14-1.

 それは大きな獣だった。六つの足で大地を踏みしめ、五つの頭で四方を睨(にら)む。前方と左右につ

いた頭で周囲を全て見通している。

 一本だけ垂れた尾が揺れる度に鼻息がもれ、その尾がぴしりぴしりと大地を打つ音が響く。尾はその大

きさに比べると太くはないが、それでも人間の胸囲くらいはありそうだ。あんなものに打たれたら一溜り

もないだろう。体がばらばらに弾け飛び、後には無数の肉片が残る事になる。

 これは番人というよりは番犬だ。それとも番人は複数居るのだろうか。もしかしたら番人が使役してい

る番犬の一匹とも考えられる。

 これはぞっとしない考えだったが、ありそうな話である。

「とにかく一度下がりましょう」

 暫く警戒して見ていたが、番犬が襲い掛かってくる様子は無い。多分見付かっていると思うのだが、も

しかしたらまだ見付かっていないのかもしれない。

 どちらにしても襲い掛かられる前に逃げた方がいいだろう。

 クワイエル達は虫人の住居を出てから、教えられた大体の方角へ見当を付けて歩いてきたのだが、いつ

の間にか真空結界に足を踏み入れてしまっていたらしい。

 自分の周囲を魔術で閉ざしてしまった事で、魔力を感じる力が鈍くなっているのだろう。これは痛い副

作用だったが、今の所は我慢しておくしかない。改良しようにもこんな所で魔術を使えば、あの番犬も見

逃してはくれないだろう。多分。

 番犬に襲われて無事に逃げ切る自信は無い。あの大きさから歩幅を考えると、番犬の一歩はこちらの十

歩分はある。どう考えても逃げ切れる訳がない。番犬がどういう能力を秘めているかも解らないし、

とにかく大人しくしてやり過ごすしかなかった。

 クワイエルは慎重に一日かけて後退し、それからようやく緊張を解いて半日程睡眠を取っている。大げ

さかもしれないが、命がかかっているのだから仕方がない。

 ハーヴィが魔術を用いて周囲の魔力を調べてみると、クワイエル達が番犬を見た場所はまだ結界に入っ

ていなかった事が判明した。番犬が反応しなかった筈だ。この地の種も無用な争いは避けたくて、あの番

犬を置き、これ以上近寄るなと教えているのかもしれない。

 それは問答無用に、帰れ、と言っているという事でもあるから、クワイエル達としては良い事ばかりで

はないが。そのおかげで命を失わずに済んだ事は素直にありがたい。

「必要以上の敵意はもたないけれど、簡単に信用もしない。そういう意味でしょうか」

「そうかもしれないな」

 クワイエルの問いにハーヴィが同意する。

 魔術にはそれを行使した術者の考えや気持ちが大きく作用する事が多い。だからその魔術を見れば、何

を考えているかを大まかに察する事は出来る。

 近付く者は皆殺し、という考えもあれば、誰が通ったか確認するだけで特に害は与えない、という考え

の種もこの大陸には居るのだろう。そして彼らの考えがもっとも良く現れるのが、その周囲を覆う結界だ。

 だから結界がどういう意図で張られているのかを考えれば、ある程度推測する事が出来る。

 しかしこの結界から推測する事は難しい。真空結界というのは生物に非常に深刻な打撃を与える結界で

ある。弱い生物なら入った瞬間に死んでしまうかもしれない。その上真空では音が伝わらないので、ルー

ンの詠唱が出来ない。少なくても通常の方法では。

 人でも鬼人でも一度入ってしまえば、その時点で終りだろう。だからこそ番犬を置いて知らせていると

も考えられるが、あまりにも強い結界である。

 レムーヴァもここまでくると、真空程度では大した害を与えられない種ばかり、という事なのかもしれ

ないが。ただ外敵を寄せ付けないだけなら、他にいくらでもやりようがある。この結界は争いを避けるだ

けの目的で張られたと考えるには、あまりにも攻撃的過ぎた。

 それに番犬もただの脅しではなく、相当の力を持っている筈だ。ここまでするとは、よほど警戒心が

強い種なのだろうか。それとも他に何か意図があるのだろうか。

「まあ、どちらにせよ。あそこを通るのは無理だったな」

 ハーヴィの言葉に皆が同意する。

 例え結界がどういう意図で張られたかを理解出来ても、それは突破する為の材料とはならないし、番犬

をどうにか出来る訳でもない。

 クワイエル達があそこを進む為には、どうしてもあの地の種の力を借りなければならないのである。

 しかしその為にはどうすれば良いのか。

 半ば勢いでここまで来たけれど、全く当てがない。どういう種かも解らないし、これだけ警戒心が強い

と身を隠して移動している可能性が高く。もしそうなら、それを見破る手段がクワイエル達には無い。初

めからここでいくら待っていても仕方がなかった。

 待って居ればあちらから接触してくれる可能性はあるのかもしれないが、それをただ待っていてもどう

しようもないのではないだろうか。

 当てもなく待つのであれば、むしろあのまま虫人の住居で待っていた方が、時間はかかるとしても確実

だろう。

