14-2.

 クワイエル達が急ぎ対真空結界を張り直し、番犬の居た場所にまで行くと、そこでは今までに聞いた事

の無い音楽が奏でられていた。しかも不思議な事に音だけが聴こえる。楽器も何も無いのに、音だけが響

いている。まるで音そのものが奏でているかのように。

「来たね。では行こう」

 声が聞こえ、音が誘う。クワイエルの手を何かが握った。掌を振動が撫でている。そしてその振動が彼

を引く。まるで手を引いて案内してくれるように。

 それは今までに体験した事の無く、でもありふれているという不思議な感覚。思わず体が拒み、ぐっと

縮こまるのを感じたが、ぐっと堪え、振動に身を任せて誘われるままに進んだ。

 振動はゆっくりと導いてくれ、一瞬だけ振動が強まったかと思うと、何かを通り抜けたような気がした。

それは肉体で感じたのではなく、魔力で感じ取ったのだろう。つまり音人の結界へと足を踏み入れたので

ある。

 結界を張っていたので特に変化は無かったが、何となく心が重苦しくなる。あまりにも強大な魔力がク

ワイエルの魔力自体を、つまり生命そのものを圧迫してしまうのだろう。それ程にこの結界は強く。番犬

からも圧倒的な魔力が放射され続けている。

 これも多分侵入者避けなのだ。ここに間違って踏み入れたのだとしたら、好奇心からそうしたのだとし

たら、ここから今すぐ出て行きなさい、という最後通告のようなものかもしれない。

 しかし音人が居るからだろうか、そのすぐ側を通っても番犬はぴくりとも反応しなかった。奏でられて

いる音楽が惑わせているのだろうか。今なら例え思い切り蹴ったとしても、番犬は何も反応しないだろう。

番犬はクワイエルと言う存在を全く認識していないように思えた。

 それは他の仲間達も同様で、後ろを恐る恐る付いてくる仲間達の誰にも番犬は反応しなかった。

「まだまだ遠い。でももうすぐ。迷ったら守護者の居る方へ行けばいい」

 大分クワイエル達の言葉に慣れたらしく、聞こえてくる言葉ははっきりとして聞き取りやすくなってい

る。ちょっと矛盾した部分など、細かな間違いはあるけれど、何て理解力のある種なのだろうか。しかも

音人の声は平然と結界を通り抜けて聞こえてくる。

 多分こちらからの声もあちらにはちゃんと聞こえるのだろう。どのような魔術を使っているのか聞いて

みたくなったが、聞いても理解できないかもしれない。

 以前フィヨルスヴィスが魔術を行使した時の事を思い出した。あの時も何かを感じたが、全く理解でき

なかった。彼らの使う魔術も基本的には人間の使うものと変わらない筈だが、ここまで力の差があると全

く別のものであるかのように感じる。

 クワイエルが今張っている結界なども、音人から見れば薄皮一枚被ったようなものなのかもしれない。

 わざわざ魔術を使ってまで、余計な事、不便な事をしている、というように見えるのだろう。

 それでも何も言ってこないのは、呆れているのか、こちらにはこちらのやり方があるのだろうと尊重し

てくれているのか。

 ちょっと聞いてみたい気がしたが、まだ距離があるようだし、余計な事をして途中でばててしまうと困

るので、後にする事にした。

 それにしても彼らの言う、遠い、とはどの程度の距離を言っているのか。音人の移動速度を考えると天

文学的な距離という可能性があるし、もしそんな距離なら気合だけではどうにもならなくなる。

 クワイエル達は音人がこちらの規準に合わせて言ってくれているよう、祈りながら進んだ。



 幸い、こちらの規準で考えて言ってくれていたらしく、半日も進むと真空結界を抜ける事が出来た。途

中で迷いそうになった事もあったが、番犬と番犬の間はそんなに離れていなく、少し行けば次の番犬の姿

が見えてくるように配置されていたので、初めて進む道でも何とかなった。

 番犬は守護者というよりも目印としての役目の方が大きいのかもしれない。となると攻撃的と考えてい

たこの結界にも、全くそんな気持ちはなかったんじゃないかという気がしてくる。

 音人は真空中でも平気で音を伝えられるようだし、そもそも真空とか空気とかいう考え自体がなくて、

空気の事を考えずに創り出したから、結果として真空結界が生まれてしまっただけではないだろうか。

 もしかしたらこれは結界ではなく、この場所そのものを作り変えている、という可能性もある。

