15-1.領土回復


 甘繁(カンハン)は楓流の話に複雑な表情で答えたが、しかしそれを否定しようとはしなかった。

 彼も常々考えていたらしい。集縁が今の秦にとってどれだけの役割を果たせるものなのか。価値がある

ものなのか。飛び地である以上、独立性が強まるのは自然の理。そして独立心が強いという事は、いつま

でも民が秦に服さないという事でもある。集縁の民には秦民という意識が薄いのではないか。

 元々楓への気持ちが強い上に、今の今まで半独立のような状態にある。それに楓と強く繋がり、一緒に

なって行動するようになっているから、尚更秦民という意識は湧かないだろう。民はおそらく秦が一時預

かっているのだ、というような気持ちでいる。

 秦に懐(なつ)けという方が無理であろう。民は甘繁に素直に従ってくれてはいるのだが、このままで

良いとは思えない。このまま続けても、これ以上繋がりを深める事は不可能である。

 何とか秦の支配地であるという印象を強める事が出来れば良いのだが、集縁は独自に行動せざるを得な

い事情がある。

 中諸国の事もそうであるし、呉、韓の事もそうだ。事を構える事になれば、その相手がどこであったと

しても、集縁は集縁の力のみで当たらなければならない。秦には頼れない。

 そうなると集縁だけではどうしても不安なので、同盟国である楓の力を借りる事になる。そうなれば楓

の繋がりは益々強まる。これは秦にとって悪循環である。

 三功臣や甘繁など、ある程度目端の利く者であれば、そんな事は当然のように理解している。しかしど

うにもならない。間に呉韓が在る以上、秦は直接集縁に手を出し難い。どうしても楓の力を借りる必要が

ある。

 だから甘繁も初めからそれを頭に置いた上で振舞ってきた。楓流との仲もそういう意図から自然に結ば

れたものである。甘繁も無私という訳ではないし、秦に対して小さくない想いもある。秦にとって不利益

になる事は、よほどの理由が無い限り、行いたくはない。楓との繋がりを深くする事は、彼の重要な仕事

の一つでもあったのだ。

 こういう点から考えれば、新呉、韓の領地と集縁一帯を交換するという案は、決して悪くない話である。

むしろ喜ぶべき事なのかもしれない。

 手放すのは惜しいが。どの道、秦は中央に構っていられなくなる。今後は西方の双、越との関係が重視

される事になるだろう。この二国が次の仮想敵国である。

 ならば今中央に進出する事に拘る必要はない。むしろここで楓との仲を強めておき、楓に中央を押えて

もらった方がいいのではないか。そうする事で初めて安心して西方平定に集中する事が出来るというもの。

 決して悪い手ではない。

 ただし、それが上手くいけば、の話である。

 楓流の案は全て呉、韓を倒してからの話。実行する為にはまずこの二国を滅ぼさなければならない。ど

ちらも民や将兵の多くを捨てて逃げた王と側近が建てた国だから、大義名分はどうにでもなるだろうし、

強い力を持っているとも思えないが。そう簡単に滅ぼせるとも思えない。

 こちらの戦力は楓と集縁だけである。秦本国は動かせない。楓と集縁でそれをやるからこそ、この案に

旨味が出てくるのだから、これだけの戦力でやるしかないのである。

 しかし本当にそれが出来るのか。弱体化しているとはいえ、呉も韓も悪くない人材が残っているし、存

亡をかけた戦となれば、死力を尽くして向かってくるだろう。特に全てを捨ててまで王と共にした者達は、

その士気、実力共に高い位置にあると考えておかなければならない。

 しかも例え楓流案を採ったとして、結局集縁も戦わなければならなくなる。そんな事をするくらいなら、

呉と韓が不安定な今、その時間を使って富国強兵に努めた方が良いのではないか。何も今すぐ領土を増さ

なくてもいい。中諸国の不安も一先ず治まり、集縁は集縁として在り続ける事が出来るのだから、秦は今

無理をして領土拡張を求めなくとも良いのではないか。

 元来文人肌である甘繁はそう思う。戦など敢えてするべきものではないと。

 しかしそれを察したのか、楓流がこんな事を言ってくる。

「直接事を起こすのは我々だけでいい。集縁には主に後方支援と防備のみ請け負ってもらいたい」

