16-9.

 影を見たと感じた方角へ歩み出した時、明らかに違和感を感じた。

 肌に触れる微小な魔力。まるで外出したときにふと感じる新鮮な風のようなやわらかさ。はっきりと感じられ

る今までとは違う気配。違和感はすぐに消えたが、だからと言って忘れられるものではない。

 結界に入った。

 いや、入れられたというべきか。

 これは常時張られているようなものではなく、侵入者に対して個別にかけられる魔術。人が罠を張って動物を

捕らえるように、この地の主もまたクワイエル達をそうしようとしている。

「かもしれない、しかし・・・」

 確証がある訳ではない。答えを出すには早過ぎる。

 深呼吸して落ち着かせ、辺りを見回す。

 表面上は何も変わっていない。だが引き返そうとすると引っかかる。痛みのような刺激はないが、押そうが叩

こうがびくともしない。

 奥へ進む。

 ゲルに繋ごうとも試してみたが、遮断されてしまっているのか反応がない。このペンダントは音人に作られた

物だから、ここに住まう種は少なくとも音人と同等以上の力を持っているという事になる。

 ゲルもおそらく異常を感じ取っているはずだが、復旧を待っている訳にもいかない。

「俺は俺にできる事をやろう」

 もう一度深呼吸して踏み出す。

 結界に入っても襲い掛かってこない事を考えると、観察されているという事なのだろうか。それとも結界に入

れてしまえば、それ以上興味ないのか。

「もうし、もうし」

 試しに呼びかけてみるが、反応はない。

 これからどうするべきか。何もせず進むだけで良いのだろうか。ここで何かこちらからも発信してみるべきで

はないだろうか。

 いつものように妙案は浮かばない。

 そこで発想を逆転してみる。相手がこちらを観察している。つまり何か行動するのを待っているのだとしたら、

敢えて何もしない。そうする事で痺れを切らし、接触を図ろうと考えを変えてくれるのではないだろうか。

 勿論、何の保証もないけれど、望まれる事と正反対の行動を採る事で相手の出方を窺(うかが)う、それはそ

れほど悪くない方法である、はずだ。

 クワイエルは何もせずじっとしている事にした。

 時間がかかればその分仲間達を心配させてしまうが、その事には腹を括る。焦って進んでも仕方ないし、時間

を稼げればゲル達がその内助けてくれるかもしれない。

 例え何も起こらず、ここで終わりを迎えたとしても、悔いはない。そのつもりでここに着たし、仲間達もその

思いは変わらない。

 今こうして生きていられる事自体が奇跡のようなものなのだから、今更何を悩む事があるだろう。

「腹を括れ。いつもそうしてきたように」

 その覚悟を当たり前にできるようになっているとしたら、自分達のやってきた事は無駄ではない。

 そう思えた。



 静かに座り込み、目を閉じ、瞑想を続ける。

 どれだけ時間が経ったのかは解らない。腹が減り、喉が渇くほどには経っているようだが。

 ペンダントにも反応は無い。ゲル達も何かしてくれていると思うが、それでも駄目だという事は、こちらの種

の魔力の方が上なのだろう。音人達でさえどうにもならないのなら、クワイエルが何をしようと無駄な事。

 レイプトも同じ違う場所で、似たような境地に至り、同じような事を考えているのだろうか。

 そう考えると少しおかしくなったが、笑うのは止しておいた。不謹慎というより、そうする事で目的を見失っ

てしまいそうだからだ。

 今は黙って座り続けよう。

 もし彼の頭の中を覗き見る事ができたなら、そこに無数の無限にも及ぶ動きがある事が見て取れるはずだが。

そうでなければ観測対象としては全く退屈だろう。

 気が長い種なら問題はないだろうが、気の短い種であれば・・・・。

 とそこまで考え付いた所でふと思い至る。これだけ慎重な行動を採ってきた種が、気が短いとは考えられない。

そもそも相手が痺れを切らすのを待つ、という事に無理があるのではないか。

 クワイエルは考えを改める事にした。

 必要の無いものにはこだわらない。それがまた彼のこだわりのようなもの。さっぱりしているというよりは、

初めから執着する理由を持っていないのだろう。

 そこには絶対的な力の差がある事への諦めもあるのかもしれない。

 やるとなればすぐに行動を開始する。

 行動の人、クワイエルである。

 歩き始め、むしゃむしゃと手持ちの食料を食べながら水を飲み、何一つ遠慮せず自侭に行動する。

