17-9.

 変化のある世界がいい。

 そんな事を一度でも思った事を後悔するくらい、この場所は多様性に満ちている。

 いや、多様性そのものというのか。

 簡単に説明するなら、常に物が入れ替わる。

 木が突然雲になったかと思えば、次にはその雲が鉄塊に変わり、かと思えば水、風、土と次々に変化しては変

化する。

 その勢いは一向に衰えを見せず、この光景を眺めていると何を信じて良いのか解らなくなってくる。

「これは・・・・参ったな」

 ハーヴィが溜息を吐いた。

 そこにある物質が一定ではないという事は、例えばいつ足元が抜けるようにして落ちてしまうか解らないとい

う事。その上落ちた瞬間にはまた別の物に変わってしまう。彼ら自身も巻き込まれ、塗り替えられてしまう可能

性も出てくる。

 幸い、外観は変わらないというのか。魔術は地面だけに働いているらしく、広がりもしないし、そこからはみ

出しもしない。気をつけてさえいれば巻き込まれる事は無いだろう。

「取り合えず、試してみましょう」

 クワイエルは無造作にその辺に落ちていた枝を拾うと、ぽいっと変化の渦へ投げ入れた。

 すると枝は落ちた場所で何事もなかったかのようにじっとして、周囲の変化を他人事のように見ている。

 小一時間ばかり観察を続けたが、結果は変わらない。たまたま運良くそうなっているという可能性もあるので

更に枝を何本か投げてみたがどれも同じ、知らん振りしてそこに在り続ける。

「変化が速過ぎて枝の方が追い付けず、結果としてそのままになっているのかもしれませんね。とすれば、この

上を普通に歩いて行けるという事になります」

「ふうむ、だが危険には変わりない」

「ええ。でもまあ、私がちょっと行ってみます」

 ハーヴィの不安も何のその。クワイエルは枝を投げたのと同じくらいの無造作ささで、てくてくと変化渦に踏

み入ってしまった。

「・・・・・・・・・・・・」

 そのまま一分程立ち続けたが、彼に異常は見られない。

 次に何度も飛び上がって足を思い切り踏み付けたが、落ちる事もなければ、何らかの変化を与えられた様子も

なかった。

 クワイエルが予想した通り、恐ろしい速さで変化渦が変化している為、外界からの影響が届く前に変化してし

まい、結果として無かった事にされてしまうのだろう。

 何だかいい加減な話だが、事実そうなっているのだから仕方がない。

「もうしばらく進んでみます」

 クワイエルはそのまま躊躇(ちゅうちょ)せず百mくらい進んだが、やはり何も起こらなかった。

「行きましょう」

 クワイエル以外の仲間達はまだ不安があるようだったが、彼にここまでされて行かないとも言えない。意を決

して一人ずつ足を踏み入れて行った。

「・・・・・・・・・・・」

 何事もなく立っていられる。むしろ他の地面よりもしっかりしているようにさえ感じられた。

 存在が変わり続ける不安定さが、逆に完全なる安定さを生み出している。とでも言えば良いのか。

 めまぐるしく変わる景色のせいで目がちかちかするのが難点だが、それも視線を前部上方に向ける事で何とな

く解決したようである。



 変化渦の景色は一時間程で終わり、無事抜ける事ができた。

 その後は一転して黒いだけの景色が続いている。

 空は晴れ、陽光も美しく注いでいるのに。地面は黒く塗り潰され、変化を受け容れない。激しい変化も恐かっ

たが、この揺るぎなさからは圧倒的な威圧感を覚える。

「変化が速過ぎて黒く塗り潰されたようにしか見えないのかもしれませんね」

 そう呟いたクワイエルの言葉もいつもより震えているように聞こえた。

 早々に抜けようと速度を上げる。

 しかし先ほどまでと違ってこの黒塗りには足を取られてしまい、上手く進めない。

 高速回転する物体に弾かれるように、変化速度そのものに弾かれてしまっているのだろうか。

 それなら先程の場所でもそうなって良さそうなものだが・・・・・。

「ウル、ニイド   ・・・・・   力を、抑制せよ」

 試しに力を抑える魔術を用い、足と地面の設置面にかかる力を抑えてみたのだが、全く効果はない。

 他に方法を思いつかないので、もう一度同じ魔術を行使して黒塗りにぶつけてみたが、何度やっても同じだっ

た。魔力が変化の渦にかき消されてしまう。

「しかたありません。強引にでも頑張って進むしかないようです」

 クワイエルの言葉に皆同意し、それぞれ懸命に足を運ぶ。

 全員一致した意見として、一刻も早くこの場所を出たかったからである。

 それでもここを迂回すれば良かったとは思えない事は不思議だった。



 黒塗りの景色は延々と続き、晴れるどころか益々黒くなっていき、半日も経つ頃には全てを呑み込む程に凶悪

な色へ変わっていた。

 足も膝の辺りまで黒に沈み、一歩移動するにも酷く力を要する。雪に足をとられるのに似ている。

 このままでは近い内に身動きが取れなくなってしまうだろう。

