3-1

 そこには滝が在った。

 突然眼下に滝が現れたのである。

 しかし不思議な事に滝から来るはずの、あの雄々しい音が響いて来ない。水音もせず、それ故に誰も目に

するまでは気付かなかったのだろう。

 本当に予想外の事であったので、クワイエル一行は暫く呆然とその場に立ち尽くした。音の無い滝、それ

は通常在り得ない存在である。

 ハールの塔を出て三日目の出来事であった。

 そこは高低差の特に激しくなった箇所の中心に、まるでそれらに囲まれるかのように存在していた。

 今クワイエル達はその滝を高い場所から見下ろして居る。

 足元は切り立った崖のようになっているが、まるで階段のように斜めに何度も折り返す道が付いている。

草花も咲いていたが、擦り切れたように地肌が見える所を考えると、割合良く使われている道らしい。

 それにこのように上手い具合に、自然に道が出来る事などはまず無く、これは何某かの力で手を加えられ

た物だと見て良いだろう。

 少なくとも知能の高い生物がこの近辺を住処としているに違いない。

 それは或いは、人間から見れば凶暴なモンスターとしか映らない存在である可能性もあった。

 このレムーヴァにはどうやら特異な生態系があるらしいが、もしかすれば元々は他大陸から渡って来た者

であるかも知れない。

 この大陸に人間だけが渡来していると考えるのは、それは間違いであるだろう。

 他に、多少知恵がある程度だったモンスターが、此処に来てその知性を高め、長い年月と共に進化して行

ったと言う事も考えられる。

 ともかく、ここは危険であった。

 水音の聴こえない水など自然界にある訳も無く。多かれ少なかれルーン魔術で何者かが手を加えたか創造

したか、やはりそのどちらかであるとしか考えられない。

 良く使われているだろう道を見ても、何時その者と出会ってしまうか解らない。一人や二人なら良いが、

もし何十人も現れれば、簡単に逃れられないだろう。

 必ずしも凶暴な存在と出会うとは限らないが、出会えば当然あちらもこちらと同じように警戒心を浮かべる

と思われる。せめて話し合えれば良いのだが・・。

「今度も争わなくて済めば良いのですが・・・」

 推測と危険を仲間へ述べた後、クワイエルは深い溜息を吐いた。

「魔術師でも怖いモノがあるのですな」

 戦士の一人が驚いたように呟く。それは魔術師でない者が良く使う台詞である。

 全能にして真の神の力であるルーン。それを使いこなす法であるルーン魔術。そしてルーン魔術の使い手

である、魔術師。その無限とも思える力を行使出来るルーン魔術師に、果たして怖れるモノなどがあるのだ

ろうか。

 確かにより強い魔術師を畏れるのは解るが、それにしても一般の人間が感じるような恐怖を抱くとは思え

ない。偉大なる力を持つ者が、何を恐れるとも思えないのである。

「知れば同時に恐怖を知る、と言う言葉があります。その力を高め、知識を得、自らの力とそれが起す結果

を知る事が出来るようになればなる程、その出来る事が増えれば増える程、やはり恐怖も増大するのだと思

います。その力がもたらす結果に、その力が秘める危うさに。だから私達はルーン魔術を最も恐れるのです。

力のある魔術師、神官であればこそ、その力を行使する事に躊躇いを持つと言われています。そして何より、

魔術師もただの人間です。超越した存在では無いのです」

 クワイエルは哀しそうに答えた。その恐怖があるからこそ、魔術を志す者は、より多くの知識と力を求め

るようになるのだろう。

 しかもそれに終わりは無い。それどころか得れば得る程、不安も増えるのである。これを皮肉と言わずし

て、何と言えば良いのだろうか。

 そう考えれば、果たして魔術師とルーン、どちらがどちらを使っていると言えるのだろう。これは神なら

ぬ愚か者が、その手に余る神の力を手にした代償なのかも知れない。

 まるで常に手に火薬を持ちながら火を使うようなモノである。満足に使えない力、それどころか逆に恐怖

をもたらす力、そのような力に一体どんな意味があると言うのだろうか。

「なるほど。我々冒険者が傭兵として雇われた時、他に脅威があれば我らを頼り慕ってくれますが。その脅

威を取り除き、要が済めば、今度はその脅威を取り除く程の、より多くの力を持った我々を恐れ始めるのと

一緒ですな」

 それを聴き、クワイエルは大きく頷き。心から感心したように何度も頷きを繰り返した。

「はい、似ています。その力の程を知ったからこそ、人は更なる恐れを抱くのでしょう。それにルーン魔術

は失敗すれば深刻な状況を生み出しますから。特に他者を破壊、変化させようとする魔術は危険です。それ

は自然を造り変える事と同じですから、下手をすればバランスを大きく崩して、この世界そのものが崩壊す

る可能性もあります。遥か昔には、海が干上がったり、空が真っ黒に塗り潰されてしまった事もあるそうで

す。魔力の暴走、それに勝る脅威は決してあり得ません」

「それは恐ろしい・・・」

 戦士は絶句し、それ以上は何を言おうともしなかった。まるでうっかり自分がルーンを喋ってしまわない

