16-5.
モートソグニルが詳しい事を教えてくれなかったので、とにかく奥へ進む事にし、当てもなく道らしい道を 歩いていく。 もしかしたらいい加減な事を言っているのかもしれない、とも思ったが、面倒くさがりだからこそ、嘘は吐 かないような気がする。 針葉樹がまばらに生える中を慎重に進む。ここはモートソグニルの場とはまた違う場所、何があるか解らな い。待っているという存在が友好的でない可能性もある。 ようするに、相変わらず何も解らないという事だ。 雪はすっかり消えているが、ひんやりと澄み切った空気が周囲を覆っている。 少し重苦しく感じるのは、そこに何かが在るからだろうか。それともここの空気が実際重いのか。 地面も溶け、歩みに応じて少しだけ沈む。足下に跳ね返ってくる感触が心地良い。凍った地面を歩くのはそ れなりに疲れる。人も土も程よく緩んでいる方がいい。 そんな事を思いながら進んでいると、木の数が増えてきた。 その木の枝は先端をより鋭角に伸ばし、まるで一本の木から無数の槍が突き出しているかのように見える。 指先で触れてみると簡単に皮膚が傷付き。血が一滴、二滴と流れ出た。 警戒したが、槍枝が血を吸うような事もなく、おかしな動きがあるでもない。今の所鋭いだけである。 しばらく観察していたが、クワイエル達は諦めて再び歩き出す。 木々はある程度まで増えるとそれ以上密集せず、まばらにしかし途切れなく続いていく。生える間隔に規則 性はなく、思いつくまま立っている。 そこに段々と霧が降り、視界がゆっくりと白く染まっていく。透明なまでに美しく立ち昇る白い霧は水蒸気 という感じではない。光の欠片とでもいうのか、手や身体をすり抜けるが視界は塞がれ、あらゆるものが隠さ れてしまう。 音もいつの間にか消えていた。 静寂に輝く白は雪山の景色を思い出させ、光が積もっていく。 クワイエル達は目に疲労を覚えた。一つ一つは優しい光なのだが、余りにも多く大き過ぎる。小さな淡い光 でも、積み重なれば強大だ。 全てが光片に埋まり、世界の何もかもが消えていく。 まるで初めから何も無かったかのように。
目を閉ざす。耳も鼻も意味を失った。残ったのは魔力を感じ取る為の感覚を超えた感覚だけ。全ては光に隠 される。 そんな中で一点だけうっすらと暗闇を感じた。 太陽の黒点のようにそこに在る。 クワイエルは目蓋(まぶた)の上からその闇を感じ取り、導かれるかのようにその中へ足を踏み入れた。 目を開ける。 優しい闇が彼らを包みこんでいた。闇は何よりも優しく隠してくれる。光に暴かれないように、そっと。 それほど大きくはなかったはずなのに、その中は驚く程広く、進んでも進んでも果てが見えない。それでも 諦めず進んで行くと、そこに何者かの魔力が在るのを感じた。 その魔力は強大で有無を言わさない影響力を持つ。だがこの闇同様、必要以上には触れてこない。優しく、 そして広く、どこにも居ない。暗闇とはそういうもの。 「ようくきた、新しき者達よ。我が名はグラブスヴィズ」 実体の見えない闇が声を開いた。
グラブスヴィズは古き言葉で、誘惑に長じたもの、を意味する。 何故このような名を持つ者を寄越したのだろう。名はルーンに準ずる。それが全てではないとしても、それ を持つ限り、影響を避けられない。 そうして全てはこの世に規定され、生命、魔力を生じる。 その名を持つという事は、それ自体に意味がある。 グラブスヴィズに実体は無いようだ。闇そのものであり、光そのものである。どちらでもあり、どちらでも ない。 闇はゆっくりと語り始める。 言葉の数は多くない。 必要な事だけ話しているのだろう。 「我に言える事はただ一つ。これからも果て無き道を進むか、それともここで引き返すか、である」 クワイエル達は当然のように困惑した。約束が違う。だがすぐにそのような考えが間違いである事を思い出 した。 そしてはっきりと伝える。 「我々は進みます。それ意外にありません」 闇が応える。 「ならば進むが良い。しかし汝の前には最も忌むべき存在が現れるだろう」 気配はクワイエルだけを指している。 「汝がそれに囚われている限り、彼女もまた汝から離れられまい」 その瞬間、闇も光も全てが消えた。 まばらに立つ槍枝樹が現れる。そして百mも向こうだろうか、視界を埋めるように高く長く伸びる木で作ら れた門が見え、中心に一つだけ在る扉が真正面から彼らを見ていた。 だがこういう時いつもならすぐに動くはずのクワイエルが動こうとしない。 表情にも余裕無く、虚ろな目が覗いている。 しかしそれもほんの数秒の事で、結局彼はいつもの顔に戻り。 「さあ、行きましょう」 とだけを言い、先頭を歩き始めた。 皆は不承不承ながらもほっとしたように歩き始めたが、エルナだけがその奥にある何かを感じ取ったようだ。 例えようの無い何か。決して彼が持っていてはならないものを。 置いてきたはずのものを。
