17-7.
「!!!!!!!」 ゲルが突然音を発す。 それは甲高いようでいて耳に優しく、まるで体の中が清潔な香りで満たされていくような感覚がした。 一番近いのは歌声か。無造作に音が羅列されているのではなく、拍子と音程が揃った整然とした音の群れ。声だ けで演奏するかのような不思議な響き。 景色はその音を聞き流すように静かだったのだが、その内ぱりぱりと空間に亀裂が走り、剥がれ落ちるようにし て崩れ落ち始めた。 あとにはぽっかりと穴が開き、その奥は暗く深い。それなのに闇に覆われるでもなく、静かな光で満たされてい るようにはっきりと底まで視界が届く。 氷が光を照り返すのに似ている。いや、それよりももっと静かでしっかりとした光か。 「・・・・」 ゲルは奏で終えると満足そうにペンダントへ戻った。もう用は済んだから、後はあんた達でしっかりやりなさい、 という意思表示だろう。 彼女も色々な経験を経て、半分放任主義のような気持ちで見ているのが一番だと考えるようになった。自分が手 を貸す事、それが即ちクワイエル達の為になる訳ではない事を悟ったのだ。 つまり自分達を信頼してくれたという事。 ならばその気持ちに応えたい。 「行きましょう」 そう言うとクワイエルは無造作に空間に出来た穴へ足を踏み入れた。 何ら躊躇も警戒もせず入ったのはゲルを信じるからだ。もし何か危険な事があれば彼女は事前に知らせてくれて いたはず。それが無いという事は、少なくともこの付近は安全という事だ。 空間の裂け目は別次元をのりで無理矢理くっつけてしまったような不恰好なものだったが、この大陸では珍しい 光景ではない。ただ、その裂け具合というか、剥がれ落ちた空間片は気になりのか、クワイエルがしきりにそれを 手にとっては眺めている。 そのいくつかは懐に入れたようだ。調べられる時間を持てるかどうかは解らないが、後に待つ楽しみがあるから 人は今を元気に生きていける。 「特に危険はないようですね」 レイプトがクワイエルに続いて入り、周囲をさっと感じ取る。 気温も明るさも外とさほど変わりなく思える。 ここから出入りするのならその方が都合が良い。 もっとも、この地の主にそんな細やかな気温の変化を気にする必要性があればの話だが。 「距離はかなりのものだ。一本道ではあるようだが、迷わない保証はない」 ハーヴィの言う通り、この穴はまさに穴と呼ぶに相応しい形状をしていて、上下左右に道はなく、ただ一本の穴 道がずっと先まで続いている。 かなりの距離が見渡せるようだから段差なども無いのだろうし、ゆるやかに曲がっていく様子も無い。 高さはクワイエルが伸ばした手が届くくらい。横幅も同じような長さで大きくはない。 「隠し通路・・・という訳でしょうか」 クワイエルは上下左右の壁に慌しく触れているが、何も起こる様子はない。溶けるようでもなく、硬いようでも なく、彼らがよく知る土に一番近い感触がする。 凍らせる事はこの穴の主にとって絶対必要なものではない、という事なのか。 それとも外では凍らせる事が必要だったのか。 「凍らせる事の・・・意味・・・」 趣味、芸術、罠、身を隠している、色んな案が浮かんでは消え、そのどれもが当てはまりそうであり、当てはま らなそうでもある。 ようするにいつも通り解らない。 「とりあえず、進みましょう」 クワイエルの言葉に、仲間達も異論は無いようだった。
穴はどこまでも続いており、終わる気配を見せない。 ただ変化はある。時々横穴や縦穴が現れるのである。 気になったので上穴を覗いてみたが、そこに空は見えず、果ての無い穴が同じように続いていた。 この場所に終わり、果てというものは無いのかもしれない。 「このまま行ってもしかたないな」 クワイエル達は立ち止まり、皆で善後策を練る事にした。 結果、ここはゲルに頼らざるを得ない、という結論に達した。 彼女が居なければこの場所に気付く事も無かった。クワイエル達だけでどうにかしようと言う方が初めから無理 だったのである。 ゲルが調べてくれた所によると、そこかしこに違和感のある場所があり、それは入り口を見付けた時に感じたも のとそっくりであるという。 一度調べたものと同じなら、わざわざ振動を使って調べ直さなくても理解できる。望むならどこでも開けてあげ ると言ってくれた。 クワイエル達は正直どこでもいいと言うか、どこがどうなっているのかさっぱり解らなかったので、とにかく一 番近くの出入り口を開けてもらう事にした。 ゲルはすぐに軽快な音を鳴らして進み、10m程先にあった空間を簡単に開いてくれた。 今度は無理に剥がしたのではなく綺麗に開けていたから、彼女はこの魔術の仕組みをもう理解しているらしい。 やはり物が違う。
