15-7.

 付近を観察してみたが、特に何があるようでもない。

 深く深く谷が続き、その奥は真っ黒に塗り潰されている。魔術で隠されているというよりは、単純に深

過ぎて光が届かないのだろう。

「このまま見ていても仕方ありません」

 クワイエルが浮遊落下とでもいうべき魔術をかけ、飛び降りてみる事を提案した。

 まずロープ代わりの蔓(つる)をぐるぐる巻きにしてから試してみようと考えたのだが、長さが足りる

か解らない。

 そこで剣を崖に突き立て、摩擦を加えながら降りていく事にした。これなら途中で魔術が切れても、何

となく助かるような気がする。多分。

 クワイエルの身体能力はこの大陸に来る前とは比べ物にならない程増している。増大する魔力に応じる

ように肉体も強化され、今では熟練の戦士も握り拳で撲殺しかねない勢いだ。

 鬼人に比べて体重は軽く、元々身軽な方であるし、引き締まった筋肉と頑丈な骨を宿している。何度か

エルナ自身が確認しているから間違いない。

 でもその強化に頭脳というのか、経験と知識が追いついていない事も確か。どこまでできるのか、どれ

くらい強化されているのか、自分達でもはっきりとは解らない。

 エルナは不安そうな顔をしている。

 しかしクワイエルの方は確信しているのか、全く意に介する様子は無く、ほいほい準備を整え、荷物を

レイプトに預けると、剣と二日分の食料を持ち、さっさと崖下へ消えてしまった。

 消えてしまったように見えたのは、勿論魔術を唱え忘れ、普通に自由落下してしまったせいだ。一応剣

を突き立てていたから何とか自分を保てたが、そのまま身を投げ出していたら、慌てふためいたまま底で

潰れて終わりだったかもしれない。

 しかしこれは後でクワイエルから聞いた体験談であり、誰も初っ端からそんな事になっていたとは思いも

していないので、悲鳴や驚きの声は上がらなかった。

 このように危機とは誰も知らない所で起こっているものである。



「ヘゲル、エフ   ・・・・  大地の力を、緩和せよ」

 全身にあった重みが抜け、剣を持つ手にかかる負担が軽くなった。

「危うい所だった」

 取り合えず崖にしがみつくように止まり、息を整える。

 驚きはしたが、降りる心構えはできていたのでそれほどでもない。魔術も安定し、どうやら想像通りの

効果を発しているようだ。

 でもそのまま行けたような気もする。

 手にかかる重みはそれは強いものだったが、痛みも疲れも感じていない。まるで自分の手と巨人の手を

取り換えたみたいに、不思議と大きく強く見えた。

 実際、多少は大きくなっているのかもしれない。全員が同じくらいそうなっているから目立たないが、

彼らは明らかに体格が良くなっている。それは服の上からでも解る程で、身体的な特徴も尚更目立つ。

「さて、行ってみるか」

 重力を緩和させているので、滑り降りるというよりは崖を歩いていくような感じか。無理矢理急斜面を

走る、あの奇妙な姿に似ている。

 まだまだ先は長い。何が待っているのか解らないのでゆっくり降りていく。

 しばらくすると光が届かなくなった。頭上を見ても太陽の姿が無い。何だか心細く感じる。

「マン、ダエグ、ケン   ・・・・   我に、光を、灯せ」

 暗視の魔術をかけた。暗闇が昼間のようにはっきりする。

 特に気になる物は映らない。下を向いても変わらず暗闇が延々と続いているだけだ。

 暗闇に呑み込まれていくような気がしたが、おそらく気のせいだろう。口にしては何かが足りない。そ

んな気がする。

「どこまで続いているのか」

 注意深く降りていくしかなさそうだ。



 数時間も経っただろうか。相変わらず変化はない。少し落下速度を速めてみたが、そんな事は大差ない

とでも言うように見飽きた光景が広がるだけ。

「果てが無い訳ではないだろうが・・・」

