16-6.
懐かしい景色・・・とは思わない。 ここはすでに過ぎ去った記憶あり、今はもうどこにも無い過去。 悩み、自問自答を繰り返したのも昔の事。それに自分ははっきりと答えを出したのだ。後悔はしていない。 何を言われようと受け止める覚悟はできている。 この大陸に来て過ごした時間が本当の覚悟というものを与えてくれた。取り返しのつかない事は多く、それはも う取り戻せないが。その全てを背負う必要も無ければ、背負える訳もない。 常に最善の選択をしていたとしても、必ず悔いはある。逆もまた同じ。 そういう意味で未来は平等であり、現在、過去もまたそうである。 逃げるも立ち向かうも同じ。なら正面から立ち向かおう。そう思ってここまできた。 その事を今、強く想う。 「あれほど恐れていた時に、こんなにも心穏やかに立ち向かえる日がくるとは思わなかった」 噛み締める。自分はもう何も恐れていない事を。 恐怖でも悲しみでもなく。浮かぶのは平穏なる肯定。諦めにも似た枯れた心。しかしそれは決して後ろ向きでは なく、その先にこそ道が続いている。 目前に居るはずの人物が人生の終着点と考えていたのはもう昔。 恐怖も逃避も無い。今なら正面から向き合える。 「母上、お久しぶりです」 「・・・・・・・そうですね。もう会う事はないと思ってましたけれど」 庭園の奥に切り取られた空間。花も木も無く、座椅子と机、雨よけの簡単な屋根とお茶を淹れる為の道具と材料 だけがある。 この人は本来植物が嫌いなのだ。 丹精込めて庭を作り、花を育てていたのは全て義務心から。 思えば生まれた時から、この人は期待された義務を全うする為だけに生きてきたのかもしれない。 子育てすら義務でしかなく。彼女が息をつける場所と言えば、奥に作られた彼女以外立ち入る事の許されない、 この寂びた空間だけ。 「貴方が去って後。我が家は廃れ、朽ち果てるしかありませんでした。花も木も秩序を失い、この場所にまで及ぼ うとしています。私の存在できる場所は、もうすぐ失われるでしょう」 母は彼を見ても懐かしさの欠片すら表情に宿さなかった。 愛が無かったとは言わない。彼女は充分に尽くしてくれた。むしろ一般の母親以上だったと思う。ただその全て が義務として行なわれていただけなのだ。多分、母自身もその事を悲しんでいたのだろう。だから誰よりも母であ ろうとした。 愛情や友情といったものを、母は生まれつきほとんど持ち合わせていなかった。そんな人間が母として、妻とし て生きる事はどれだけ大変だったろう。その事を人に指摘されないよう、死ぬその時まで隠して生きてきたのだか ら、尚更だ。 家庭に居ても、いつも他人の家に居るようだったはずだ。 母のたった一つの居場所を知り、入れたのも亡くなってからの事。 母がただ一人だけ心を僅かだが開いていた、幼き頃からずっと一緒でこの家まで付いて来た年老いた従者。彼女 に母の心の一端を知らされるまで、彼は何も知らなかった。 その時程自分の生を悔やんだ事はなかったが。それもまた昔の話。終わった事。 それなのに何故母が居て、彼の実家があるのだろう。これは一体誰が、何の為に見せているものなのか。 もしこれが罠の一種だとしたら、彼は本当はこの事を悔やんでいたのだろうか。今も。 「否定はすまい」 しかし。 「無条件に肯定もしない」 彼は母の正面に進み。しかとその顔を見た。 記憶の中のものとそっくりな顔。しかしそれは何の感情ももたらさない。 愛が無いのではない。これが母では無い事を解っているからだ。 だから今ここで、本当にはできなかった過去を改めてやり直す。 例えその事に何の意味も無いとしても。 「二ール家は終わった。ただ一人の後継者であったクワイヴ・二ールが神官に選ばれた事で、その血は絶えた。そ の時貴女の役割も終わったのだ。そして今の私は神官ですらない。名はクワイエル。魔術師ハールの弟子にして魔 術師エルナの師。それが今の私。 母、いや母に似せた何者かよ。母では私を止められない。