それなら空気も創らなければ存在しないので、真空状態になるのは当たり前だ。

 という事は、音人の音というのは、人間の使う音とは全く違うものなのか。

 人間は空気を使って音を伝えている。鬼人やその他今まで出会った種もそうだった。だから真空の中で

音を発しても、外に伝える事は出来ない。それなのに音人は平気で音を発し、届かせる事が出来る。

 つまり音人達は空気以外の何かを振動させて、音を伝えている。いやもしかしたら振動とか音とか考え

る事自体が間違っているのかもしれない。根本的に違う何かを使っているのかも。

 それが何なのかは解らないが、とにかく音人はただの音ではない。音を超えた何か。音と違う音。それ

が音人の正体。

 ようするにさっぱり解らない。

 道中ずっと考えていたが、何一つ解る事はなかった。

 そして今ここでしている体験も、さっぱり理解できない。

 そこには無数の音だけが在った。

 何も見えず、形あるものは何も無い。足元に大地だけは見えるが、その上には何も無い。木も草も虫も

無く、ただむき出しの大地が広がっている。まるで真っ暗な中に白い染みが広がるように、ぽっかりと空

いている。

 そしてその中で無数の音が響き、それぞれに自己を主張している。多分ここには見えないだけで音で作

られた様々な物があるのだ。

 机や椅子があるかもしれないし、本や鉛筆があるかもしれない。食べ物があるのかもしれないし、玩具

が転がっているのかもしれない。そこかしこで車が走っているかもしれないし、家が隙間無く建っている

のかもしれない。

 何も見えないが、そこに何か在るのだけは解る。そんな不思議な場所だった。この世にこんな場所は二

つと無いだろう。いや、レムーヴァではこれもありふれた光景なのか。

 今まで体験した事の無い場所だったので、クワイエルは暫くの間どうして良いか解らなくなっていた。

 ここでは視覚を完全に失った状態でいるようなものである。何も認識できないのだから、それは見えな

いのと同じ事だ。このまま進むと何かにぶつかるかもしれないし、上から落ちてくるかもしれない。音だ

けは聴こえてくるが、それが何なのか、どうなっているのかが理解できないという事に対し、本能的な恐

怖を覚える。

 頼りになるのは耳だけ。しかしその耳もどこまで信用できるのだろう。

 でもこのまま居ても仕方が無い。クワイエルはいつものように勇気を持って踏み出してみる事にした。

 一歩踏み入れると、全身を強い振動が通ったのを感じた。確かに強い衝撃を受けた。だが体のどこにも

異常は見えないし、何も感じない。一瞬存在を圧迫されたような気がしただけで、それ以上は何も起こら

なかった。

 おそるおそるもう一歩進んでみる。今度はすっと通り抜けた。何も感じないし、何も迫ってこない。

 二歩、三歩と進み。それから調子に乗って早歩きで十mは進んでみたが、何も起こらない。ここに居る

音人達が上手く避けてくれているのかもしれないし。さっき受けた感覚は、単に結界内に入ったというだ

けの事なのかもしれない。

 かもしれない、かもしれない、としか言えないのが情けないが。何も見えないのだから仮定するしかな

い。この感覚、この場所を理解するのはとても無理だ。ここで普通に生活する為には、人間が使っていな

いもっと別の感覚が必要である。

 音人達には全てがはっきりと見えているのだろう。

 クワイエルは見たいと思った。しかしその方法がない。魔術を使おうにもそれが理解出来ないのだから、

どういう魔術を使えば良いのか解らない。でももしかしたら音人と交流し、話を聞いて、そして出来れば

力を借りる事ができたとしたら、そういう魔術を生み出せるようになるかもしれない。

 もしそれが出来たら、音人達ともっと深く理解し合えるだろう。

 柄にもなく戸惑っていたクワイエルも、この頃には新たな楽しみを見出し、すっかり元気になっている。

それは希望という何よりも興味深い楽しみであり、尽きる事はなかった。

 具体的に言うなら、音人達と解り合える可能性、未知なる魔術、だろうか。それらを見出せる事は魔術

師にとって深い喜びであり、楽しみである。

 だが、今はまだ可能性の段階。まずは音人達と交流できるよう、交渉しなければならない。

 その為にいわゆるお偉いさんに会いたいのだが、さてどうしたものか。