 つまり矛を交えるのはあくまでも楓軍であり、集縁軍は形だけとは言わないが、危険の少ない仕事だけ

で良いと言うのである。

 旨(うま)い話だ。怪しいが、しかし本当にそうであれば、答えは違ってくる。

「考えてみましょう」

 甘繁は最終的にそういう結論を出した。これは秦本国が許すのなら、自分もまたそれに異存は無い、と

いう意味である。明言を避けたのはまだ本国の返答を得ておらず、独断する訳にはいかなかったからだろ

う。とはいえ、甘繁個人としては了承しているも同じなので、これ以後は具体的な話に移っている。

 甘繁が楓流案で問題としていたのは、集縁の、つまり秦の疲弊(ひへい)である。集縁の軍事力も秦に

とっては貴重な戦力。上手く呉と韓を得られたとしても守備兵が必要になるし、集縁軍がそのまま種自閉

として配備される事になる筈だ。

 領地を奪ってもすぐに取り返されたり、敗残兵や賊に蹂躙(じゅうりん)されては意味がない。しっか

りと護る必要があり、その為にも集縁軍の兵力を減少させる訳にはいかない。食糧などに関してもそうだ。

西方がまだ定まっていないからこそ、秦の野望が未だ達成されていないからこそ、その足を引っ張らぬよ

う、呉韓を得たにしても、集縁を治め続けるにしても、秦は中央に安定した力を持ち続けなければならな

いのである。

 だから結局集縁の兵力を使わなければならなくなるようなら、楓流案を断るしかないと考えていた。秦

本国が例え同意したとしても、甘繁は集縁を任されている者として、現地の実情を知る者として、積極的

に協力は出来ない。

 しかし楓流の言葉はその問題を解決するもの、少なくともそう思わせてくれるもの、であった。であれ

ばそれを行うにしろ行わないにしろ、計画を立てておく事は損にならない。具体的な作戦を練る事で楓流

の真意を探る事も出来るし、楓の実兵力を推測する手助けにもなる。

 甘繁が断る理由は失われた訳だ。

 楓流は甘繁の賛同を得る事に成功した。だがそれはあくまでも賛同であって、積極的な協力ではない。

楓流が前言を翻すような事、集縁軍の出馬を願うような事、をすればすぐに手を引くであろうし、楓とし

ても決して良いばかりではない。

 果たして楓流に勝算はあるのだろうか。それともこれは一時の方便で、他に別の狙いがあったというの

だろうか。



 大まかな作戦を練り、一夜飲み交わして親交を深めた後、楓流は長居せずすぐに窪丸へと帰り、吉報を

待った。

 甘繁の事も秦の同意を得られてこそ。まずは秦がこの話に乗ってこなければ、何も始まらない。だから

秦に密使として送った明開(ミョウカイ)が吉報をもたらしてくれなければ、喜ぶ訳にはいかない。楓流

は準備を進めながら、祈るようにその帰りを待った。

 明開が戻ってきたのは、楓流が戻ってから更に半月程経ってからの事である。まあ、無難な所と言える

か。急げばもっと速く行けるのかもしれないが、密使という事、そして水運が天候に大きく左右される事

、呉と韓を通り抜ける事が現在少し難になっている点を考えれば、むしろ早いと言えるのかもしれない。

 楓流や趙深など慣れているものであればまだしも、明開は初仕事であり窪丸から秦へ移動するのも今回

が初めて、それを考えれば遅いとは言えない。

「首尾は上手く運びましたぞ」

 明開は開口一番、芝居がかった口調でそう切り出した。この男は双においてもこのような風で通したの

だろうか。肝が据わっているというのか、何と言うべきか。

 そして、わしもなかなかのもんでしょう、と笑いながら、詳細を話し始める。

 明開はまず楓流の伝手を頼って張耳に会い、王へのお目通りを願った訳だが。王ではなく、この張耳こ

そ説き伏せなければならない相手である事を、彼もよく理解していた。故に助力を乞うというのではなく、

初めから論敵と考えて事に当たった。

「そうは言っても、子曰く、などと弁じたてた訳ではありませんがね」

 明開はよく笑う。酒に酔ってはいないようだが、今の自分の気分には酔っているのかもしれない。

 張耳を説いた訳だが、これがなかなかの曲者。一筋縄でいく男ではなく、明開も苦労させられた。しか

しその利と秦の現状を並び立てて論じて行けば、少しずつ張耳も聞いてくれるようになり、様々な条件を