出入り口を抜けると、入る前と似たような景色が広がっていた。 気温から風のなびき具合までそっくりで、同じ場所に出てきたのではないかと思う程だ。 しかしゲルが言うには、ここは入る前の場所から数百kmも離れた地点であるらしい。 クワイエル達が中で進んだ距離とは比べ物にならない程進んでいる。ここの種はとんでもなく行動的で、桁外れ に広い活動範囲を持っているのかもしれない。 上手く使えば人間の住む最南部まで戻れるのではと期待してゲルに聞いてみたが、そこまでは彼女も解らないら しい。もしそこまで広がっていたとしても穴道の地図がなければどこに出るか解らないし。自力で地図を作るには かなりの時間が必要になるそうだ。 それにそれだけ行動的な種ならゲルの調査に気付き、何かしらの事をしてくるだろう。それが好意的なものであ れば良いが、そうでなければ大変困った事になる。 もしかしたらすでにこちらを観察しているのかもしれない。今正にクワイエル達をどうするかを協議中なのかも。 それなら穴道を無理にこじ開けたにも関わらず、一切の接触が無い事にも頷ける。 あの小雪男達のようにどこからともなく現れ、何の感情も持たない目でこちらを見。こちらが気付く前に消え てしまう。だから誰も居ないし、接触してこないように思えている。 そう考えるとぞっとした。
一通り悩んだが、答えはいつも通り出ない。このままぼうっとしていても仕方ないので、この場所を出て安全な 場所まで進んで休む事に決めた。 この氷り地帯は半径数kmといった規模らしいので、今のクワイエル達なら数分とかからず突破できる。 クワイエル達はすぐさま移動し始めた。
予想通り、凍り地帯は数分で抜ける事ができた。思い切って飛ばせたのはゲルが周囲に危険が無いと言ってくれ たからである。 もし彼女の力を上回る存在が隠れていた場合は素直に諦める。 そう割り切っていないとやっていられない。ゲルの方もその心は理解している。全ては覚悟の上。のほほんとし ているように見えて、彼らは過酷な人生を歩んでいる。 今は交代で見張りをしながら睡眠をとっている。寝られる時に寝るようにしている為、あまり時間的な事は考え ていない。 一応朝起きて夜に寝るという暮らしを基本と考えているが、朝夜も簡単に狂うのがこの大陸であるし、居るだけ で時間の感覚を失ってしまうような場所も多い。 様々な場所、環境を切り張りして創られているような場所なので、体内時計やら規則正しい生活やらと言ってい られないのだ。空腹、眠気、疲労をある程度自由にできなければこの大陸では生きていけない。 レムーヴァという大陸は過酷である。クワイエル達が肉体的にも精神的にも強化されていなければ、今ここに居 る事すら不可能だったろう。 彼らは彼らの種を、その限界というものを多分逸脱している。 レムーヴァに居る事が当たり前になった今の彼らは、他大陸、いやギルギストなど人間が入植した土地ですら適 応できなくなっているのかもしれない。 それは環境としてではなく、他の人間に対して、という意味である。 いつかは戻りたいと考える彼らには皮肉な話だが、彼らという存在は最早別種と言うに等しい。 一体どこまで成長するのだろうか。 そしてそうなってさえ全く問題にならない程の力の差があるという事は、一体どういう事なのか。 そもそもこの異常な世界に、その成り立ちの意味や理由が必要なのだろうか。神様の悪ふざけでごった返すよう なこの大陸に、何らかの真理があると言うのか。 考えれば考える程解らなくなってくる。 究極な所、思考は無意味である。とでも言うように。 一つだけ解る事があるとすれば、人でない世界に行くには人を逸脱しなければならないという事。クワイエル達 はとうの昔に引き返せない場所へと入ってしまっていたのかもしれない。 もしかしたらレムーヴァの他の種族達もクワイエル達と同じようにこの大陸の異常性に惹かれ、進んでいる内に 取り込まれてしまった者のなれの果て、或いは進化の最終的な結果なのではないか。 全ては想像で確信はどこにも無いが。この大陸自体がそういう妄想の産物だとしたら、少しだけ納得できるよう な気もする。 ルーン魔術が想像を現実に変える手段だとすれば、つまりそれはそういう・・・・・・。 「そろそろ出発しようか」 珍しくハーヴィが提案したのは、クワイエルがぼうっと思考に浸っていたからではなく、この場所に長く居続け るのは危険と判断したからである。 彼の魔力の高さと安定さは仲間内で最も優れている。