 きょろきょろしていると、また掌に何とも言えない振動を感じ、手を引かれるような感覚がした。

 それに逆らわずに付いて行くと、時折立ち止まったり、右折、左折を繰り返しながら、ある方向へ進ん

で行く。クワイエル達には見えないが、避けた場所には何かがあったのだろう。そのまま通り抜けるのに

不都合な何かが。

 試しに耳を澄ましてみたが、ここではそこら中から音が響いているので、慣れないクワイエルには何が

どう良いのか悪いのかの区別がつかない。諦めるのは悔しいので、持ち前の負けん気を起こして粘ってみ

たが、やっぱり解らない。どこがどう違うのか、何がどうあるのか、さっぱりである。

 耳ばかりに意識を集中させ過ぎて頭が痛くなってきたので、数分後、流石のクワイエルも成果のないま

ま音を上げてしまった。そして溜息をつきながら、頭を下げる。よっぽど悔しかったのだろう。

 すると掌に軽く振動が走ったのを感じた。まるで笑っているようだ。

 それはとてもあたたかい笑顔で、自然と笑みがこぼれてきた(単にくすぐったかったからかもしれない

が)。もしかしたら励ましてくれていたのかもしれない。

 クワイエルは機嫌を直し、にこやかに前を向くと、くよくよせず音人に導かれるままどこまでも進んで

行った。



 どれくらい進んだだろう。三十分くらいだろうか。もしかしたら一時間くらいだったのかもしれない。

音だらけのこの場所に少し慣れてきた頃(音はたくさんあるが、不思議と不快感や煩さは感じなかった。

音人達に敵意がないからだろうか)、音人がふと立ち止まった、ように感じた。

 まだまだむき出しの大地は続いているから、ここが終点という訳ではない。それに心なしかこの場所は

他よりも響く音が多いような気がする。

 まだ音の区別がはっきりするくらい慣れている訳ではないが、多い少ないくらいは解る。ここは音人が

集まる場所なのだろう。仕事場なのか、公園のような場所なのか、それは解らないけれど、多分そういう

場所なのだ。

 音人は立ち止まってから二度掌を撫で、ふっとどこかへ行ってしまった。慌てて追いかけようとしたが、

どこに行ったか解らないし。合図するように掌を撫でたのが気になったので、我慢して待つ事にする。

 もし音人が案内したい場所があるなら、そのまま連れて行ってくれた筈だ。それをしなかったという事

は、ここで待て、という意味に違いない。

 もしかしたら悪戯(いたずら)で放置されてしまった可能性もあるが、それを考えると怖いので、出来

るだけ考えないようにしている。音人を信じよう。

 仲間達も少し不安そうだったが、クワイエルが心に思っている事を表情に出さない性分であったのが幸

いし、平気そうな彼の顔を見て安心したようである。普段は何を考えているのか解り難いだけの顔も、こ

ういう時は役に立つようだ。

 それから十分程待っていると、クワイエルの掌を振動が撫で、手を引かれるようにして連れて行かれる。

今度はどのくらい進むのだろう、などと考えていると、すぐに音人は立ち止まった。そしてもう一度、一

歩だけ進む。

「連れてきました」

「うんむ」

 待っていたらしい音人は案内してくれた音人よりも力強く、音自体も低くて重々しく感じる。存在感と

いうのか、音在感とでも言うのか、そういうものが強く。明らかに他の音よりも魔力が強い。生命力にも

満ち溢れている。気を抜くと圧倒されてしまいそうだ。

「この方達があれかね。我々と話したいという、あれかね」

「そうです、長よ」

「うんむ、では聞こう」

 長と呼ばれた音人の注意がこちらに向けられるのが解った。姿は見えないが、音圧というのか、存在感

そのものをぶつけられるというのか、少し動くだけでもクワイエル達にかなりの負荷がかかる。まるで台

風の前に居るようなもので、解りやすいといえばとても解りやすい。

「君達が、あれかね。我々と話したいと言う、あれ、そうそう、客人かね」

「は、はい。わ、わた、わた、わた、わた・・・」

 余りの圧力に舌が上手く回らない。クワイエルの声など容易く圧し潰されてしまう。しかしそこはクワ

イエル。負けず嫌いの血が騒ぎ、意地だけで魔力を増強させ、無理矢理言葉を発した。

「はい。私達がそうです。そのあれです」

「うんむ。それは結構な事だ。この地に客人が来るのは珍しい。それも初めて会う客人ではないか。これ

は実に喜ばしき事。我々は君達を歓迎する」