出されたものの、何とか楓流の望む範囲内で話を付ける事が出来たという。

 元商人の面目躍如(めんもくやくじょ)といった所か。

「しかしこれで良かったのですか。秦は呉と韓をやるまでは黙認の姿勢で、本当に協力してはくれますま

い。それに集縁も。これは正直、良い取引とは言えませんな」

「構わない。ご苦労だった。その働き、覚えておこう」

「ハハッ」

 明開は今回も素直に引き下がった。その真意がどこにあるのかは知らないが、確かに楓臣として生きる

つもりであるらしい。それは形ばかりの事であるのかもしれないが、彼一人を御し得ないようであれば、

楓流には王たる資質がない事になる。

 そしてそれは別に明開に限っての事ではない。誰が相手でも言える事。それがどのような相手であれ、

上手く使ってこそ人の上に立つ資格がある。

 楓流もそれを見せ続けなければならない。誰かの上に立つ限り。

「さて、後は呉と韓の内情だが。そろそろ氏備世を頼っても、良い頃合かもしれんな」

 楓流はすぐさま楊岱(ヨウタイ)に命じ、混血の間者の中から特に腕の立つ者を選び、急ぎ送らせるよ

う伝えさせた。

 送られて来た間者は三名。それぞれ、鋲(ビョウ)、審(シン)、合(ゴウ)と名乗っている。三人共

混血で皆似たような背格好をしており、暗闇に居ると誰が誰だか解らない。審のみが女で、他二人は男で

ある。

 彼らから渡された手紙を読むに、氏備世が自信を持って送ってきた者達のようで、確かに身のこなしや

息使いからは並々でないものが見受けられる。おそらく変装して街に溶け込む型の者達ではなく、闇夜に

乗じて情報を得る事を得意としている者達なのだろう。

「遠路ご苦労で悪いが、事は緊急を要する。急ぎ呉と韓へ向かい、その内情を調べてもらいたい。現地に

はすでに他の間者を潜り込ませている。望むなら、自由に使っていい」

 楓流は間者の指揮権を与えられた証である特別な印を彼らに渡した。

 この印がどのようなものであったのか、はっきりとは解らない。現物が残っていないからだ。一説には

形あるものではなく、合言葉のようなものであったとも言われている。

 楓流の誇る間者団は氏備世の影響か皆非常に忠誠心が強く、楓流の為にその身を捧(ささ)ぐ事を誇り

とさえ考えていたらしい。彼らはまさに楓流の影であり、その為にのみ生きた。そうできない者は氏備世、

或いは同胞に殺されたという話もある。彼らは非情なる鉄の掟で繋がれていたのだろう。そのような者達

が、自分の証拠となるような物を残しておく訳がない。だから何も残されていないのである。

 間者達は楓流に命じられるや即座に出発し、呉と韓へと潜り込んだ。

 後は報告を待つのみである。



 準備は整った。

 楓の軍備増強の理由も、呉と韓に落ち着きがなく、集縁との間に万が一何か起こった時にすぐ援助でき

るようする為、と付近の国々には説明している。

 特に楚には注意深く説明し、疎かにはしなかった。今楓流が中央に集中できるのも、楚との関係が良好

だからである。もし楚との関係があまりよくないものであったとしたら、今このように策をめぐらしたり、

身軽に動いたり、は出来ていなかっただろう。

 楓流は楚の重要性を忘れていない。そして姜尚(キョウショウ)という存在も。

 現在姜尚は斉に居る。しかしその影響力は楚斉全土に及んでいる。彼の威は王すら凌ぐ程で、王もまた

遠慮せざるを得ず、彼の意向が即ち楚の意向であると考えてもいい。王がその事に対して危機感を持たな

いのが不思議なくらいであるが、それだけ信任厚いという事なのだろう。その立場は秦の三功臣すら及ば

ない。

 衛の趙深が絶えず目を向けており、充分心配りをしているが、楓としても充分に心を配っておく必要が

あった。無論王以上に遇する事はしないが、出来る限りの事をしておく必要がある。

 姜尚は今の所楓のやり方に不満はないようで、黙認してくれているが。今後どうなるかは解らない。姜

尚の動向にも、常に注意を払っておく必要がある。

 特に楓が集縁を手に入れ、秦が呉、韓の領土を手に入れたとすれば、楚は隣国の強化を恐れ、何かしら

の手を打ってくると考えられる。例えば呉、韓を討てるという状況であっても、楚が呉、韓に味方する動

