16-3.

 海でゆっくり過ごした後、クワイエル達は来た道をそのまま引き返した。

 一度通った場所だから行きよりは早く戻る事もできるが、慎重に同じくらい時間をかけて進む。前に通った

時は無事でも、今回もそうなるとは限らないからだ。

 幸い、無事戻る事ができた。

 高低差のある荒野は遠目だと相変わらず無表情に映る。台形状に隆起した高台に登り、先を確認しながら進

んで行く。焦らず確実に、疲れをためないように。

 干上がった川らしい地形にも降りてみたが、特に何が起こる訳でもなく、荒野は静まり返っている。まるで

すべてが過ぎ去った過去ででもあるかのように、この場所は静寂に包まれている。

 当ては無いので、いつも通り北上する。

 風が渇いた砂を運び、顔中を黒く染めていく。褐色に見えた砂は、思ったよりも黒く、何よりも濃い。この

砂に埋められてしまうかのようで、少し怖くなった。

 でも実際は身を汚す程度でしかない。あまり気にしないようにしよう。

 しかしそんな風にして数日進んだ頃、身に異常が起きていた事に気付く。

 身体に付く黒い砂は目に見えて増え、いつの間にか全身を覆うまでになっていたのだ。払っても払っても落

ちはしない。砂そのものがしがみ付くかのように、しっかりくっ付いている。強引に引き剥がすと何とか取れ

たが、またすぐにくっ付いてしまう。

 気付いた時には遅く、どうにもならなくなっていた。

 魔術で吹き飛ばそうとしたり、消してしまおうとしても無駄だった。クワイエル達の魔術は通じない。

 不思議に思ってじっくり観察してみると、これは砂ではなく、小さな生き物らしい事が解った。

 丸い身体に無数の足が生え、それらがしっかりと衣服にしがみつき、離さない。痛みは感じないが、おそろ

しい程の強さでしがみ付かれている。

 砂の表面はとても硬く、刃を立てても軽々と弾かれ、傷一つ付けられない。

 今の所しがみつかれているだけだが、それで済むのだろうか。こうしている今も身体にしがみ付く砂はどん

どん増えているし、おそらくそれはクワイエル達を完全に覆い尽くすまで止まらない。

 身を隠せる場所はどこにもなく、引き返した所で何も変わらない。この場所から出れば開放してくれるかも

しれないが、そんな保証はどこにもないし、引き返す間に全身びっしり埋められてしまうだろう。

 悩んだ末、開き直って進む事にした。もう手遅れでも、だからこそ少しでもこの大陸の奥に踏み入りたい。

 覚悟した彼らを止める者はいない。

 クワイエル達は速度を上げ、全く似合わない悲壮なる決意を固めたのだった。



 数日進んだが、この間に全身を黒砂で覆われ、影のようになっている。

 それでも動きに支障は無い。痛みも痒みもなければ、疲れも感じない。初めは魔力を奪っているのではない

かと心配していたのだが、違うようだ。風に吹き上げられた黒砂がクワイエル達に当たり、条件反射的にくっ

付いている。と考える方が合っているのかもしれない。

 黒砂から敵意は感じられなかった。

 黒砂が水を恐れているらしい事も判明している。

 水を飲む時に唇の端から零れ落ちる水滴が通ると、その部分だけが綺麗に剥がれ落ちる。いや剥がれるとい

うより、水に吸い込まれると言った方が良いだろうか。滑り落ちた水滴はどれも真っ黒に染まり、大地に溶け

込んで、消える。

 だがそうして流れ落ちても、またすぐに別の黒砂がくっ付いてしまう。

 全身が真っ黒になるまでその事に気付けなかったのはそのせいだろう。

 試しに水を全身にかけてみると、黒砂はほぼ全て綺麗に剥がれ落ちた。またすぐにくっ付かれるとしても、

すぐに離せるなら心配は少ない。

 クワイエル達は黒衣装を楽しむ事にした。



 進んでも進んでも荒野に終わりは見えない。どこまでも果てしなく続き、地形にも変化は無い。黒砂以外に

変わったものが見えない点を考えると、黒砂こそがこの地の主なのだろうか。

 知能があるようには思えないのだが、クワイエル達に解る事は少ない。黒砂は今も彼らに計り知れぬ何かを

行なっている、という可能性も無いとは言えない。

 クワイエル達は全身びっしり真っ黒で、影そのものといった姿をしているが。目の中や口の中までは入って

こないので(水分があるからか)、支障は無かった。見た目は異常そのものなのに、何も変わらないのだ。

 動きも阻害されなければ、魔力も変わらない。魔術も自由に使える。

 こうなってくると逆にクワイエル達の方が考えてしまうくらいで、何とかして支障を見付け出そうと努力し

たのだが、徒労に終わっている。

 本当にこのままで良いのだろうかと思うのだが、どうしようもない。

 そんな風にして荒野を抜け出るまで何事も起こらなかった。



 荒野を出ると、大きな山が連なっているのが見えた。

 視界を埋めるくらい大きな山で、下からでは山頂を見る事ができない。岩肌がむき出しで、色は今通ってき