 ループしているのかとも考えたが、それを確かめる術はない。大地に宿る魔力も強く、他の魔力を感知

するのが難しい。違和感は感じていないので大丈夫だと思うが、保証はできない。

 それでも降り続けるしかないだろう。

 更に速度を上げる。もう滑空するような速度になっているが、あまりそれを感じない。

 慣れてきたのか。

「・・・・試してみるか」

 クワイエルは剣を引き抜くと飛び込むような姿勢になって崖を蹴り、重力緩和の効果を弱めながら、勢

いよく落下した。

 ぐんぐん速度を上げ、空間を切り裂くように落ちていく。

 が、突然何の前触れも無く、ぴたりと宙に停止した。

 しかし動けないのではない。そこから下に行けないだけで、引っかかってしまったような感じだ。

 手足を伸ばし、身体を反転させると、何の抵抗も無く立ち上がれた。

 足場があるとか、何かで繋ぎ止められたとか、そういうものではない。下へ行くという行為だけが封じ

られてしまっている。

 足元に何の抵抗もないので、下を見ているとまだ落ちているような気がする。でも現実はそうではない。

止まっている。この不思議な感覚を説明するのは難しい。

 足を動かすと歩くようにして移動する事もできる。しかしそこから上に行こうとしても宙を蹴るだけ。

浮いているのでも、落ちているのでもなく、ただそこに居る。居るしかない。そんな状態。

 仕方が無いので、取り合えず座り込んでみた。

 何も感触はないが、安定している。それが解っても安心感が得られない。クワイエル達にとってはしん

どい場所だ。

「どうしたものか」

 そのまま悩んでみたが、何も解らないので前へ進んでみる事にする。幸い重力緩和の魔術は生きている。

突然落下が再開しても何とかなるだろう。



 足がつかないのに歩けるという不思議な感覚には慣れそうにない。

 移動する分には問題ないから良いが、こうしているとやはり人は大地の上に立つように出来ているのだ

と思わされる。

 最初は不可思議な感覚を楽しむ余裕もあったが、数分経つとうんざりしてきた。

 この頼りなさ、不安感は漠然とした将来への不安に似ている。

 しかもそれが延々と続く。自分がどこに居るかも解りにくいし、このままだと心が持ちそうにない。

 クワイエルでさえそうなのだから、常人では一分と持たないのだろう。

 もう嫌になってきたので考える前に走り始めた。足元の感触はなくとも移動はできる。だから全てを振

り切るように、駄々っ子が泣きながらそうするように、駈け続けた。

 それでも果ては見えない。

 思い切ってその場でごろりと大の字に寝転ぶ。

 そうすると不思議と安らかな気持ちになり、何となく安心できる。地に足が着かないと思うから駄目な

のだ。海にでも浮いていると思えばいい。そして泳げばいい。

 しかしうつ伏せになって波をかくように空を泳ごうとしても、全く進まない。すかすかと手が宙をかく

だけ。

「・・・・・・・」

 地道に歩いていくしかなさそうだ。



 どこまで進んだだろう。伝って降りてきた崖はとうに視界から消え、上にも下にも何も見えない。

 このまま当ても無く進むのは辛い。何か目印となるものでもあれば気分も変わるのだが。

「仕方ない、休もう」

 立っているのはしんどいが、寝転んだ時は案外気分が良かった。ぐっすり眠れるだろう。

 柔らかく身体に触れるものがある。

 春の風がなぞるように優しく、あたたかい。柔らかい羽毛に全身包まれているかのようだ。

 うっすら目を開けてみると、全身に羽が付いているのが見えた。

 はっきりと輝く羽は、時折風になびくようにして揺れる。その度にやわらかい感触とあたたかさが広が

り、ほっと癒されていくのを感じた。

 そんなに長い時間は寝ていない筈だ。腹具合から考えて一時間も経っていないだろう。