 でも今更引き返す余裕は無く。不思議と何としても進まなければならないという気持ちが強かった。引き返す

という選択肢は誰の頭にも浮かばなかったのである。

 これは異常だ。

 考えてみれば初めの段階からおかしかった。いくら能天気なクワイエルでも、あそこまで大胆な行動を取った

・・・・のはまだ解るとしても。黒塗りの異常さを目にし、体感までしたのに、それでも進んで行こうと考える

のはおかしな話だ。

 黒塗りに引き寄せられていたと解するべきだろう

 あの黒塗り、もしくは変化渦に足を踏み入れた瞬間から、彼らはこうなる運命を背負ってしまった。

 今更異変に気付いても引き返す事はできない。

 頭では留まろうとしているのに、引き返そうとしているのに、体が勝手に前へ前へと歩き続ける。

 その内、思考や意志といったものまで麻痺してきた。

 何も気付かないし、おかしいとも思わない。前へ前へと進む為だけに生きている。彼らは今そういう状態にあ

った。

 それは自己を放棄した姿である。

「・・・・・・・・・・・・・・」

 誰も一言も発しない。言葉というものの存在、認識すら失ってしまっているのだろう。

 忘我の極致と言うのか、彼らの心は空っぽになってしまった。心という器は存在しても、そこにあるはずの感

情が無い。

 彼らは生ける屍(しかばね)として果ても無く歩き続け、膝、腰、胸、肩、首、と次々に沈んでいき、最後に

は頭の先までどっぷりと黒塗りに浸かり、黒の中へと埋められてしまった。

 漬物としては最上の漬け方である。



 不思議な浮遊感がある。

 しっかりしたものを感じられなくて不安だが、それでいて安堵もする。ゆったりと水に浮かぶような心地が、

安心と不安を運んでくる。

 目を開いてみる。

 黒く、何も見えない。まるで瞳に墨を塗ったように黒い。自分は黒塗りに溶け込んでしまったのだろうか。

 それとも黒そのものに変えられてしまったのだろうか。

 耳も口も働かない。感じ取れるのは浮遊感だけ。

 ハーヴィは感覚を研ぎ澄ませ、魔力を通して現実を感じ取ろうとした。しかしどこからも等しい魔力が感じら

れ、その魔力すら黒い。つまり全てが同じ黒で覆われている。違いはどこにもない。

「諦めるしかないようだ」

 自分より遥かに強大な魔力の前には抗う事も立ち向かう事もできない。しかし絶望は感じない。心にはいつも

浮遊感だけがある。

 思う事があるとすれば。

「皆は無事なのだろうか」

 という心配と。

「この先いつまでこうしていられるのだろうか」

 という疑問。

 黒塗りに誘われたのだとすれば、自分がここに居る事には何か理由があるはずだ。

 溶かして魔力にする為、単にこの場所に集める為。どちらにせよ、この空虚なまでに黒一色の世界を何かで満

たしたい、そういう思いがあるのかもしれない。

 いや、全ての混在が黒であるならば、黒こそが無限の有であり満たされた場所である。

 だからこそ不穏な安堵感を自分は覚えているのではないか。

「できる事はないのだろうな」

 このまま何も考えず、諦め、全てを黒の中に投げ出してしまいたい衝動に駆られる。

 こんな事を思ったのは幼少の頃以来だ。あの頃の自分は全ての責任を嫌い・・・・いや、恐れていた。何一

つ背負わず、気ままに暮らす事を望み。背負うべき運命をどうにかして回避する事だけを考えていたようにも

思う。

 それを態度に出した事はないが、心の奥底ではずっと望んでいた。

 もしかすれば今も望んでいるのかもしれない。

「・・・・もう良いのだな。私はもう・・・・私ではないのだから」

 この旅に出た理由さえ、全ての責任を投げ出す為であったのかもしれない。未知の開拓ではなく、自分はあ

の場所から逃げ、気ままに生きたかっただけだ。それを種族の為だの、人間との共存の一環だの、小難しい理

由を付けて自分に言い訳してきた。

「そうだ。きっとそうなのだ」

 だとしたら、今ここで黒に塗り込まれるのも本望である。

 その為にこそこの場所に来たのなら、そうあるべきだ。

 それに逆らう事は、自分そのものに逆らう事なのだ。

「しかし、しかしそれで良いのか」

 心の全てがそれを望んでいても、どこかにそれを否定したい自分が居る。それも愚かな見栄だと言ってしま

えばそれまでなのだが。そこにどうしても譲れないものを感じるのは何故だろう。

 一体自分はどうしたいのか。

 どちらを選びたいのだ。私は。

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

 そんな時、すうっと溶け込んでくる心があった。

 「これが・・・・私の気持ち。本当の気持ちか」

 幼少の頃、自ら答えを出し、全てを受け容れる覚悟を決めた。それこそがハーヴィ誕生の瞬間であり、自分と

いうものが定まった瞬間。

 その時に全ての問題は解決していたのだ。

「確かに逃げ出したい心はいつもある。それもまた私だろう。だがそれを悟って尚、私はハーヴィである事を選