扉は何の抵抗もなく開いた。鍵はかかっていない。遮(さえぎ)る者も居ない。しかしここでもクワイエル は僅かな時間躊躇(ちゅうちょ)した。皆はそれを慎重ととったようだが、エルナだけは見逃さない。でも何 も言わなかった。 門の中には場違いな景色が広がっている。いや、懐かしい風景というべきか。そこはクワイエル、エルナが 本来居たはずの場所。生まれ育った場所。そのまま終わるはずだった場所。置いてきた故郷の匂いがしたのだ。 クワイエルとエルナ、二人は生まれも育ちも違うが関係ない。レムーヴァには無い、共通する他大陸の空気 がここには在る。 エルナはもう一度クワイエルを見上げる。 その表情は明らかに困惑しており、何かを堪えるかのように頑(かたく)なで、瞳はただ一点を真っ直ぐ見 詰めている。 視線の先には大きな家があった。 城とは言わないが、充分屋敷と呼ぶに相応しい偉観で、圧倒的な存在感を持ってその場所に君臨している。 エルナはそれが貴族と呼ばれる者達の屋敷である事を覚った。どこがどうというのではないが、そういう建 物はそういう雰囲気をまとっているものだ。彼女にもその程度は解る。昔はその座を望んだ事もあった。懐か しくも淡い夢。 「・・・・行きましょう」 何か声をかける前にクワイエルは前へ進んだ。多少普段の彼に戻っているような気がしたが、握り締める両 の拳を見れば虚勢である事が解る。普段の彼はこんな解りやすい反応はしないはずなのに。 先程の闇と光にまだ包まれているかのように、全てが淡い。存在がか細く、消えそうに見える。 このままではいけないと思いながら、かけるべき言葉が見付からない。エルナは自分の不甲斐なさに嫌気が 差した。 奥へ進む。 勝手知ったる我が家であるかのように、クワイエルは迷い無く進んだ。屋敷まで道が付いているので迷う事 は無いのだが、そういうのとはまた別だ。 強い違和感を感じながら、彼らはクワイエルに引っ張られるようにして進む。 いつも先頭に立つはずのレイプトも従った。 ハーヴィ、ユルグもそうだ。皆不可解な表情をしつつ、後に続く。 普段なら一言声をかけるのだが、何故かそれができない。エルナはクワイエルから切り離されたような気が して悲しくなったが、何ができる訳でもない。 「・・・・・・」 無言で彼を追うしかなかった。
屋敷の玄関を通り過ぎ、クワイエルは裏に回って勝手口まで進んだ。そして当然のように扉を開き、中へと 入る。 エルナ達は驚いたが、止まっていても仕方が無い。クワイエルの様子はおかしいが、ここまで来た以上、付 き合うしかないだろう。 クワイエルは中に入っても外と同じように迷い無く進み、一階の奥から離れに行く道を辿り、静かな部屋へ と辿り着いた。 そして驚くべき事を呟く。 「ここが私の部屋です」 皆、一瞬何も言えなくなった。 ここがクワイエルの部屋。それはどういう事なのか。 彼はこの大陸の出身者ではないし、この場所に来るのも初めて。その言葉は空虚に思えるのだが、不思議と 否定できない。彼の言葉は確信に満ち、否定できない何かに支えられていた。 「ずいぶん戻っていなかったですが、変わっていない、出て行った頃のままだ」 クワイエルは懐かしそうに室内にある物へ順々に触れ、その一つ一つを説明する。 いつも座っていた椅子。好きな本。窓から見る景色。それら一つ一つが現実感のある言葉で彩られ、否定さ れる事を拒否している。 「いえ、解っています。正確にはここは私の家ではありません。でも、それを再現した物である事は間違いあ りません。庭の草木一本から壁の染みまで、私の記憶そのままです」 エルナはほっとした。クワイエルもきちんと状況分析ができている。おかしくなった訳でも、操られている 訳でもない。 でもそれならそれでこれは一体どういう事なのだろう。クワイエルに昔居た部屋を見せてどうしようと言う のか。 「何故こんな事が起きているのかは解りませんが。もしかしたらこの場所は人の記憶に反応し、それを再現す る魔術がかかっているのかもしれません。私を対象にする理由も解りませんが、今日はもう休みましょう。疲 れを癒さなければなりませんし、待っていれば反応があるかもしれない」 引き返すか、ここを無視して先へ進んだ方が賢明であるような気もしたが、それを言う空気ではなかった。 すでにこの場所に取りこまれてしまっていたのかもしれない。