た荒野と似ている。もしかしたらここも黒砂で覆われているのかと思っていたら、歩く度にぼろぼろと黒砂が

剥がれ、落ちた黒砂は荒野の方へ戻っていく。数歩進む頃には全て綺麗になくなってしまっていた。

 自分達の居場所さえ覆われていれば良いという考えなのか。それともあの荒野はクワイエル達にとって有害

な場所であるから、硬い身体で覆って護ってくれていたのだろうか。黒砂と話す事ができればそれも解決した

だろうに、残念である。

 まあ、無事に越えられた事を喜んでおこう。

 それに今は目の前の山の方が気になる。

 この大きさがいきなり目の前に現れた事を考えると結界が張られているに違いない。

 山からは圧倒的な魔力を感じる。

 この山脈の威容そのものがその力を現しているようにも見える。クワイエル達は気を引き締め、ゆっくりと

登り始めた。

 幸い、魔力が強いと言っても進めない程ではなく。ここに留まって魔力に身体を慣らさなければならない程

でもない。敵意もなさそうだ。

 もしこれ程の膨大な魔力が敵意をもって襲い掛かってきていたとしたら、それだけで彼らは消し飛ばされて

いただろう。

 荒野を歩いていた時に不思議と疲れを感じなかった事もまた彼らを助けてくれた。疲労は無い。

 足場もしっかりしていて歩くのに不便は無く、道までついている。一本道だから迷う事もないだろう。

 クワイエル達は順調に山頂に向かって進んだ。



 一日かけて中腹辺りまで辿り着く。まだ山頂が見えないので、正確にどの程度の位置かは解らないが、取り

合えず真ん中辺りまで来ていると考えておく事にする。

 見晴らしもとても良い、と言いたい所だが、濃い雲を被ったかのように果てが見えない。この場所も閉ざさ

れている。そんな気がした。

 疲労感は相変わらず薄い。空気の濃さも気にならないし。道も実に登りやすい角度で、クワイエル達が登る

為に作られたかのような印象を受ける。

 多分、彼らと背格好が同じくらいの種の為に作られた道なのだろう。偶然にしては出来すぎているような気

もするが、そうとでも考えなければ説明が付かない。

 それとも待っているのだろうか。何者かが。いつか出会うだろう何者かが、今ここで待っているのだろうか。

クワイエル達を。

 山脈を見ていると、そんな気がしてくる。これだけ広大かつ巨大で、その上神聖さすら漂うものを創れると

したら、神だけだろう。

 ふとフィヨルスヴィスの威容を思い出す。

 強くありながらそこに重苦しさを感じないのも、彼らを待っている為なのか。期待は膨らむ。

 霧はどんどん濃くなり、薄い雲のように周囲に降り始めている。しかし不安は無い。

 そして次第に霧によって視界が微妙にゆがみ始め、あらゆるものが白く輝き始めた。

 現実味が薄れていく。ここは天上か、それともこれこそがあるべき姿なのか。

 これこそがレムーヴァと言われれば、そうなのかもしれない。

 進めば進む程霧は益々濃くなり、動く度に水滴を生じるような気さえする。圧迫するような湿気に包まれ、

酔ってしまいそうだ。

 それでも道だけは山頂まではっきりと見えた。どこまでもどこまでも登っていくその道には、クワイエル達

以外の何者も居ない。

 今どこを歩いているのだろう。この先に辿り着くべき場所があるのだろうか。未知への恐怖に足が止まりそ

うになる。彼らが魔術師でなければ、とうに引き返していたかもしれない。

 人が最後に辿り着く場所。死して後進む場所があるなら、おそらくこのような姿をしているのだろう。

 そんな事を思いながらひたすら登り続ける。先の荒野とは違い、目的地が見えている事が救いだが、だか

らこそ余計に疲れるという事もある。時間をかけて進もう。

 一体どれだけの時間を歩いたのか。何時間、何日、そういった区別を失いそうになる頃、ようやく山頂に辿

り着く。

 そこは先っぽだけを切り取ったように平らで、球状に霧が晴れていた。蒼く突き抜けるような空が高く見え、

陽光が強く降り注いでいる。

 ここは何よりも高い場所、つまりこの地上で太陽に最も近い場所。

 そしてその光の中に奇妙な像が浮かび上がる。

 三面六臂(さんめんろっぴ)という言葉が相応しい。三つの顔に六つの腕、巨大な人型がそこに鎮座してい

た。光を全て吸い込み、僅かだがその身体にも光を帯びてゆったりと輝いている。一目で力ある存在だと解る

が、圧力は感じなかった。

 魔力が小さいのではなく、大きすぎて理解を超えているという感覚。何も感じ取れないのではなく、感じ取

れ過ぎるが故にそう思える姿。許容量を超えた停滞。理解できたのはこの像が偉大という事くらいだ。

 クワイエル達が近付いても止める者は居ない。圧力も感じない。あるのに感じない。まるで自分の存在その

ものが別種のものに、そう霊魂にでも変化してしまったかのようだ。

「・・・・・・・・・」