私が恐れていたのは、その事を理解する事。母の無力 さを、死して尚無力な母を、認めるのが怖かった。 亡き父の代わりに母へ孝を尽くす事から逃げ。最期を看取る事もできないまま、逃げるように魔術師への道を歩 んだ。だがそれを今悔いたとして、一体何が変わるだろうか。亡き人に想いを馳せるのも良いが、それは私が死ん でからでも遅くはない。 母はそれまで待っていてくれる。それが死というものだ。そうだろう?」 クワイエルの目は目の前の母を人としては捉えていなかった。 亡霊ですらなく。母の意志など一片もない。クワイエルの思い出から作られた人形。そんなものなら今までに 何千、何万回と心の中で話してきた。今更言う言葉などない。これは消えるべき過去なのだ。 「どうしたとしても、失われていくのね・・・・今日もまた、私から・・・・・」 母らしき存在は普遍のまま嘆くのみ。 過去は変わらない。そうしたいと思い、無理にそうしたとしても、虚しいだけ。 「さようなら、母上。私の記憶に残るだけの、愛すべきだった人」 クワイエルは踵(きびす)を返した。 彼らを縛り付ける力も失われるだろう。
庭園から出ると全ては消失した。 初めから無かったかのように、痕跡すら残っていない。 悲しみも喜びも、それに類する感情でさえ残っていない。元の大陸に置いてきた、在って無い記憶。 心にあったのだろう僅かなわだかまりも消えているはずだ。 彼を縛るものがあったとすれば、それは今の気持ちを母に告げられなかった事。逃げ出したまま、何も伝えられ ず母を亡くした事。 例え幻影ですらない記憶の中の作り物の母だったとしても、正面から告げた事で解決したという事なのかもしれ ない。 ここを通る事が必要だったとしたら、そういう意味になる。 その考えが間違っていたとしても、そう悟れた事は重要だ。 「先へ進みましょう」 皆が頷き返す。何も聞かないが、クワイエルの表情を見、全てが解決した事を覚ったのだろう。 全てを聞く必要は無い。受け容れればいい、今までと同じように。 友として、仲間として、そしてそれ以上の存在として。
館が消え去った後には大門と何もない大地が残っていた。 草木は生えていないが、砂漠という程ではない。その中間でもなく、まったく別の新しい景色。土だけの場所、と でも言えばいいだろうか。 それが視界の果てまで続いている。 この何も無い場所に対象の記憶を構築しているのだろう。だからそれが消えた今、何も残らないという訳だ。 残った大門も記憶の物とは違っている。これはそれ以前からここに在った物なのか。 一体誰が何の為にこんな事をしているのかは解らないが、とにかく突破できたのだ、先へ進んでみよう。 警戒しつつ、慎重に進む。これ以上何も無いとは思うが、絶対に無いとは言えない。二重、三重に罠が仕掛 けられている可能性もあるし、うっかり油断していたらどんな目に遭うか。 「北へ」 当てがない時はとりあえず北上する。北の果てを目指す。解りやすい事は力になる。 幸い、消失後はそれ以上の変化は起こらず。無事この地を抜ける事ができた。
土だけの先には似たような空間が広がっていた。 前と違うのは土が加工され、床のように硬く、表面が滑らかにされている事。土畳とでも言うべきか。 叩いてみると軽く透き通った音が響く。でも作りはしっかりしていて、例えこの下に空洞が空いていたとしても、落 ちるような事はなさそうだ。 それでも万一という事があるので、慎重さは崩さない。一歩先が全く別の世界になったとしても不思議は無い のだから油断はできない。 試しに力を込めて足を踏み降ろしてみたが、びくともしなかった。 こうなってくると何の反応も無い事が少し寂しい。平和な証なのだが、続くと物足りなくなってしまうのが人の常。 とはいえ彼らは魔術師、土畳というだけで満足している。人の何倍も好奇心が旺盛であり、見飽きたはずの景 色の中にも何らかの新鮮さを見付け、没頭するのが魔術師という生き物。 土畳は隙間無く敷き詰められている。