かと、そんな事を心配しているかのように。

 前にも記したが、ルーンの響きと簡単な意味くらいは一般的に多く知られているのである。それも腕利き

の冒険者となれば、尚更だろう。

 まあ、一文字のルーンでは自然に逆らう程の力を生み出さない。正に自然のままの力であるから、魔術師

の苦悩や心配とはまったく関わり無いモノではあったのだが。

「ともかく降りてみましょう」

 どうやら辺りに危険が無いと判断し、クワイエル一行は滝壷への道を降り始めた。


 道の中腹辺りで、クワイエルは身体に不思議な抵抗がかかるのを感じた。

 一瞬全ての神経の道筋が閉ざされたような、血液の流れを押し止められたような、そんな不思議な感覚を

受けたのである。息苦しく、苦痛でしかなかった一瞬だったが、すぐにそれは晴れた。

 するとどうだろう。

 先ほどまで欠片もしなかった滝壺の音が、圧倒されるくらい盛大に彼らに降りかかってきたではないか。

 草花の揺れる音、小鳥の歌声、水の流れる音、そう言ったあって然るべき音がようやく彼らの耳にも届き

始めたのである。

 代わりに、先ほどまで聴こえていた筈の音はまったく聴こえなくなってしまった。まるで何かで区切られ

てでもいるかのように、そこからこちら側に、そこからあちら側にと、全ての動きがそこを境にまったく途

切れてしまっているのだ。

「おそらく結界でしょう」

 クワイエルが何かを確かめるように身体を動かしながら呟く。

「結界ですか?」

 軽装の剣士が、そんなクワイエルに尋ねた。それから境界となるであろう空間を、何度も手でなぞる。

 その度に何か耐え難いモノを感じたが、痛みまでは感じない。おそらく、生物の進入を拒むモノでは無い

のだろう。

「はい、危険を感じなかったので言わなかったのですが。おそらくは一切の振動、動きなどを止めてしまう

魔術がかかっているように思います。音は空気の振動ですから言うに及ばず、心臓や肺などの器官までも止

めてしまうのでしょう」

「内臓までも! それでは死んでしまうのですか!?」

 それを聞き、戦士が大声を上げた。

 それではもうすぐ自分も死んでしまうのだろうかと、そんな恐怖を抱きながら、彼は全身を漁るかのよう

に手で擦り、落ち着きを無くす。

「いえ、大丈夫です。ごく薄い膜のような魔力場となっているようで、長い間居れば解りませんが、一瞬で

すからそう心配は要りません。勿論心臓の弱い方や、何度も出入りすれば、それなりに危険は伴うかも知れ

ませんが・・・。取り合えず、致死性がある程強力な障害では無いのです。ですがこの魔術をまさかこれほ

ど綺麗に空間に止める事が出来るとは・・・」

「はあ・・」

 戦士はまだ良く解らないようであったが、とにかく重病人でも無ければ代丈夫なのだろうと見当を付け。

それから大きく深呼吸を繰り返した後、いつまで経っても先程の息苦しさが甦って来ないので、ようやく安

心をしたようだ。

 未知の恐怖もまた性質の悪いモノである。

 所詮は知っても知らなくても恐怖すると言う事かも知れない。でもどちらかと言えば、知っていた方が気

も楽になるだろう。だから魔術師は必死で知識を求めるのかも知れない。例えその先により大きな恐怖が待

っていようとも。

「これ程繊細で高度な魔術の構成は、私も見た事がありません。よほど力のある方がおられるのでしょう。

幸いな事に、その方には今は敵意が無いようですが」

 もし敵意があるとすれば、致死性があるか、こうも簡単に通り抜けられない障壁を築いていただろう。或

いは何者が来ても、小揺るぎもしない自信があるからだろうか。

 これ程の力を持つのであれば、それも頷ける。

 魔術の構成は、例えば一から万までの数を順番に掛け続けるのに似ている。つまり1×2×3×・・・と

言う風に。そしてこれ程の高度で繊細な魔術となれば当然使うルーンの数も多くなり、その暗算を何時間も

休み無しでやり続けるくらいに消耗すると考えられる。

 当然難易度が上がれば、その数字の桁も増えるだろう。十万、百万、千万・・・と言う風に。

 どれ程の精神力と集中力を持ち合わせて居るのか解らないが、その力の程は想像出来よう。

「あ、なるべく敵意を見せないようにしましょうか」

 不安にかられ武器を抜き放つ仲間達を制止するクワイエル。

 確かに今の所彼らに何をしている訳でも無いのに、過剰な敵意を見せるのは得策ではない。まあ、あちら

が何かして来てからでは遅いのだろうけれども。

 ともかく一行は武器を収め、警戒心を強めるのみに止めた。クワイエルの場違いなくらいにマイペースな

声に、多少安堵したとこもあったのだろう。

「どうやらあの滝壺を中心に、この魔力場が組まれているようです。とにかく、あそこに向いましょう」

 そしていつものようにまるで警戒心無く足早に行くクワイエル。仲間達は顔を見合わせてから一斉に一息

吐くと、後は無言でそれに従って行ったのだった。 




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