じ事なのでした。

 そこで見かねた雲が、天の代わりに答えてやりました。雲は大地を見守るのが仕事だったからです。

 何でそんな事を言うの、一体誰が何をしたの。

 そんな風に問いかけましたが、男は雲まで私を馬鹿にすると言って聞きません。いつまでも独りで嘆い

ています。

 最後には雲も根負けしてしまい、風に乗って行ってしまいました。

 そうすると、今度は雲まで私を見放したと男は言い出します。

 突然現れては自然を嘆き続ける男に、とうとう見かねて天が話しかけました。いつまでもぺちゃくちゃ

ぺちゃくちゃ悪口を言われるのは、天としても大変迷惑だったからです。

 お前は何がそんなに悲しいのか。なら一体どうしてほしいのかね。

 しかし男は泣き続けるだけで、折角こうして聞いてくれてるのに、何も答えようとしませんでした。彼

にもどうして欲しいか解らなかったからです。何が悲しいのかも解らなかったからです。

 いや、初めから天に不満がある訳ではなく、自分も何かを悲しんでいる訳ではなかったからでしょう。

男はただ憂鬱でいて、罵れる相手がいれば、それで満足だったのです。

 天は根気よく待ちましたが何も言いませんので、ともかく見守っててあげるから、と言って、家へ帰る

ように諭しました。人間は人間の中に居るのが一番だと思ったからです。

 散々泣いて、流石に男も気が済んだのか、家へ帰る事には応じ、道を引き返して行きました。

 天はホッとしました。

 男はその後も嘆き続ける事は止めず、何を見ても憂鬱になる事は変わりませんでしたけれど、ともかく

家へと帰り着きました。

 男が出て行ったので、当然家の中は空っぽです。埃がたまって、まことに物悲しい風景でありました。

 男はそれを見ると絶望し、憂鬱になり、もうここは自分の居場所ではなくなってしまった、と言って、

もう一度走り出しました。何処までも走りました。

 真に忙しい、元気な男です。

 そうして近くの海辺まで来ると、ああもう行き場が無い、私の行く道は全て途切れた、と言って泣き出

してしまいます。

 いきなり来て泣き喚く男に吃驚した海は、どうしたのか、何がそんなに辛いのかと聞いてあげました。

海は普段はとても優しかったからです。

 しかし男はいつも通り何も答えません。何しろ男もその答えを知らないからです。

 海は困りました。一体どうして欲しいのか、それを言ってくれないと解らない。解らないと何かしてあ

げようにも、何も出来ないではないですか。

 確かに自分の事は自分が一番良く解るから、自分の気持は解ります。けれども、他の人の気持までは解

りません。海も流石に人間の心までは解らないのでした。

 それでも何度も何度も根気強く聞きますと、男は何故か怒り出してしまいました。

 喚き散らすので良く解りませんでしたが、ともかく聞いてみようと耳を澄ましてじっと聴いていると。

 何故誰も解ってくれない、私はいつも独りだ、とそう言っているのが解りました。

 海は、誰も解っていないのではなくて、誰も独りにしようなんて思ってもいなくて、ただ君だけが進ん

で独りになろうとしているのだよ、と思った事をいって見れば。

 今度は何でそんなに優しくないんだ、と男から怒られてしまいました。

 そう言われても海にはどうしようも出来ません。自分で決めてしまったら、誰かが何を言っても聞いて

くれないからです。人間は頑固だと、海はよおく知っておりました。

 果たしてこれは相談してくれてるのだろうか、それとも邪魔をせずに放って置いてほしいのだろうか、

と海は悩み始めました。

 そうして黙っていると、男は今度は太陽に怒鳴り始めます。

 人間でないお前達には、人間の辛さ悲しみなど解るはずが無いのだ、と。

 すると今まで黙って照らしてあげていた太陽は、ゆっくりと男に言いました。

 じゃあ君は誰かを解ろうとしたかね。いや、その前に誰かに解ってもらおうとしたかね。

 男は黙って泣き出しました。また答えが見付からなかったからです。自分が何もしていないのを解りた

くなかったからです。悲しんでるふりをして、独りで楽しんでいたかったからです。

 男はただ何かを罵って、絶望して、独りで勝手に憂鬱に浸っていたかったのです。昔からそうなのです。

 男は憂鬱なのが好きなのでした。ただそれだけなのでした。

 だから親切に聞いてくれても迷惑で、男の為を思って言ってくれても迷惑で、初めからそんな風に親切

にして欲しくなかったのです。好きに憂鬱にさせていて欲しかったのです。

 男はただ自分の好きなようにしていたかったのでした。

 太陽は待ちくたびれてひっくり返り、辺りは夜になってしまいました。

 太陽にはたくさんの仕事があるので、いつまでも男一人に付き合っていられないのでした。

 交代して夜空には月が上がり、今度は月が男を照らします。

 男は疲れたのか、その場に寝そべり、やっと静かに眠りました。

 静かに静かに眠りました。

 子供のように、ぽっかり月夜に照らされて。

 眠れば誰でも大人しい。静かに静かになれるのでした。

                               

 

                                                         了




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