雑仕女


 ちょうちょうと呼べば嬉しげにやってくる。

 命ぜられるのがそんなに嬉しいのか。それともその顔で二心でも抱いておるのか。

 どちらにせよ、この者が居なければわが暮らしは成り立たぬ。不便といえば不便、そうでないといえば

そうでない。

 人に誇れる身分であるこのわしも、この小さな娘なしには何もできぬ。身分とはどうも人を使う事であ

るらしい。

 わしは嫌だと言うたのに、誰もが娘を押し付けた。

 皆が何を期待しておるのかは解っておるのだが、だからとてそれに応える義理はあるまい。

 だがこの小さな娘も、後数年もすれば女を隠せぬようになろう。その時もわしは、まだ頑張っておられ

るのだろうか。

 自信がないと言えば、そうよ。

 ああ、悩ましきは人の世の、煩わしきは人の心。そっとしておいてくれればよいものを、決してわしを

放ってはくれぬ。

 庭に咲く花と満ちる木々のように、わしにそっと見られておればよいものを、何故に関わらなければな

らぬのか。その問いには誰も応えてくれそうにない。

 やんごとない高貴な生まれ、しかしそれを誰が望んだか。わしか、それとも父母か。それも誰にも解り

はせぬ。

 いっそこのまま逃げてしまおうかと思いしも、わし一人では何もできぬ。逃げる事さえ、誰かが必要な

のだ。誰かに助けてもらわねば、何もできぬ我が身を、何度恨んだ事か。

 尊いからこそ一人で何もできぬのだとすれば、これは何と不可思議な事であろうか。

 ああ、しかし、ちょっとやってみようか。



「お出かけにしては遠すぎまする」

「ううむ、うむ」

「どこぞへいかれるのでございましょうや」

「まま、黙って付いておればいい。何なら一人で帰ってもよいぞ」

「まあ、お一人では難儀されますでしょうに」

「難儀もまた美味じゃ。わしはそう思う」

「まあ、おかしな事を仰いまする。皆それを煩わしいというておりまするよ」

「そうじゃな。でもわしの暮らしも暮らしで始終難儀しておるわ」

「何か不手際がございましたでしょうか」

「手際も不手際も、どちらも難儀だてな」

「ははあ」

 さてさて、とにかく家を出てみたものの、どうしたものか。兄上の所へでも行くか、いやいや母上の所

でも参ろうか、いやさ妹の婿殿の所にでも厄介になるか。

 ははあ、難儀な事よ。結局行き場は市中近親にしかないではないか。

 まあよいわ、どこへなりと歩いてみようわい。

「そろそろ戻らねば夕餉の支度が整いませぬ」

「よいわい、よいわい」

「そろそろ戻らねば、日が落ちてしまいまする」

「よいかな、よいかな」

「このままゆけば、街を出てしまいまする」

「はあて、はて、どうしたもんかいの」

 このままゆけばどこへ行くのか。気づいてみればそれも知らん。わしの知る道はすでになく。わしの知

る物もすでにない。世界は広いというておったが、さてもさて広いものよ。

「どこぞへ向かわれまするか。皆様ご心配になられます」

「させておけばよい」

「市外へいくのは心細うございます」

「なんのなんの」

「せめてどこへ向かうかだけでも、知りとうございまする」

「まてまて、今考えておるのだから」

 どこへも向かっておらんといえば、この娘はどう思うのか。それでも嬉しげに付いてくるのじゃろうか。

それとも泣いて逃げるのかいな。知りたくもあり、知りたくもなし。

 どちらにせよ気の毒だわいな。ここは一つ、謡って進ぜよう。

「・・・・・・」

 はて、謡おうと思えば何も浮かんでこんわい。こりゃあ、わしも恐れとるな。

「そろそろ、帰るぞ」

「はい」

 この娘がこのように嬉しげな顔をしたのは初めてよ。

 今までの顔はみな作り事かいな。はてはて、困ったもの。わしはこんなのは見抜けぬわいな。一々外へ

ゆくわけにも参らぬし、わしもすでに手の内か。

 結局こうなるわ。使っておるつもりが使われておる。いつもそうじゃ、だから嫌じゃったのに、誰もが

それを許しはせぬ。

 誰が好き好んで、他人に身を任せようか。皆それが好きじゃと言うとでも、わしはそれが嫌いだわい。

「のう」

「はい」

 それでもやっぱりわしの命は。

「帰り道はどこじゃったけの」

「こちらでございまする」

 この娘にかかっておるのだわ。

 やはりやはりままならぬ。この道どの道同じ事。わしの進むはこの娘。これが娘の思うがまま。そう思

うて何が悪い。本当いうて何が悪い。

 もう逃げるのは止めようわい。全てが無駄、わしは今日、悟ったわい。

 坊さんにも、なれようわい。



 庭の景色、踏みしめるいつもの床、この小さな場所がわしの全て。わしのいる場所。

 それを哀しいと思うてみたところでどうにもならぬ。逃げ出す事も叶わぬ身。これではそもそもどうに

もならぬ。

 涙を流し悔やんでも、死ぬかここか二つに一つ。わしもあの娘と同じだわい。いんや、いっそ不自由よ。

 わしを高貴と噂するのは、それをきちんと知っていうておるのか、一度しっかり聞いてみたい。

 高貴な人というのは、どこへもゆけぬ人の子か。ならばわしの父は、山でも背負うておられるに違いな

い。わしでさえこうならば、父は一歩も動けまい。

 父に会うのもいつもわしからだ。父が家を離れた姿を、わしは一度たりとも見たことないわ。

 今まで何にも思わんかったが、考えてみれば不思議じゃの。

 父はあんな小さな部屋で、一日中何をされておられるか。

 何を考えておられるのじゃろう。

 部屋から一歩出るだけでも、恐く思われるのかもしれんな。

 わしが外へゆくのが恐いように、父も恐いのやもしれん。

 高貴とは誰よりも恐れることじゃろうか。だとしたらなおさら不便なものだてな。

 わしは弟でよかったわい。父と同じには、とてもなりとうないわ。

 兄上には申し訳なくとも、わしはそれを喜びたい。それを変だというのなら、わしは変でいいのだわ。

 気楽に庭にも出れぬ暮らしなら、こっちから願い下げじゃ。

「おうい、おうい」

「はい、なんでございましょう」

「酒を持て、今宵は花見ぞ」

「まあ、華やかなこと」

 この嬉しげな娘も、一人だけで充分じゃ。人なんぞ、とても付きおうてはおれぬのぞ。




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