 まるで自分の部屋にでも居るかのようだ。

 ゲルにも遠慮なく話しかけ(勿論、返答はないし、聞こえてもいないはずだが)、大声でレイプトの名を呼ぶ。

隠すのも我慢比べも無駄だと解った。ならいっそ全てをさらけ出す。これ以上観測する意味が無くなれば、何か

変わるだろうと。

 極端な男である。



 また視界に影を見るようになった。ジジジ、ジジジという音はいつの間にか消えていたが、代わりにリズムで

もとるように周期的に影が現れる。ちらっちらっと目に入ってくるそれは多少うるさくあったが、クワイエルは

無視し続けた。

 気付かないふりをしていたというよりも、はっきりと視認した上で放って置く。

 影も音も全てが彼を、彼らの内の誰か一人を誘い出す為にあった。今も残っている仲間達へ同じような事をし

ているのかもしれない。

 その真意はどこにある。

 見えない壁も見当たらない。いつまでも進む事ができる。隔離するのが目的ではなく、単に仲間から孤立させ

たいだけなのか。

 何故そこまでするのだろう。もう充分見たはずだ。自分達の力も、行動も。

「興味を持ってもらえていると考えれば悪くないが・・・しかし」

 さすがのクワイエルも少し面倒くさくなっていた。

 好奇心は残っているが、性に合わない。待つ事を我慢できない訳ではないが、この場合はじれったさがある。

 どうもこの地の主は、やる事が回りくどくていけない。クワイエルでさえ、もういいだろう、と思ってしまう

しつこさがある。

「そうして焦らせるのが狙いなのだろうか。確かにいつもよりも心がざわつくような気はするが・・・」

 とにかく今は進もう。別に引き返してもいいのだが、それよりは進みたいと思うのがクワイエルだ。どちらで

も同じなら、前に進み続けていたいと。

 しかし本当にただ死ぬまで観測され続けるだけだったとしたら・・・・。

「困った事になったな」

 そうでない事を祈りながら進む。



 相変わらず変化は無い。

 少なくともクワイエルが感じ取れる変化は無い。そこで何がどう息衝(いきづ)いていようとも、彼に感じら

れるのはだだっぴろい空間だけ。その中にどれだけのものがあったとしても、何も変わらない。

 空気の中の何がどれだけ変わろうと、我々にとっては同じ空気であり、それ以上のものではない。そんな気分

で全ては過ぎ去っていく。

 やはりこの地の主は自分達を観察したいだけなのだろうか。接触せず、映画でも見るように。

 気持ちは少し理解できる。この大陸の種はあまり移動する事がなく、自分の居場所から出る事はほとんど無い。

だからひょっこり紛れ込んできたクワイエル達に娯楽としての興味を抱いてもおかしくはない。

 今まであった種もクワイエル達に無関心ではなかった。鬼人を見ても解るように、好奇心が無い訳ではないの

である。ただ、それを使う機会が無かっただけなのだ。

 だからこそ。

「いつか接触してくる」

 そう信じたいからかもしれないが、クワイエルはそう信じていた。

 この絶望するしかないだろう状況においても想いは変わらない。

 今は何一つそれを示す証拠も兆候もなく。そう信じるより、それが無いと信じる方が容易いとしても。

 どうしてなのかは解らない。いや、解っていたのかもしれない。

 そしてその時はくる。

 いつもそうあるように、それは突然起こった。急に目の前の空間が、まるでドアでも開くように、ぱっくりと

開いたのだ。

 罠とも考えたが、いい加減この空間に飽きてきている(正確には空間ではなく、この状況だが)。他に方法も

ないので、クワイエルは躊躇せず中に足を踏み入れた。

 その中は真っ暗でだだっぴろい、という今までとほとんど変わりない景色だったが、空気はまるで違う。

 今までのような閉鎖的でない、新鮮な風を感じる。空気に動きがあり、それが肌を撫でる様が酷く新鮮に思え

た。瑞々(みずみず)しくさえ、感じるのだ。

 洞窟から外に出た時の開放感に似ている。

 だが望んでいたものはそこにも無かった。

 クワイエルは中に入り込めば必ずそこにこの地の主が居ると信じていた。或いは何かがあるだろうと。

 しかしそこには何も無い。

 これでは檻から檻に移っただけだ。

 それなのに不思議と閉鎖感がしない。その奇妙な感覚はクワイエルに迷わせるに充分だった。

 単に結界を出たという事なのか。それともここが本来の空間なのか。ここは外で、だからこそ新鮮な風を感じ