その上細やかで丁寧に魔力を編み、見る事ができる。レイ プトの直観力には劣るが、冷静にそれを看破する能力にかけては彼の右に出る者は居ない。 クワイエルも暗雲が立ち込めるような嫌な気配は感じていたが、ハーヴィ程それを理解できていなかった。 しかし気付けば行動は早い。 「ええ、行きましょう」 休息は充分にとった。今なら機敏に動けるはずだ。凍り地帯から距離をとっているから小雪男がきたとは思えな いが、いつでも例外はあるし、新たな危険を持つ種が迫っている可能性も常にある。 それでも判断が遅れたのは、慣れからくる弊害(へいがい)か。それとも諦めからくる物分りのよさの反作用と 言うべきか。 「結局何をしようと、人に完全な振る舞いはできないという事か」 多少自虐的に笑ったのは、昔を思い出したからかもしれない。 決着を付けたはずのそれも、ただの妄想でしかなかったと思えば、何も終わっていない事に気付く。 「いや、違う。これは思わされているのだ。不味い兆候だ」 クワイエルは自身の心に強い違和感を覚えた。 確かに胸の奥にはそういう考えがある。それは間違っていない。だがこれは違う。自分ではない誰かに思わされ ている。はっきりと解らない何かが、はっきりと違っている。 周囲もいつの間にか暗くなっていた。一体いつからだろう。陰鬱な何かで満ちてでもいるように、この場所を光 が避け始めたのは。 「急ぎましょう」 皆も気が付いたのだろう。黙って頷き、足を速める。 しかしどこまで行っても変わらない。景色が、ではなく。暗さが。 これは今までに経験した事のない脅威だ。あの穴道で派手な振る舞いをしたにも関わらず、何事もなく外へ出ら れたのも、もしかしたらこの現象が迫っているのを知って避難していた為ではないのか。 「・・・・・・・・・・」 更に進むが、全く引き離せない。狙われてしまったのか、それともこの辺り一帯がすでに支配下に入ってしまっ ているのか。 「逃げ場がない。いや、逃れようが無いというべきか」 ハーヴィが珍しく苛立ちを含んだ声をもらす。さすがの彼もこの魔術の影響を受けないではいられない。 クワイエル達は諦めて立ち止まり、状況把握に努める事にした。 今の所気分が悪くなる、周囲が暗くなる、以上の効果は現れていない。勿論理解できないだけで、それ以上の何 かを受けている可能性はあるが、今の所それ以上の不都合は無さそうだ。 なら、それはそれでいい。 考えるべきは、何者から攻撃、或いは影響を受けているのであれば、それは一体誰に向けられて行われているも のなのか、という点である。 クワイエル達が狙いなら諦めるしかない。でももし他の何者かを狙っているのだとすれば、やり過ごせる可能性 がある。 諦めるにはまだ早いという事だ。 「静かにしてやり過ごしましょう」 皆が頷き、魔力などを抑えて自らの存在そのものを少なくさせる。大差ないだろうがやって損は無いはずだ。 そして暗闇が通り過ぎるのをじっと待つ。
一時間が経ち、二時間が経ったが状況は改善されなかった。ずっと変わらず陰鬱なものが迫ってくる。 魔力を最小にする事で魔術の影響も最小になり、心の苛立ちを最小限に抑える事ができているが。このままでは陰 鬱な気分で感情が蒸発するように心を黒く塗り潰されてしまうだけだろう。 そこでもういっそ何もせず眠ってしまう事に決めた。 起きているから色々な事に思い悩み、心を消耗する。寝て全てを閉ざしてしまえば、他から受ける影響も最小限 になるし、心も保存できるはずだ。 乱暴でどうしようもない方法だが、どの道抗えないのならそれもいい。必死に立ち向かおうと頑張るから余計に 心を潰される。駄目な時は駄目と腹をくくって何もせずに居る。それも手である。 ぐうたらでどうしようもない思考だが、こういう楽天さがあるからこそ彼らはこれまでやってこられた。なら今 もそれに従おう。 そんな気持ちで彼らは見張りも立てずに眠ってしまったのであった。
どれくらいの間眠っただろう。たまに起きても状況が変わっていなければまた眠り、そんな事を数えるのも面倒 になるくらい繰り返した後、ようやく暗闇は去った。 クワイエル達を狙ったものではなかったようだ。 しかし何という嫌な魔術だろう。心を真綿で締めるように陰鬱にさせながら、直接的な効果は薄い。攻撃という よりも何かを追い払うような魔術であるが、執拗に過ぎる。 「さて、どうしたものか」 あれだけしつこいのだから一度で終わるとは思えない。なるべく避けていきたいが、どちらに行けば避けられる のか解らない。 結局、迷った時は北、という当初からの方針に従って、北上する事にした。 |