一夜明けるまでゆっくり休んだが、何も起こらなかった。屋敷の中は物音一つしない。寂れている訳ではな いから、ある程度手入れされているのだろうが、人の気配は無かった。 もしかしたらクワイエルの記憶の景色には、誰も居ないのかもしれない。 彼は自分の家だとは言ったが、それ以上の事を何も言わないので、こういう場所なのか、それとも何かが違 うのか、想像もつかない。 だが無理に聞く訳にもいかないし、エルナ達は黙っているしかなかった。 休んだ後はクワイエルを先頭にして屋敷を出た。隊列はクワイエル、レイプト、ユルグ、エルナ、ハーヴィ の順。決めた訳ではなく、自然とそうなっている。 クワイエルは迷い無く進む。どこにも違和感は無いのだろう。 ここまで完璧に彼の記憶にある景色を再現する力とは、そしてその意味とは。 全く意味が無い可能性もあるのだが、グラブスヴィズの言っていた事を思い出せばそうでない事が解る。グ ラブスヴィズはクワイエルが囚われていると言った。それがつまりこの景色であるなら、この奥には、彼女、 が待っているのだろうか。 だとしたらそれは誰だろう。エルナは複雑に心を乱されるのを感じたが、それを表に出す程幼くもない。そ んな事を考えても仕方が無い事も、ようく理解している。 だからといってそれで済まないのが人の心だとしても、いくらかは制御できる。そしてそれはルーン魔術の 基本にも通じる。ルーンという曖昧で不安定なものを扱うには、それを定義できるだけのはっきりとした意志 と力が必要なのだ。 エルナは静かに見守らなければならない。これは彼自身が独りで解決しなければならない事だ。 例えそれが一度逃げ出した事であっても、今なら解決できると信じている。 クワイエルは以前の彼ではない。当時の彼を知っている訳ではないが、初めて出会った頃の彼と比べても、 随分違っている。肉体的にも精神的にも、クワイエルは以前とは比較にならない程強化された。 今なら、きっと今なら、どんな事も乗り越えられる。そして彼自身、そう信じているからこそ、先頭を行く のだ。 そこに多少危なっかしい面も見えたが、信頼は変わらない。 強い確信が、彼女にはあった。 それは他の仲間達も同じだろう。
辿り着いた場所は庭園、というのか高い柵に囲まれた場所。茨(いばら)に包まれ中が見えない。しかし茨 は無秩序に繁殖している訳ではなく、整理され、綺麗に花咲いている。バラだろうか。クワイエルの記憶の中 の景色であればバラなのだが、不思議とはっきりしない。 無造作に柵扉を開ける。錠はかかっていない。中は無数の美しい花で埋まっていた。花園と言うに相応しい 光景は、懐かしさも手伝ってエルナの心を震わせる。 確かにここは彼女達の故郷に似ている。全ての雰囲気、全ての生命がそう告げる。 しかし戻りたいとは思わなかった。故郷も良い思い出ばかりではない。彼女にもあまり思い出したくない事 はある。 だからクワイエルにもそういうものが、それよりも強いものがあるのも理解できる。その時にはどうにもで きなかった事。それは誰にでもある。 でも今なら、きっと今なら。 「ここから先は一人で行かせて下さい」 クワイエルがはっきりした声で宣言した。止められない。拒絶ではないが、強い感情が宿っている。 「はい、いってらっしゃい」 だからエルナは笑顔で送り出す。仲間達も同じように彼らを見守る。 「でも、力が必要なら、言って下さい」 クワイエルも力強く頷(うなず)き返す。 その目には綺麗な光が灯り、何一つ諦めても、悔いてもいない。向き合う覚悟ができているのだろう。おそ らく、あの門を越えた時から。 なら大丈夫だとエルナはもう一度確信した。 そしてクワイエルは歩み出す。庭園の奥にある、もう一つの扉へ。 |