るのか。

 或いは全て擬似的なもので、結局ここも変わらない、むしろこここそが結界の中なのか。

 解らない。考えても解らない。当たり前だ。初めからそれに対する答えなど彼の中には無いのだから、探した

所で見付からないに決まっている。

 しかしそうと解っていても、人は何かを見出さなければ進めない。

 そこでクワイエルは物理的な行為で代用する事にした。簡単に言えば進んでみるのである。

 そもそもすぐ出会えなかったからといって、誰も待っていない、という事にはならない。奥で彼を待っている

可能性もあるだろう。

 慎重な種であれば、より自分に優位な場所で安全に、と考えるのは自然の流れ。そうであれば、奥で待ち構

えている、と考える方があっている。

 少なくとも、ここでじっと待っているよりはましだ。

「よし、行こう」

 覚悟を決め直し、再び進む。

 今までと同じように、しかし少しだけ違う心で。

 結局進むだけか、と言われれば、否定はできない。

 暗い空間は夜というよりも元々そういうものであったような気がする。

 説明し難いが、何かの影響で暗くなっているのではなく、初めからそうだった、という意味だ。

 ここの種は光を嫌っているのかもしれない。洞窟に出入り口がある以上、彼らも自分達と同じように外と行

き来していると考えるのが自然だが。念の為に作るだけ作っておく、という可能性は否定できない。

  それとも地上の光景を思い出すに、単に地上に自分の世界を創るのに失敗したから地下に創った、と考え

るべきだろうか。

 根本から創りだす力があるのなら失敗も何もないと言えばそうかもしれないが、途中で地下の方がやりやす

いと思い方針を変えた、という事が無いとは言えない。

 実際には光も意識していないのかもしれない。

 そうなっているからといって、それが全ての原因になる、という訳ではない。

 暗いが光を完全に打ち消すようにはなっていないし。光を嫌っているのではなく、光に頼らなくてもいいよ

うになっている、と考える方が正確なのではないか。

 全てを光を中心に考えなければならない、という理由は無い。クワイエル達がそうしているからといって、

他の種もそうしなければならない理由は無いのだ。

 そう思うと、何だか全てが新鮮に感じられる。

 視覚だけに頼るから駄目なのだ。もっと感覚を研ぎ澄まし、ここにあるものを深く感じ取らなければ。

 光を消し、しばらく闇に浸っていると、少しずつ感じ取れるモノが増えてきた。

 肌に触れるもの、その先にあるもの、音やかすかな振動、そういったものが多彩に動いている。

 光に頼らずにその場にあるものを感じ取る、というのは不思議な感覚だ。クワイエルはすぐにその感覚に喜

びを見出すようになった。魔力そのもので見る事を具現化したような感覚に。

 これが進むべき境地なのか。目指すべき一つなのだろうか。

 解らないが、楽しい。

 これがここの種が普段使っている感覚なら、それを体験する事で少し解りあえるような気がする。

 そういう気がするだけかもしれないが、ひどく楽しい気分だった。

 いや、一人で楽しがっていても仕方ない。結局ここにも居なさそうだ。新たな感覚を用いても、何も捉えられ

ない。だだっぴろい空間が広がっているだけだ。

 今までと変わらない。

 生命反応、動きも感じられない。レイプトが居る事を少し期待していたが、それも外れたようだ。勿論、他の

仲間も感じ取れない。

 今度こそ本当に隔離されたのか。全ては罠だったのか。

「厄介な状況だ。しかし、面白い」

 それでもクワイエルの興味は尽きない。焦燥感も消えている。何も変わらないように思えて、何かは変わって

いる。空間のドアが開くという、以前からは考えられない大きな変化があったのだ。観察者の側に少し変化が見

るべきだろう。

 そういう希望を持てるだけでも、大きな変化だった。

 ただ、心がざわつくのは消えない。それが今も何かを乱している。

 大事な事は何一つ解っていない。喜ぶのは早い、いつもそうであるように。

「ふぅ・・・・・・」

 クワイエルは目を閉じ、一度大きく深呼吸した。

 次に目を開いた時、また違った世界が見えるかもしれない。

 そんな事はまず無いとしても、初めから諦めるのは面白くない。クワイエルは期待して目を開いた。




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