んだ。選んできた。その心に嘘などない。それは私自身が誰よりも知っている。黒などに解りはしない。私はハ

ーヴィなのだ!」

 それを思い出した途端、潮が引くように黒が自分から離れていくのが解った。

 そして応じるように体が意味も無く浮き上がる。

 後は抗う術もなく、ただただ上へと運ばれて行くだけ。

 しかしそこに不安はなかった。

 あるべき自分に、私は今、戻るのだ。自分が望むように。



 目を覚ますと黒い地面の上に居た。今はもう黒の方が避けるようにしている。まとわりつきもしなければ、そ

れに沈む事もなかった。

 ハーヴィにはあれからどうやってここに戻ってきたかの記憶が無いので、何が起こったのか解らないが。とも

かく脱出できたようだ。

「手足も不自由なく動くようだ」

 体のどこにもひっかかる所は無い。

 周りを見回すと仲間達の姿があった。誰一人欠けていない。起きているのはハーヴィだけなので、彼が一番早

く目を覚ましたのだろう。

 すぐにでも仲間を起こしに行きたい所だが、まだ魔術の影響があるのかもしれないし、下手に動かして事態を

悪化させる可能性もある。

 ここは素直に待つ事にしよう。

 仲間達はぴくりとも動かず、死んだように転がっている。寝息もしていない。

 しかし魔力は感じられ、それが彼らの生命を何よりも証明している。

 彼らの魔力は少しずつ高まっている。

 クワイエルの高まりが一番速い。次いでユルグ、レイプト、エルナの順か。これがある種の力量の差を表して

いると言えるのかもしれない。

「この大陸では無意味な差だがな」

 どんぐりの背比べに意味はない。自分達は等しく弱く、無力である。

 そしてだからこそ危機を回避できる。

 この大陸で行使されている結界は当然彼らの強大な力の基準で創られている。そこにハーヴィ達のような弱者

は考慮されない。だからそれが網の目のような空白を作り出す事になり、極小の力の抜け道を自然と生み出す。

 その抜け穴があるからこそ彼らは生きてここまで来られた。それを運命と呼ぶのなら、そうなのだろう。

「力弱い我らだからこそ深奥へ辿り着けるのだとすれば、それは何を意味しているのだろう」

 解らない。だが導かれている、とそう思う事はある。

「もしこの道筋でさえ何者かの意思の上にあるのならば、我々は進むべきなのか、それとも・・・・」

 答えが出るはずもない。

 解らない事を考えるのは無駄である。

 しかしそれでも考えてしまうのが心というもの。

 ハーヴィは瞑想の姿勢を取り、ゆっくりと目を閉じた。

 時間はまだたっぷりとある。



 仲間達が全員目覚めたのは、瞑想を始めてからたっぷり半日が過ぎた後の事だった。

 起きた順番はハーヴィが予測した通り。ただクワイエルが一時間足らずで目覚めたのに対し、後の三人は半日

経ってほとんど同時期に目覚めた。

 これは意外である以上にクワイエルの魔力の異常さを物語る。

 以前から高い魔力を持っていたとしても、それは彼らの中での話で、鬼人には明らかに劣っていたはずだ。そ

れがこの大陸にきて急成長し、同じ訓練を積んできたユルグとレイプトを抜き、ハーヴィにまで迫っている。

 そのハーヴィも鬼人と考えても異常な魔力を持っている。

 何故二人だけがこうも力を得たのだろう。

 疑問を一人で抱えているのが億劫(おっくう)になり、試しにクワイエルに話してみると彼はこう言った。

「体質がこの大陸に合っているのかもしれません」

「体質?」

「ええ、体質が」

「そういうものなのだろうか」

「そうでないとは誰も言えませんし。他に考えられる事はないでしょう」

「確かに」

 何となく根本的な部分で違っているような気はしたが、確かに誰もそうでないとは言えない。

 それにそう考えると不思議と少し楽になった。どうもその程度の事だと考える事は、心というものを楽にして

くれるらしい。

 それから黒塗りについて話し合ったが、どちらも似たような経験をしていた。後で聞いたが、他の仲間達もそ

うだったようだから誰が行っても大体そうなるのだろう。

 黒塗りはハーヴィ達を沈みきれず、或いは異質な物として吐き出した。

 どちらでもいい。自分達はまだ進む事ができる。

「残る問題はここがどこかという事か」

 周囲は黒く、ここがどこであっても判別しようがない。解るのは呑み込まれた場所と明らかに違う場所だとい

う事だけ。

 しかしクワイエルは確信をもった様子でこう言った。

「どちらにせよ、我々は北へ向かうのです」

「違いない」

 ハーヴィに不安はなかった。疑問さえ出てこない。これは自分達の心が望んでいる事なのだ。例えそこに誰か

の意志があったのだとしても、それはそれとして彼ら自身が深奥へ行きたいのだ。

「ならば進むのみ」

 迷いは完全に消えていた。

 後は二人で取り留めもない事を話し、時間を潰した。




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