きを見せれば、楓は兵を退かなければならなくなる。他にもその気になればいくらでも手は打てるだろう。

 楚と同盟関係にあるといっても、すでに北方大同盟の意義は失われてしまっている。いずれはこの国と

も雌雄を決する事態にならないとは言えない。現在の関係に甘んじているようでは、必ず足元をすくわれ

てしまう。

 楚との良好な関係があって初めて呉と韓に目を向ける事が出来るという事は、逆に言えば楚に楓の喉元

を押えられているのと同じ。油断ならぬ関係なのである。

 とはいえ、今の所良好な関係を保てている。

 姜尚だけには秦と交わした密約を教えてもいる。密約など本来なら他にもらすような話ではないのだが、

今後の事を考えれば、姜尚には話しておいた方が良いと判断したのだ。

 それでも黙認しているのだから一先ずは安心な筈だが、楚の黙認が単に友好関係からきていると考える

のは危うい。楚も楚の意があって動いている。決して友誼(ゆうぎ)の為だけではない。

 ならば姜尚の真意はどこにあるのか。

 楓流は思い切って守備兵を減らしてみようと考えている。

 つまり、わざと楚が攻め易い状況を作って見せるのである。それも見せ掛けではなく本当にそういう風

に動かす。これは自殺行為にも等しい事だが、楓流には勝算があった。姜尚の人柄と名声を考えれば、逆

にこれくらい思いっきりよっかかってしまった方が、安全になるのではないか。

 こうまでされて楓を裏切るような真似をすれば、楚も姜尚もその名を大きく汚す事になる。例え呉と韓

が何を言ってきたとしても、それに乗じるような事はできなくなるだろう。いや、できないとは言わない

が、限りなく難しくなる。

 楓流はどうせやるならと、窪丸をほぼ空にしてしまう事にした。賊討伐用に少数の兵力だけを残し、後

は全て出す。窪丸に残るのはせいぜい数百で、一国の軍勢と渡り合う事の出来るような数ではない。楚に

楓の意を伝えるには充分であろう。

 そしてその事を予め主だった将へ伝えておく事にした。後々混乱を避ける為である。

 そうこうしている間に、呉、韓へ送った間者から次々に報告が入ってきた。

 その報に寄ると、現在呉韓は新体制への移行が完全ではなく、臣の間にも不満や戸惑いの方が多く、民

の間には不安が溢れているようだ。特に西方三国の威を恐れ、必死に貢物などをしながら、関係改善に努

めているという。

 国の夜逃げにも似た引越しなど、そう簡単に行えるものではない。本国から逃げてきた臣達と、今の呉

韓領に元々居た臣達の間で確執も生じるだろうし、辛うじて形は保っているようだが、実情は火の車。国

を保てているというだけでも、幸運と言えるのかもしれない。

 楓流は彼らを買被っていたのかもしれない。

 無理を通せば、負担が大きくなる。

 どちらの国も国を保つ為に軍事力に頼っているようだが。つまりそれは軍を率いる将軍の権威が非常に

重くなるという事である。以前の蜀にも似た状況だ。王の権威も随分落ちているに違いない。

 両国共に現在その軍を握っているのは、元々その地を任されていた将であるようで、呉は不凱(フガイ)、

韓は韓衣(カンイ)という男である。

 不凱は大きな実績はないが忠厚く、孫打倒後から中央で堅実に領土拡張を成しており、その功も能力も

決して小さなものではない。しかし突如権威が増大した事から多少増長している節があり、王と共に逃げ、

王の信頼も厚い施績(シセキ)とは、自然反目する関係にある。

 不凱には自分こそが王をお守りし、盛り立てるのだという気概があり。施績には、自分が王を逃れさせ

たからこそ国家存亡できたのだ、という自負がある。こんな二人が共に居て、上手く治まる筈がない。呉

内部は分裂を強め、ただならぬ緊張感が漂っているという。

 韓衣の方はその名から解るように、韓王族の一員である。しかしその血は薄く、王位などとても望めぬ

位置にあり、常日頃から不満を抱いていた。何故暦とした王族である自分が、他の王族と区別されなけれ

ばならない。これではまるで私は偽者だと言われているようなものではないか。こんな侮辱を受け続ける

くらいなら、いっそ、いっそこの手で・・・。

 韓では韓衣がこの機を上手く利用し、王位を得ようという野望を持っている、という噂が実(まこと)

