上昇気竜


 あらゆる風の先には竜がいる。

 正確にはその全てを含めて竜という。

 大きな流れ、常にはばたき、上昇を繰り返し、いつしか宇宙に出て、永遠に平べったい空間に溶けてしまう

存在。

 強大な竜も無限に引き延ばされれば無と同じ、有限は無限の前にいつもかすむ。

 どれだけ大きな力を持とうとも、竜が竜で在り続ける為にはこの星から離れる事はできない。

 無限を望み、無限に向かいながらも、その存在は大地に縛り付けられている。それが大気の竜、気竜。

 とはいえ、地上に居るしかない、上昇すらできない人間にとっては憧れの存在。一種の夢。

 だから皆認めたくはない。それが竜であり、一個の大きな生命体である事を。

 竜ではなく、ただの風、大気であり、自然現象。つまり我々とは別の存在である。嫉妬する必要はない。そ

うやって自分達を慰めている。

 見上げる空を飛翔する竜を誰よりも焦がれながら、大地に住まう卑小なる自分を隠す為に認めない。それが

人間だ。

 我らが何をどう思おうと、天を泳ぐ竜の前には全てを見透かされるというのに。

「絶対にあれだ! あれは竜なんだ!」

 そんな人間の中にもごくまれにではあるが、あるがままを受け容れ、竜の存在すら認めてしまう者がいる。

 彼らは自分を卑下していない訳ではない。竜に比べてちっぽけな自分を恥じ、できれば隠したいという心も

同じように持っているのだが。あるものはある。道理に合わぬ事には納得しない。そんな心を多分に持ってし

まっているが為に、そうせざるを得ないのである。

 ある意味、気の毒な人間達だ。

 こういう者達は大体において煙たがられる。

 誰も言わなければずっと目を伏せていられるのに、そいつが言ってしまうから嫌でも目を見開いて見なけれ

ばならなくなる。

 何故言ってしまうのか。何故黙って見て見ぬふりができないのか。

 本当に腹立たしい。それが真実であるだけに余計に腹立たしい。これでは言い訳もできないではないか。

 この青年も人々の輪から遠ざけられ、いつしか孤立させられてしまった。今となっては親兄弟でさえ近付こ

うとはしない。正真正銘の嫌われ者である。

 根が素直で正直であるだけに質の悪い、善人が故の嫌われ者だ。

「絶対に居る! 居るものは居るんだ!」

 けれどもどんなに嫌われようとも青年はその心を改めようとはしなかった。

 しかし人と言い争う事もしなかった。

 彼の良い所は自説を他人に強要しない点である。絶対に竜は存在するし、この目でいつも見てもいるのだが。

さりとてそれを居ないという人に対し、居ると言え、とは言わない。

 見えないのか、見えないふりをしているのかは知らないが、人は人、自分は自分、それはそれで良いと思っ

ていた。

 おそらく興味が無かったからだろう。他人の事は他人がやればいい。自分には関係のない事だと考えていた

のだ。

 彼の思考回路は単純かつ明快であった。

 そして人の話もよく聞いたが、絶対に自説を曲げる事だけはしなかった。

 青年は真実のみを受け容れ、誰よりも竜に焦がれていた。

 病的なまでに焦がれていた。

「居るのならば、俺もそうなれるはずだ」

 彼には一つの考えがあった。

 上昇する気竜という存在がいるのであれば、そうできている生命体が同じ星にいるのであれば、自分もまた

そうできる事は不可能ではないはずだ。

 本当にそれが自然現象であれば諦めもしよう。しかし同じ生命体にできている以上、諦めなければならぬ道

理は無い。それは自分にもできるはずなのだから。

「同意など要らぬ。俺はただ進むのみ」

 青年は孤立する前からずっと長く旅をする準備をしてきた。

 気竜と同じ事をするという目的を見出してから、彼の生はただそれを果たす為だけに使われた。

 金を貯め、道具を揃え、地理を理解し、食料を集め、何よりも生存する為の知識と技術を培(つちか)って

いった。

 そして決意の時はきた。

 行くべきである。