 来るかどうか解らない場所で待つよりは、来ると解っている場所で待つ方がいい。これは誰がどう考え

てもそうである。

 結界内に入る事が出来ればそこで待つ方法も悪くはなかったのだが、それが出来そうにない以上、素直

に戻って待った方がいい。

「戻りましょう」

 答えが出れば行動に移るのは速い。クワイエル達はそれ以上こだわらず、反転してさっさと虫人の住居

まで引き返してしまった。

 こういうあっさりした所を見ると、いつもの執着心が嘘のように思えるが。目的の為には執着すら捨て

るという事もまた、未知への好奇心の大きさを表しているのだと言える。

 自分がそう信じている限りは異常な執着を持つけれど、それが違うと解るとあっさり捨てる。執着心が

強いからこそ躊躇(ちょうちょ)無くそれを捨てる事が出来る。矛盾しているように思える事だが、案外

そういうものなのかもしれない。

 そういう点では非常に解りやすいのが魔術師という事だろうか。

 全くおかしな存在である。



 クワイエル達が戻ってきても例の虫人は全く驚かなかった。彼らにとってはそれも、空気が入れ替わり

ました、程度の事なのかもしれない。彼らの邪魔さえしなければどこにいつまで居ても構わないし、その

事に対してどうという感情も抱かない。去っても戻っても大差ない。そういう心なのだろう。

 適当に空いている部屋を使えばいい、例の種が来ればすぐに解るから見逃す事もない、と虫人は親切に

教えてくれ、言うだけ言うと改めて創作に没頭し始めた。

 邪魔をしては悪いのでクワイエル達もそのまま引き上げ、教えてくれた通り空き部屋を見付けてそこに

お邪魔している。二部屋使うのは申し訳ないので、一部屋を区切って使う事にしたが、一部屋がとても

広いから不自由しない。

 むしろ広々として落ち着かず、慣れるまで苦労したくらいである。

 虫人の物だらけの部屋を見てからこの空き部屋に入ると、物凄く物足りないというのか、奇妙な虚しさ

と寂しさを覚えてしまう。

 普段大勢の人が居る場所にふと気付くと一人だった、というような感覚に似ている。

 クワイエル達は暫くゆっくりした時間を満喫していたが、次第に退屈を覚え始めたので、この機会を利

用して虫人達の心を少しでも知るべく、創作活動というものをやってみる事にした。

 森で見た作品群を思い出し、魔術と手作業で様々な物体を作り上げていく。材料は森から拾ってきた物

である。

 何となく思い付きでやってみた事なのだが、それは思った以上に楽しく、クワイエル達は時を忘れて没

頭している。虫人が飽きもせず一日中作っていられる訳だ。この作業には時間の感覚を忘れさせてしまう

力がある。

 自分の手で何かを作り上げるという作業は、それが少しずつ出来上がっていくのが目に見えて解る事も

あって、非常に有意義なものだった。体力の限界があるので、いつまでも続けていられないが、創作、休

憩、創作、休憩という流れが出来た事で、待つのも苦痛ではなくなっている。

 そしてそんな事を始めてからどれだけ時間が流れただろう。

 待っていた事すら忘れた頃、ついにその時はやってきた。



 始まりは一つの小さな音だった。そして普段は気にもならないような音が少しずつ増え、急激に水嵩を

増す洪水のように、止め処なく流れ始める。

 それは音の津波だった。わっと音が押し寄せては消えていく。走り抜ける風のように、騒がしい子供の

群れのように、あっという間に溢れては消えていく。

 そしてゆっくりとその音が安定し始めると、ある一点へ集約する。後はその場所で楽器を奏でているか

のように、柔らかい音色が響く。それは優しく、美しく、先程の騒がしさ、慌しさを否定するように、耳

に、いや五感に、染み入るようにささやきかけてくる。

 静かな建物の中でその音ははっきりと響いた。けして大きくはない。しかし何よりもはっきりしている。

それはまるで音の洪水がその一点で形作り、その大きさが単なる音量ではなく、その存在そのものの強さ

になったかのようだった。

 クワイエル達ははっきりと確信した訳ではなかったが、この突然の出来事を不思議に思い、荷物をその

ままにして音がする場所へと急ぐ。

 虫人の言っていた、すぐに解る、理由はこれかもしれない。

 そこは廊下の入り口付近。出入り口の扉に手が届きそうな近く。その場所に不思議な音が居た。

 音が居る。そう表現するしかない。その姿は目に見えないが、そこに居る事は解る。それは存在する音

であり、一時的現象としての音ではなく、その場で生きている音であった。

 一つの紛れもない生命である。

 その音の生命体がゆったりと廊下の真ん中に小さな円を描くように動いている。踊っているようにも見

えるし、誘っているようにも見える。

 目には見えないが、そうしている姿が頭に自然と浮かんでくる。

 言葉で説明する事は出来ないが、それが解るのである。

「早かったね、画商さん」

 新たな声に振り返ると、この建物で初めて会った虫人が居た。虫人の区別は難しいが、こちらを知って