 この羽はいつどこから現れたのか。敵ではなさそうだが、そう思わせる罠である可能性も否定できない。

 起き上がり見回す。眠る前に見た光景が、同じように広がっている。

 羽もいつの間にか消えていた。

「・・・・夢か」

 解らない。解らないまま横になり、目を閉じる。

 これ以上眠気に抗えそうになかった。

 眠りきらない内にもう一度目を覚ます。

 前と同じようにあたたかい風が全身を包み、揺れる度に安らかな気持ちが広がる。

 まだ眠気はあるが、我慢できない程ではない。でも起き上がればまた消えてしまうだろう。目を閉じた

まま、身を任せる覚悟を決めた。

 今の所危険な様子はない。だからこそ危険なのかもしれないが、元々相手がその気なら防ぐ力はないの

だ。ならいっそどこまでも見届けてみようと考えたのである。

 危険は解っているが、謎を解くにはそうするしかない。

 半分やけくそになっていたと言われれば、そうかもしれない。

 やがてやわらかいぬくもりが全身に広がり、誘われるように眠りへ落ちた。



 何かが遠のいていくような気がする。

 眠気は去り、すっきりとした目覚めだ。時間も相応に経っているのだろう。

 相変わらず空は暗いままだったが、辺りには懐かしい光が見える。

 ふわふわと浮いているもの、固定されているもの、形は様々だが、どれも同じように光放ち、あたたか

に、やわらかに灯っている。

 それがどんなに遠くに光っていても、腕を伸ばすと掌にあたたかさを感じた。それは肉体を通して感じ

るぬくもりだったが、それよりも精神の方に深く影響するように思えた。

 体の中からあたためるような不思議なぬくもり。どこかで経験した事があるような気がする。しかしク

ワイエルにはそれがどこかは思い出せなかった。気のせいかもしれない。

「ここは・・・・」

 頭を起こし、辺りを見回す。

 同じような景色が広がっている。

 全身が例の羽で覆われているようだが、少し動かすと全て剥がれ落ち、初めから無かったようにぬくも

りと共に消えてしまった。。

 掌や背中には大地の感触がある。あの浮かされた場所から降りてきたという事だろうか。あのぬくもり

に運ばれてきたという事か。

 解らない。

「・・・・どうしようか」

 軽く衣服をはたいてみると、光が欠片のように飛び散る。羽の残骸だろう。

 払った光は桜のように舞っていたが、数秒で消えてしまった。

 少し残念に思っていると、前方から何かが近付いてくる気配がした。

 敵意は感じられない。しかしその存在には圧力が在った。

 それがほんの数cm動いただけでも解る。気を抜くとその大きさに押し潰されてしまいそうだ。

 正直逃げてしまいたかったが、それ以上の興味があったし、何より逃げ道が解らない。

 呼吸を整え、覚悟して待つ。

「目を閉じ、そして開くがいい」

 不意に声が聴こえた。

 威厳があり、そこにも圧力を感じたが、あくまでも優しい。強過ぎる魔力が自然に威を伴わせてしまう

のだろう。

 クワイエルはその言葉をゆっくりと心に染み渡らせ、魔力そのものを感じようとした。

 言われた通りゆっくりと目を閉じ、そして開く。

 淡い光に覆われた。いや光そのものの鳥らしき存在がそこにいた。

 全身を豊かな羽毛に覆われているが、体の線は鋭く、その翼を一撫でするだけで真っ二つにされてしま

いそうだ。頭は一つだが目は六つ、クチバシは三つあり、たたんでいるから数えようがない

が、翼も複数あるように見える。

 足は二本で先が三叉に分かれ、そこはクワイエル達が良く知る鳥に似ている。

「貴方は・・・・」

「言葉は必要ない。それはすぐそこに在る」

 思考が光鳥と繋がっていくのを感じる。

 光鳥の思考が流れてきたが、押し付けがましいものではない。クワイエルが苦痛でない分だけを選んで