 今こそ気竜となるべく我が道を進むべきである。

「・・・・・・・・・・・・」

 青年は誰にも何も告げず、書き置きさえせず旅に出た。目指すは気竜。常に空に見えるあの巨大な竜。

 目指すべき竜は決めていた。物心ついた頃、初めて認識した竜。それからずっと彼の目の前に居るあの大き

な竜。それを目指す。

 道のりは困難を極めたが、青年はその全てを克服した。

 長い年月をかけて準備した事が役立った。涙さえ流れる程に、それは報われた。彼の努力は全て報われたの

だ。それは正当な努力であった。

 彼はたどり着いた。目指す竜の許へと。

 それは目に映りきらぬ強大かつ巨大な力場のようなものであった。

 はるか遠くからならば見えていたそれが、今は肌に感じられる振動でしかない。

 遠くにあるものを目のすぐ近くに持ってきたかのように、それがそこに在る事は解るが、それが何であるか

認識できない。目という器官の能力が追い付かない。例えるならそんな具合だ。

 それでも居る事は解ったから、青年は問うてみた。

「竜よ。気の竜よ。強大な存在よ。俺も空を飛びたい。お前のように空を駆け続けたいのだ」

 しかしそれに対する竜の言葉は無情であった。

「ならぬ。それは我らにのみ許された力。我ら以外がこの空に住まう事は許されぬ」

 青年は退かない。

「では俺を竜にせよ。竜となれば、空に住まう事も許されよう」

 竜は言葉を切った。

 しばらく考えているかのようだった。

 誰も今までそんな事を言わなかったから、どう答えて良いか解らなかったのかもしれない。

 ただ青年の望みは決して不可能な事ではない、とは思った。

 さすがにこの星、地上では無理があるが。無限の宇宙に出れば全ての存在は平たく無限に伸び、薄くなる。

宇宙において全ての存在は等しく同じ。空も海も山も生命も全てが宙に溶けるだけのただの小さな薄い存在と

なる。

 そうであるならば、青年が竜と同じ存在となる事も可能かもしれぬ。

 もっとも、そうできた所で意味も命も無いかもしれぬが。

「危険な賭けになる。また、そうできる保証も無い」

 理屈としてはありえるが、頭の中だけの空想ではどうにもならない。誰も試した事の無い事を無責任にでき

るという言うには、あまりにも竜は賢過ぎた。

「構わん。その為にどうなっても悔いはせぬ。恨みもせぬ。俺はただ空に住みたい。それだけなのだ」

 竜はその心に胸を打たれた。さようなまでに自分達を恋い慕う命が居るということは、それだけで竜の心を

満たすのに充分であったのだ。

 竜は青年を宇宙にまで連れて行ってやろうと考えた。

 上昇し、いつかは溶けると知っていても、それでも尚上昇し続けたいという気持ちならば、竜は誰よりも理

解できた。

「ならば私もお前同様、この存在を賭けよう。共に溶け果てたとしても、嘆く事なかれ」

「応!!」

 竜は青年を掴み、ぐんぐんと上昇速度を上げた。

 本当ならば長い長い年月。人という種が生まれてから滅び去るくらいの、或いはそれ以上の長い年月をかけ

てゆっくりと準備しながら上がっていくのだが、この竜はその法を破った。

 どれだけ準備をしたとしても無限には勝てぬ。ならばこの人間と心を共にするも一興。どうせ行き着く先は

皆同じ。早いか遅いかだけの問題である。

 竜は全ての力を解放し、瞬時に宇宙まで昇った。

 そして無限に引き延ばされ、宇宙の塵と成り果てた。

 青年もまた同じ運命をたどった。

 けれど竜は満足していた。宇宙まで昇り詰めた自分の力というものに納得し、その生を謳歌した。

 青年もまた満足していた。竜と共に宇宙に溶けた時、彼もまた竜であり、空をすみかとした。

 その願いが叶ったとは言えぬでも、最後の望み、二人の望みは果たされた。

 二人は満足し、宇宙そのものと、なったのだ。

 そんなお話し。




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