いる様子から見て、そして画商さんと呼んだ事から考えて、多分間違いないと思う。

 それに例え間違っていたとしても、何か不都合がある訳ではない。虫人はさっぱりしている。

「一応呼んであげようかと思ったけど、そんな必要はなかったようだね」

 クワイエル達を振り返った虫人は人の良さそうな声をしていた。機嫌が良さそうだから、話を聞いてく

れるかもしれない。

 ここぞとばかりにクワイエルが質問する。

「貴方の言う方とはこの方の事なのですか」

「そうだよ。音だけの存在なんだ。吃驚したかい」

 虫人は心地良さそうに笑う。甲高い笑い声だったが、耳に障る音ではない。

「ええ、とても・・・・。とても、なんて言ったら良いんでしょう。はい、吃驚しました」

「そうかい。じゃあこの人はそんなに長く居る訳じゃあないから、話があるなら急ぐがいいよ。じゃ、も

う行くから」

「あ、はい。ありがとうございました」

 クワイエルがお礼を言い終わる前に虫人は室内に消えてしまっていた。クワイエル達が考えていた以上

に彼らは素早く、そしてやっぱりあっさりしている。時間を無駄にしたくないというよりは、彼らに余韻

という意識が無いのだろう。言動が何かを残す、という考え自体がきっと無いのだ。

 まあ、それはそれで良いとして。

「一体どうすればいいのか・・・」

 音そのものである存在。こういう場合はどう話をすれば良いのだろう。虫人は簡単に言っていたが、こ

れはなかなかに難問である。流石のクワイエルも少し途方に暮れてみた。

「あのう、もしもし」

 途方に暮れるふりをしていても仕方がないので、引き続いてクワイエルが音人に会話を試みる事にする。

魔術でテレパシーのように意思を伝えているのだから、多分相手が音であっても伝わる筈だ。それとも同

じ音である声で会話した方が良いのだろうか。

 暫く待っても返事が無いので、今度は肉声で伝えてみる事にした。

「あのう、少し話がしたいのですが」

 すると円を描いていた音人が立ち止まり、興味深そうにこちらを見た。いや見ると言うのは正確には違

うのだが、微妙な振動が伝わってくるこの感覚は、見られている、というのに近い。だからこれ以後は見

られていると表現する事にする。

「話、少し、あのう、ですが」

 音は揺らぎながら、クワイエルと全く同じ音声で同じような言葉を返してきた。その様子は何かを確か

めているようでもあり、何かを調節しているようでもあった。

 クワイエルは反応があったので嬉々として再び口を開く。今度はもっと解りやすくなるように、音人に

習って短く区切って話してみよう。

「はい、話を、私達と、話を」

「話、話す、貴方と、私が」

「そうです、我々は貴方と話がしたい」

「話す。話す。話そう」

 音人がくるりと軽やかに回った、ように思えた。

 非常に話し辛いけれど、何とか会話出来そうだ。話し続けていれば、もっと滑らかに会話出来るように

なるだろう。流石に音そのものだけあって、学習能力が高い。クワイエルの声のままなのには違和感があ

るが、贅沢(ぜいたく)言っていられない。

 クワイエル達は辛抱強く会話を続けた。

 小一時間会話を続けると、それなりに意思疎通出来るようになってきて、片言だった言葉が少しずつ普

通に話せるようになってきた。まだ色々と違和感があるが、話をする分には問題ないだろう。

「私達は貴方達と友好関係を結びたいのです」

「友好、友好なる関係。我々と。我々と貴方が」

「そうです。その為に貴方達の住む場所に行ってみたいと思います。よろしければ招待していただけない

でしょうか」

「小隊、小体、何の正体」

「いえいえ、違います。招待です。つまりお客を招くという意味での」

「おお、貴方達の言葉は、難しい。でも悪くない」

「ありがとうございます。それでは我々を招待していただけますか」

「良いと思う。うむ、良い、そう思う」

「では案内していただけますか」

「良いでしょう。行きましょう」

 そう言った途端、音人が弾けるのを感じた。そして前に感じたのと同様、無数の音が音人の居た場所か

ら溢れ出し、移動していく。その速度はとても速く、追い付けそうにない。

「ちょっと、ちょっと、まっ・・・!!」

 クワイエルが制止する声も虚しく。

「先に行っている。好きな時に、来ればいい」

 最後に零れ落ちた音が残り香のように告げて、音人は遠く去ってしまっていた。今ではもう、何処に居

るのか、何処に向かったのかさえ解らない。

「と、とにかく。あの場所へ向かいましょう」

 クワイエル達は急いで音人が向かっただろう真空結界の方へ走り出したが、二十分くらいして荷物を置

いたままだった事を思い出して引き返し、それからまた慌てて真空結界へと向かったのである。

 彼らも音人に負けず劣らず騒がしい。

 そういう意味ではお似合いと言えるのかもしれない。似合っているからどうかと問われれば、どうにも

答えようがないとしても。




BACKEXITNEXT