しやかに囁(ささや)かれている。

 彼も任された地を特に問題を起こさずに治めてきたのだから、無能という訳では無いのだろうが。この

ような噂を囁かれているくらいだから、よほど我の強い人物なのか、民や将兵からの信頼が薄いのか、ど

ちらかなのだろう。

 幸か不幸か韓には韓衣以外にこれと言った人物がおらず、王と共に逃れてきた者もすでに王から遠ざけ

られ、韓衣の手に

実権が握られているとか。もしかしたら、王とその近臣に民が同情して、そういう噂が囁かれているのか

もしれない。だとすれば、王もただの飾り物ではないのか。

 とはいえ実権が一人に握られている以上、双璧が反目している呉よりも、しっかりしていると言えるの

かもしれない。

 だが、どちらの国にも綻(ほころ)びがある事は確かだ。上手く突けばいかようにも料理出来るだろう。

抱える総兵力はどちらも五千から八千程度。開きがあるのは今も両国共に必死で兵を集め、傭兵なども雇

えるだけ雇っていて、今も増え続けているからだ。

 しかしその国情を見て見切りを付ける者も多く、入る者も多いが、正規兵、傭兵問わず出て行く者も多

いようである。常に増減しており、きちんとした値を出す事は難しい。もしかしたらこの数字よりももっ

と少ないという可能性もあるし、多い可能性もある。

 対して楓は国を空にするとすれば、ざっと八千は揃えられるか。この軍を楓流が大将として率い、副将

に凱聯(ガイレン)と魏繞(ギジョウ)を連れて行く。この二人にはそれぞれ関係の深い兵が付いている、

から、総兵力を用いるとすれば、連れて行くしかないのである。

 後の事は胡虎(ウコ)に任せる。彼ならば問題なく治められるだろう。側に凱聯も魏繞もおらぬとあれ

ば、胡虎に一時の休息を与える事にもなる。一石二鳥と言えなくもない。

 幸い、凱聯、魏繞共に楓流には従順だ。特に凱聯は楓流には逆らわないだろうし、国に置いておくより

も手元に置いておいた方が安全だと言える。面倒は増えるし、気苦労も増えるだろうが、それさえ我慢す

ればいい事だ。凱聯もそれなりの能力を持っている。細かい作戦を実行させるのは苦手だが、前線指揮を

任せれば充分に役立ってくれる。

 魏繞も一軍を任せるには足らないが、誰かの下に付けば、或いは誰かが側に付いていれば、問題なく力

を発揮する事が出来る。単純に軍を動かす事なら問題なく行えるだろう。ただしどこまで信頼できるのか

は疑問で、進退窮(きわ)まる状況になれば、悪しき行動に出ないとも限らない。しっかりとその手綱を

握っておく必要がある。

 とはいえ、彼は子遂(シスイ)のように極端ではない。こちらが信頼している限り、そして不当な事を

しない限り、彼は彼なりに尽くしてくれる筈だ。

 不安は残るものの、副将とするに足りぬ訳ではない。楓流さえしっかりしていれば、何事も起こらない

だろう。それにこの二人を使えないようでは、これからが困る。皆が趙深や胡虎のようではないのだし、

どんな状況でも戦えるように自分を鍛えておかねば。

 この二人を伴って戦をする事は、楓流にとっても良い経験になるだろう。

 編成は決まったが、さてまずどちらを討つべきか。呉、韓、どちらにも弱みはあるが、楓だけで戦うに

は難しい相手である事に変わりない。一対一で戦えるなら良いが、呉韓が協力するような事になれば、お

そらく勝ち目はないだろう。それだけは避ける必要がある。

 その為にはよくよく選び、もう一方には充分な工作をしておく事が必要だ。秦や楚と話が付いたからと

いって、それで終りではない。当たり前だが、これからが本番である。



 楓流は呉と韓の内情を考慮し、まずは韓を攻める事に決めた。

 確かに内部が二つに割れている呉の方が敵にするには楽だろう。しかしその場合、韓をどう押さえ込む

のか。韓は呉が攻め取られれば次は自分なのを知っている。お互いを売る事で生き延びようとした事から

随分とその仲は冷え切っているが、呉韓の同盟は未だ生きていると言えなくもない。どちらも自国存亡の

危機となれば、恨みを一時置いて、協力し合う事を前向きに考え始めるだろう。

 そうなれば前述したように、楓は勝ち目を失う。

 しかしまず韓に攻め入ったとすれば、その危険性を下げる事が出来るのだ。

 確かに韓を攻めたとしても、呉韓は同じように協力し合う事を考えるだろう。しかしその際、不凱と施