こういう姿は何かに似ている。 そう、道だ。 レムーヴァという大陸の大きさを考えれば、このくらいの規模は必要だろう。 大雑把な種であれば、視界全て道にしてしまえ、と考えてもおかしくはない。 そんな事を考えながら数日進んで行くと、視界の真ん中に何の前触れもなく土畳で作られた巨大な四角が出 現した。 表面をみっしりと土畳に覆われ、端から端までには視界が霞む程の距離がある。視力も相当増している今の 状態でそうなのだから、数km単位の距離だと考えるべきだろう。 高さも天を突くという程ではないが、雲に隠れるくらいはある。 ハールの塔を初めて見た時の事を思い出した。 一体何の為にこんな大きさが必要なのだろう。巨大な種なのか、それとも実験でもしているのか。 他種族の心を理解する事は難しい。想像もできないような目的である可能性が高いし、もしかしたら何一つ 意味がないという可能性も少なくない。 だがクワイエル達の興味は今別の所にあった。 彼らは久しぶりに広々とした空をゆっくり見上げられている事に気付いたのである。 ここの空はハールの塔に在った空と似ている。それはつまり魔術で作られていない、自然の空という事ではない のか。 クワイエル達は何だか嬉しくなった。それは懐かしさを皆で共有できたからかもしれない。
一見すると出入り口はありそうにない。遠目から見た印象のまま、表面をみっしりと土畳が覆い、光が入る隙 間も無かった。どこかが外れたり、回転扉のようになっているのではと思って調べてみたが、それらしき物も見当た らない。 正面や横面に無さそうだから、もしかしたら上かもしれない。 そうなると一番に名を挙げるのはクワイエル。しかし鬼人の方が腕力、体力共に優れているし、魔力自体も大 きい。最終的にレイプトの名が残った。 彼の危機感知能力、俊敏性はメンバーの中でも特に優秀だ。若く力に溢れている事もあり、この登り辛い壁 には最適な選択だろう。 張り付きの魔術が通じなかった場合でも、彼なら自力でしがみつけそうである。 しかしそこに珍しくユルグが異を唱える。自分も行かせて欲しいというのだ。 彼女は魔術の扱いはハーヴィに足らず、肉体的能力ではレイプトに足らない、というどっちつかずの位置 にいるが、どちらも高い水準を保っている。 それを外したのは、彼らに女性を選択から外す、という意識が働いたからだろう。 クワイエル、ハーヴィは己を恥じ、ユルグの意を入れたのであった。
レイプトは若干緊張している。 ユルグは鬼人の族長の娘であり、主従関係といった強いものはないとしても、それに準ずるような関係にある。 族長と娘はまた別だと言っても、レイプトとしては無視できない。この旅を通じて親密になってはいても、まだどこ か遠慮がある。 ユルグとしてはハーヴィならともかく、レイプトにまで置いていかれるような気がして、その不安がこういう形で出た に過ぎないのだが。レイプトにしてみると正直どう反応して良いのか解らない。 と言って、それで連携、協力が疎かになる二人ではない。互いをロープで縛り、張り付きの魔術を使いながら ゆっくりと登って行く。 勿論、初めに魔術を使わず登れるか試す事も忘れなかった。長くやるのはきついが、少しの間ならいけそうだ。 二人は言葉こそ多くは掛け合わなかったが、同じ道を二人で進んでいる内に少しずつ間にできていた壁のよ うな物は崩れていった。 共に進む事でユルグの中にあった焦燥感が薄れたのかもしれない。 いつ何がくるか解らないという緊張感、互いしか頼れる者が居ないという状況、は二人の間にあった微妙な空 気を無視し、協力し合う事を強いる。 そして直に接し合う事で、互いを解り合おうとする心も強くなる。 絆を深めた二人は見事な連携を見せ、するすると登っていった。魔術が切れる事も誰かに妨害される事も無 く、順調に進んでいる。疲労も大きくない。このままなら数kmだろうと問題なく登れそうだ。 二人の間には自信が生まれていた。 |