くれているように、あくまでも優しい。羽毛のようにやわらかい思考は、彼を落ち着かせるのに充分な力

を有していた。

 そしてその中で会話し始める。ここまでの経緯(いきさつ)、旅の目的、何故あんな場所で一人眠って

いたのか。説明するのに時間は必要なかった。まるで自分と問い合うように心を共有している。

「そうか。ならば貴殿を承認しよう」

 光鳥は最後にそれだけを言うと、強烈な光を放ち。クワイエルが閉じた目を開いた時にはもうその姿は

無かった。

 そしてクワイエルは崖の上、仲間達の前に居た。

 しかもどうやら元の場所ではなく、対岸の方らしい。

「・・・・・・・」

 ハーヴィ達は驚きの余り、しばらく口を開く事ができないようだった。

 その顔を見て、クワイエルは大いに笑う。驚きよりも愉快さの方が勝ったのだろう。



 光鳥はクワイエル達の存在に気付いていたが、初めは興味を持たなかった。

 結界まで来られた事も問題ではなかった。力の差を考えれば羽虫が一匹止まったようなもの、どうとい

う事は無い。放っておけばどこかへ行くだろうし、わざわざ興味を示さなければならないような存在では

ないのである。

 しかしあんまりにも長く居るので、少々心配になってきた。

 あの結界は敵を排除するようなものではないから、そこに居ても怪我はしない。だが力の弱い者が長時

間居れば、影響を受けないとは言えない。

 眠りというのは酷く無防備な状態であるし、一匹の羽虫であっても誰かが来るのは珍しい事だ。長く見

ていると憐憫(れんびん)の情が湧いてきた。そこで保護してやろうと思い、眠っている間に連れてこよ

うとした。

 一度は起きたように見えたから止めたのだが、すぐにまた眠り、目覚めた後も大人しくしていたから予

定通り連れて行く事にした。

 そして会い、話をして別れた。

 要約してあるが、これが光鳥から聞いた話の全てである。対岸まで運んでくれたのはサービスなのだろ

う。何ができた訳でもないが、退屈しのぎくらいにはなったのか、クワイエル達の心には光鳥からの感謝

の念が残っていた。

 できればもっと話をしたかったのだが、すぐ追い返された事を思うと、光鳥の方は望んでいないのだろ

う。他の多くの種と同じく、自分達に迷惑をかけない範囲なら口出しはしない、しかし深く関わろうとも

しない、という立場らしい。

 寂しく感じるが、それはクワイエル達の勝手な想いでしかない。

 だから受け容れるしかない。自分達を敵としなかった事に感謝して、奥へ進む。

 できる事ならあの羽毛で布団でも作りたかったが、それも諦めた。

 クワイエルは最後に谷の方をしばらく見詰めた後、北上を再開した。



 崖の先にも相変わらず不思議な光景が広がっていた。

 水に覆われている。しかし海とか湖という風ではない。確かに全面水に覆われているが、深さは数cmと

いった所。巨大な水溜りと言うのが一番あっている。

 浅い水面は視界の果てまで広がっている。

 水溜り以外に目立つ物は無い。水溜りに踏み入れても反応はなかった。底もしっかりしたもので、水底

としては不自然なくらい硬い。

 どうしようかと考えたが、このまま居ても仕方ない。とにかくいつものように進んでみる。進めば何か

はあるだろう。何も無ければそれまでだ。

 そんな風にして数歩進んで行くと気が付いた。

 水面に波紋が立たない。

 水に足を入れても抜いても何も起こらない。波打たずそのまま入り、そのまま抜ける。これは思った以

上に不思議な光景で、クワイエル達は気付いてから半時間も足の抜き差しに費やしている。

 当然のように解る事は無かったが、クワイエルは本望だったろう。




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