績の不和を利用すれば、呉内を混乱させる事ができ、協力し合う事も阻止できるかもしれない。

 この時に権力が一本であるか、複数であるかが非常に重く関わってくる。一本ならばそれを動かす事は

容易であるが、複数あればたちまち乱れ、動かす事は難しくなる。一本と二本以上との間には大きな違い

があるのである。

 呉を乱せば、不凱も迂闊に軍を動かせなくなる。つまり、韓に援軍を送れない。韓ならば呉とはっきり

とした盟約を結べなくとも、強引に軍を動かして楓を突く事もできるが、呉にはできない。不凱と施績と

いう二本の権力があるからだ。

 だからこそあえて強である韓を攻める。

 楓流は意を決すれば行動に移るのが速い。特に今は一時でも早い方が有利である。すでに失われた国を

暴虐の臣が持ち出し、徒(いたずら)に大陸を乱し、人々を惑わせた罪は重い、として韓へ宣戦布告し、

すぐさま軍を発した。

 呉の方には工作を仕掛け、不凱と施績が一致団結して事に当たらぬよう、あらゆる手を使ってその仲を

裂く。元々火の種はあったのだ。それを燃え立たせる事は難しくない。楓が後ろ盾になって盛り立てるか

らと近付けば、韓侵攻を黙認する事にどちらも肯定的な態度を示した。

 彼らも自身の勢力争いに忙しく、正直な所、韓などに構っていられないのだろう。むしろ楓がこの忙し

い時期に韓へ向かってくれた事に感謝さえしている。これで邪魔な韓を滅ぼす事が出来るし、この機会を

利用して、予定通り全ての悪を韓へ押し付けてしまえばいい。死人に口なし、亡国に人はなし。全ては丸

く収まる。

 外の状況を冷静に見られず、内輪揉めに終始している呉はすでに滅びていたと言えるのだろう。念の為

越に乞うて、金銭の見返りに工作を手伝ってもらい、呉との国境付近に兵を集めさせて圧力を加えてもら

ったが、要らぬ心配だったのかもしれない。呉内は楓流が弄(いじ)る必要もないくらい、とうに壊れて

しまっていた。

 このように、呉に対しては予定以上に順調に進んでいる。しかし困ったのが、予想以上に韓衣が有能だ

ったという点だ。楓が宣戦布告をするやすぐに将兵を集め、王の名を借りて演説し、楓という外敵を利用

して一挙に自分の地位を磐石(ばんじゃく)なものへと引き上げ、軍を整えてしまった。

 やはり権力が一本であるというのは油断ならぬ事である。何事も思うままに出来るのであるから、考え

る力さえあればそれを実行するのに苦労しない。蜀の時と同様に上手く楓軍が利用される形となった。

 だがそれも見せかけだけの事だ。演説によって高められた心などすぐに冷め、血を見れば忘れていた感

情も簡単に噴出するだろう。今韓に居るのは、以前から韓衣が率いていた兵だけではない。その多くが外

よりきた兵と傭兵である。韓衣に服している者は多いとは言えず、中には闘う意志など初めから無く、単

に食い扶持(ぶち)にありつく為だけに兵を装(よそお)っている者も居るだろう。

 そういう者達は戦が始まればいつの間にか消えているものだ。そして誰かが逃げれば、軍全体に逃げ癖

が付く。結束は緩(ゆる)くなり、一撃で瓦解してしまう可能性もある。虚勢など現実の前では何の役に

も立たない。これは誰もが理解できる事だ。

 楓流は韓衣の動きに動ぜず、慎重に軍を操り、粛々と進ませて行く。いざ軍を発したとなれば、最早慌

てる必要は無い。むしろ時間を置く事だ。そうして一日一日迫ってくる恐怖を味わわせながら、韓兵にじ

っくりと自分の状況を考えさせる。

 そして問う。お前はこのような所で死にたいのか、と。

 共に権力が一本であり、兵力も大差ないとすれば、まとまりを欠く韓軍と整然とした楓軍、どちらが優

位であるかは火を見るよりも明らか。折角逃げ延び、生き延びられたものを、こんな所で死して良いのか。

何の為にこんな場所にまで逃げてきたのか。全ては生きる為ではないか。自分達を捨てて逃げたような王

達に、今更尽くす忠義も無い。他に行く当てがある訳ではないが、死ぬよりは逃げた方がいい。今ここで

戦う事に何の意味があるのだろう。

 考えれば考えるだけ彼らは囚われる筈である。そしてその結果どういう行動に出るか。

 少なくともそれは、韓を利するものではあるまい。

 そう、今こそ韓の虚勢を剥ぐ時だ。




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