 音長は流暢な言葉を話す。いや、やはりこれは魔術を使っているのか。でなければ初めて聞いた筈の言

葉を、いくらなんでもこんなにすぐ理解できるとは思えない。初めに会った音人でさえ結構な時間がかか

ったのだから。

 それともそれだけ音長の力が抜きん出ているという事だろうか。

「では率直に聞こう。君達は何処から、ここへ何をしにきたのかね」

「それはですね」

 クワイエルは圧力に必死で抵抗しながら、ここまでの経緯をざっと説明した。と言ってもすぐに話すの

に疲れてしまったので、彼にしてはとても簡潔な答えでしかない。彼を知る者としては、これは少し物足

りなかった。

 現にハーヴィ達はちょっとだけがっかりしたというのか、期待を外されたような表情を浮かべている。

 その微妙なる顔を、彼らが背後に居た為に見る事ができなかったのは、クワイエルにとって幸運だった

と言うべきだろう。

 もしその表情を見てしまっていたら、もう後には引けないと一人合点して、言わなくて良い事までべら

べらと並べ立て、そして最後には疲労のせいで倒れてしまっていたかもしれない。

 そうなったらそうなったでハーヴィが交渉すれば良く、かえって良い事になるのかもしれないが。それ

は二度手間になるし、余計な心配を音人達にかけてしまうのは得策ではない。そして何よりも、クワイエ

ルを介抱するのがとても面倒である。

「うんむ、なるほど。ようするに色んな事が知りたいと、そういう事かね」

「その通りです」

 簡潔な答えだったので大雑把にしか伝えられなかった筈だが、音長は察しが良いのか何となく察してく

れたようだ。そのくせ無駄に思える圧力をさっぱり緩めようとしないのは、もしかしたらちょっとした悪

戯心が働いていたのだろうか。

 音長にとっても珍しい客人、ちょっとした悪戯心が出たとしても不思議はない。

 それとも精一杯我慢してこの圧力なのか。だとすると、この時音長はさりげなく必死で努力していたの

かもしれない。多分クワイエル達くらい弱い種を見たのは、初めてであっただろうから。

「それなら望む所。このゲルに君達の世話をさせるから、後は彼女に話を聞いてくれ。こちらも色々と準

備しなければならない事がある。細かな条約などは後日決めようではないか」

 ま、それはそれとして、音長の言葉には誰も異論なかった。



 古の言葉で、騒がしきもの、を意味するゲルと呼ばれた音人。彼女は聞いてみるとまだ若く、子供では

ないが少女に近い年齢であるらしい(年齢という概念が音人にあったとしたらという意味で)。

 音人達にとって虫人の所へ行くのは、人間でいう成人式のようなもので、一通りの教育と訓練を終えた

者が、最後に課される試験のようなものであるという。

 それなのにクワイエル達に出会ってしまったものだから、初めは大変吃驚したそうで、もしかしたら道

を間違えたんじゃないかと思って、あたふたしてしまったらしい。

 そこに虫人が来てくれたから良かったものの、あのままだったらどうしていいか解らず逃げ帰っていた

かもしれない、との事。

 クワイエル達は驚かせた事を詫びつつ、さりげなく話を広げて次々と質問している。この辺は彼らも旅

慣れてしたたかになっているようだ。人が悪くなっていると言うのかもしれないが。

 ただゲルが案内してくれた客室というのか、宿泊施設というのか、まで行くのにそんなに時間がかから

なかったので、ほとんど話を聞けなかった。この辺が詰めが甘いというのか、やっぱりクワイエルはクワ

イエルという事なのだろう。間の悪い男である。

 案内された場所も、クワイエル達から見ると、当然むき出しの地面以外何もない場所だ。困った事だが

仕方がない。それは諦めよう。

 ゲルも案内を終えるとまた明日来ると言ってすぐに去ってしまった。忙しいのだろう。どこぞの大陸の

深奥まで行こうなどという暇人にも爪の垢を飲ませてやりたい。

 ゲルが去った今、このままクワイエル達だけ起きていてもどうしようもないので、明日の為に早く寝よ

うと思い思いの場所に寝転がり、そのまま目を閉じている。

 そこは静かで響いてくる音が少なく、むき出しの地面からは優しいぬくもりが感じられた。目には見え

ない音人達の優しさを感じる。




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