善良なる鼻毛


 鼻毛はいついかなる時も人の鼻倉にて、その素直なる心のまま、その役割を果たさんが為、宿主から吹

かれたまう鼻息に揺られながら、その生を全うす。

 ゆらりゆらりと揺られながら、一人では出来ぬその役割を全うする為に、狭き穴にて多くの隣人と住ま

い、空気をろ過す仕事を続けたまう。

 儚きも面白きも、鼻毛は鼻なる毛としてその生を全うす。

 ある日には宿主に何の前触れもなく抜かれたまうとしても、鼻毛なる者は決して驚きも嘆きも致しはせ

ぬ。ただその生を終えたと言わんばかり素直なるままに抜かれ、恨み言の一つももらしはしない。

 その善良さは類なきものにて、しかれどもその善良さを理解する者は少なし。その宿主でさえ、ともす

れば厄介扱いしては無意味にその命を散らす事もあり。

 一体何をもってその生の意味を知るか。その生の意味となるか。誰も解らずとも困るまいそれを考え出

でても、何が変わる事はなきとしても、甚だ興味深い事柄なりし。

 惜しむらくはその成長するにあり。その体長が伸びる事に全ての災厄の原因があるやなしや。

 鼻毛も伸びずば抜かれまい。そう思いきれども、さりとて生在りし者は須く成長するものなれば、変化

を伴うのが生なれば、それを止める事は誰にも出来ぬ。鼻毛にもそれは不可なり。

 しかれども鼻毛は文句一ついう事なしに、その場にてただ在りしたまう。そのなんと善良なる事、なん

と情けありし事。我々の誰か一人にでも、今日そのような情あるや。

 鼻毛は鼻毛でありし為にその生を虚しく過ごすというのであれば、それは当たらずと言うべし。

 鼻毛は鼻毛でありし故に善良なる。鼻毛は鼻毛であるが故にその生は情愛に満ち溢れ、我々の忘れし心

を体現していると思うべし。誰も鼻毛を敬いしこそすれ、侮蔑する資格無きと知れ。

 そのゆらりゆらりとたゆたいし姿の優美さ、まさにあるべき姿と知る。

 さりとて鼻毛は鼻毛の苦労ありしからには、その姿に憧れのみ抱くのは甚だ愚かなり。

 もし人が鼻毛でありせば、鼻毛は鼻毛としてあれるべきや否や。人が鼻毛でありせば、鼻毛は鼻毛とし

ての生を失うと知るべし。人が人でありし故に、鼻毛は鼻毛であると思えり。

 我が生が何も恥じるべき何物もなしと思えばこそ、鼻毛への供養となる。鼻毛も鼻毛の本文を全うすと

思えり。

 鼻毛は善良なりせば、何も望まず。鼻毛は善良なりせば、その生と死に疑問を抱く事無し。ただその生

をその生であるが為に全うす。その生に異を挟む事こそその生を侮蔑する事である。

 しかれども鼻毛にも求むる生はあり。否、もしありと仮定したらばの話であるにせよ、もしそれがあり

とすれば、即ちその身が白む事なりと思えり。

 人も年老いれば白む。毛と言う毛は尽く白む。そうであれば、鼻毛もまた毛として白む事を望むと思え

り。白む事こそ最も優れた生なりと思えり。

 必要であればこそその生が続くのであれば、白む事こそその生を真の意味で全うしたと言うべし。なれ

ばこそ、鼻毛は鼻毛であるが故に、その身の白むを目指すと思えり。

 されば人としてその情に答える事こそが、鼻毛への供養ならん。

 即ち鼻毛は抜くにあらず、ただ切るべしと。

 抜けば全ての生は終わりしなれど、切ればその生は終わるまい。生が続けばこそ、いずれ白み、その生

を全うすと言うべし。これに異無し。

 鼻毛こそ切るべし。抜くにあらず。

 この言葉、末代まで伝えん。これこそ人の本分であると知れ。

 善良なりし鼻毛に応える者こそ、善良なる人と言うべし。

 鼻毛の生は罪にあらず。その生は甚だ善良なりし。その善良なりしが故に、鼻毛もまた敬すべきもので

ある。鼻毛もまた善良なれば、その善良さに区別なし。善良さを尊ぶなれば、鼻毛こそ尊ぶべき。

 自らの鼻毛を尊べぬ者は、人もまた尊べぬ。人からも尊ばれぬ。人の鼻毛からもまた尊ばれぬ。

 人もまた鼻毛たるべし。その生に悔やまぬ嘆かず、ただその生を全うする事のみ考えるべし。人は鼻毛

を全うすべし。

 人もまた白むべし。全てを尽くして白むべし。己が身を白む事さえ出来ぬとすれば、その生は無意味な

ると知れ。何も無き生、何も起こさぬ生に、何の意味があるか。己が心に問いかけるべし、即ちお前は鼻

毛に勝るや否やと。

 この生に誇りを持てぬなれば、その生鼻毛に劣ると知れ。生きるべくして生きぬ者に、鼻毛の資格無き

ものと知れ。

 誰が鼻毛よりも良い生であるか。誰が鼻毛よりも満ち足りておるか。何処に鼻倉よりも良い住まいがあ

ろう。己が住処は、鼻倉よりも優れておると誰が言えるや。

 それが優れたると思いせば、その理由を述べるべし。胸を張り、その意を述べるべし。

 出来ぬとすれば、その生は甚だ虚しきと思いし程に、己が生を省みるべし。

 人は善良たるべし。鼻毛に勝るとも劣らぬものを、その身に帯びておると思いせば、その心揺るがぬも

のと知れ。人は鼻毛たりし。人は鼻毛こそ誇るべし。

 鼻毛と共に生き、鼻毛を共に誇るべし。

 人よ、鼻毛たれ。




EXIT