 気持ちを声にする事もできなかった。今ここに在るという事だけで相当に命を使う。もしこの像がその意を

翻(ひるがえ)せば、その時点で彼らは終わる。全ての存在が打ち消され、後には何も残らず、ただ光だけが

降り注ぐ。そんな気がする。

 しかし像はあくまでも像。近付いても何をしても語りかけてくる様子はない。ここでクワイエル達は期待が

外れた事を知った。ここには誰も居ない。だからこそ在るようで無いという不可思議な感覚を受けたのだ。以

前居たはずの強大なるものが消えたという喪失感だけがここに在る。

 そしてそれを埋める為にこの像が置かれたのだろう。

 三面六臂の像はぴくりとも動かず、遥か虚空を見据え、主の帰りを待っている。それは或いはフィヨルスヴ

ィズ自身なのか。

 クワイエル達は遅かったのだろうか。

 いや、そうは思えない。この像がここに居るのは十年二十年というような年月では無いだろう。悠久の時を

得なければ、このように陽光を帯び、それ自体が輝き放つ事は無い。この地の主は遥か太古にここを離れ、何

処かへと旅立ってしまったのだ。

 ここに導かれたと感じたのも錯覚だったのかもしれない。

 この像が置かれたのが悠久の昔であれば、それは人類誕生以前であるとも考えられる。

 クワイエル達はこの像に惹かれるものを強く覚えたが、いつまで居ても仕方が無い。この地の主が待ってい

るにしても、そうでないにしても、今ここには居ないのだから。

 像の向こう側には登ってきた道と同じような道が眼下まで続いている。まだまだ先は長い。この場所にどう

いう意味があるのかは解らないが、例えクワイエル達が関係しているとしても、今ではないのだろう。

 クワイエル達は後ろ髪引かれながら、来た時と同じようにゆっくりと道を降りて行った。

 道は霧に包まれ、来た時と同じように白く輝いている。



 長い時間をかけて降りたが、特に目立った変化は無かった。来た時と同じような光景が広がり、降りる度に

霧が薄れ、視界がはっきりし、幽玄から目覚めていく。全てが生々しく、現実に彩られていくような気がした。

 それは楽しくはあったが、どこか詰まらなさも孕(はら)んでいて、祭の後のような気分にさせられたが。

それも山脈を離れるとすぐに消えてしまった。結界を越えたのだろう。

 クワイエル達はそれまで終始無言だったが、そこで初めて空気を得たかのように体験した事を話し合い、様

々な仮説を出した。しかしそのどれもが決定打に欠け、妄想の域を出ていない。

 論じる時間はあっという間に終わり、後には無限に続く脱力感が残る。あれだけで彼らを圧倒させるに充分

だったとすれば、残り香のような、しかも悠久の年月を経たそれでさえあれほどだとすれば、あの像を創った、

或いは本来居るべきだった存在とは一体どれほどの力を持っているのだろう。

 しかしそんな問いも目の前に続く光景に打ち消されてしまう。

 雪が降る。白く白銀に光る道が続き、山脈が視界の果てまで雪と共に続いている。結界を抜けて尚まだここ

は下界ではなかった。降り満ちる雪もまた別種の結界であるかのようだ。

 それを証明するように、ここはいつまでも変わらない景色が続く。雪が降っているはずなのに積もらない。

大地が白銀に輝いてはいても、雪は一つとして落ちていなかった。そのまま大地に吸収されて白銀色へと変わ

っていく。

 気温は低い。地面も凍っているようで、叩くと拳に痛みが響く。表面がつるつるしていて、気をつけないと

滑ってこけてしまいそうだ。

 ゆっくりと踏み下ろすように歩き、休憩を小まめに挟み、慎重に進む。雪のせいで視界も悪く、先ほどまで

の快適さが嘘のようだ。

 体温を維持する魔術を常時かけているのに、寒さは芯まで響く。雪が魔術を貫通して身体を冷やしているの

だろうか。全てを冷やし凍らせる力が秘められているのかもしれない。

 そう思うと少し怖くなるが、まあ今まで進んでこれたのだから何とかなるだろう、と思い直し、道から外れ

ないよう前へ前へと進んで行く。

 道は基本的に真っ直ぐだが、緩やかに曲線を描き、進んでいる方角が解らなくなる。山脈に沿って続いてい

るようだが、このまま道なりに進んで何かあるのだろうか。永遠に抜けられないのではないか。

 だがまあ、どこかには辿り着けるだろう。

 大地が凍り、硬いのだけが心配だったが。それにも慣れる事はできそうだ。

 雪は無数に降り続けるが、吹雪く訳でもなく、ただ淡々と大地に消えていく。眼中に無いとでも言うかのよ

うに。

 寒さだけが堪えるが、気にしない。体温は下がっていないから、多くは精神的なものなのだろう。凍死する

事もなさそうだ。

 ならそれでいい。生きていられるだけましなのだから。

 気にしない事。もしかしたらそれが最も恩恵のある魔術なのかもしれない。




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