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 森へ入ると全身を強烈な圧迫感が襲ってきた。

 しかし以前通った時に覚えた、自らの全てが消え去って行くような虚無感、それに比べれば楽なものだ

ろう。身を切るぐらいの締め付けを感じるけれど、今は確かに自己と言うモノが自分の中にある。

 不安が少し和らぎ、皆足を速めた。

 足音がしないので、自分が果たして走っているのか、それ以前に今しっかりと立てて居るのかも解らな

い。そんな不思議な気分を味わっていたものの。それでも必死に前を走るクワイエルを頼りに、全員が懸

命になって走り続けた。

 クワイエルが道を切り開きながら、全員を引っ張るような形で彼らは進む。

 暫く走るとそれでも圧迫感は収まり始め、ようやく息を付けるようになった。

 皆息が上がって来ている事もあり、そこで暫しの休憩を取る。

「どうやら、成功したようですね」

 クワイエルが呟く。

 彼の目論見は上手く機能してくれたらしい。大樹は彼らを錯覚し、その延長である結界も彼らを錯覚し

たのだ。この手が次も使えるかどうかは解らないが、それでも今はまだ通用している。

 そしてこの事は大樹の対処法に、大きく希望を持たせる事になった。どれだけ途方の無い力を持つ存在

でも、何かしら弱みがあるなら、そこから突き崩せる可能性が生まれる。

 可能性とは希望。希望とは力。力とは生きる意志。

 それさえ失わなければ、人間はどれだけ苦難があろうときっと進んで行ける。

「まだ油断は出来ません。辛いですが、今は急ぎましょう」

 ゆっくり休む余裕は無い為、早々に休憩を切り上げる。まだ結界の影響範囲外には遠い。

 皆も頷き、疲れを振り払うように勢い良く立ち上がると、すぐに走り始めた。圧迫感が急激に増した訳

では無いが、また徐々に重くなってきたような気もしないではなく。クワイエルの魔術が完全に機能して

いる間に、少しでも大樹から離れておいた方がいい。

 例え動物とは認識されなくても、この場所に居るだけで身体に悪影響を及ぼす可能性も高い。ここは彼

らを生かす場所では無く、ただ大樹が成長する為にだけある場所なのだ。

 クワイエル達は只管に走り続けた。

 森を一刻でも早く抜ける。ただそれだけの為に。


「・・・・そろそろ・・・、良いでしょう」

 相変わらず森の静けさは変らないが、身に迫る圧迫感はいつの間にか薄れていた。どうやら無事に結界

の危険域を抜けられたらしい。そして皆ぐったりとその場に伏す。呼吸は荒く、全身から噴出す汗は途切

れなく、見るからに疲労感が伝わって来る程だ。

 しかし表情は皆晴れ晴れとしていた。

 まるで三日も彷徨い続けた迷宮からようやく出口を見付けられたかのように、それぞれが満ち足りた思

いで息をつく。

 ここまで来れば、身体にもさほど影響が無い。来た時には気付かなかったが、どうやら植物化する結界

はそれほど広範囲に広まっている訳では無いようだ。

 成長する為にエネルギーのほとんどを使い、あくまでも結界には最低限の力しか使っていないらしい。

 単純に罠であると考えれば、餌をばら撒いてある範囲が広く、実際に仕掛けがある場所は多くない、と

いう事になるだろうか。

「これから、どうしますか」

 リーダーが問う。

 無事罠から逃れたのは良いが、これからが問題となる。とにもかくにもクワイエル達だけではどうしよ

うも無いから、多くの協力を得る為に、出来る限り多くの者に知らせなくてはならない。

 クワイエルは暫く考えた後、こう答えた。

「・・・・・ここは二手に分かれましょう」

「二手、ですか?」

 てっきり一緒に行動するものと思っていた仲間達は、皆驚きの声を上げた。

「ええ、今はとにもかくにも火急の時ですから。では、そうですね・・・・。私とエルナはフィヨルスヴ

ィズの泉へ向います。皆さんは鬼人の集落へお願いします」

「解りました。ハール師と鬼人達に伝えれば良いのですね」

「はい」

 リーダー達は頷き、すぐに鬼人の集落へと向い始めた。決めてしまえば行動が早いのが、冒険者の特徴

である。能力的に見ても、彼らならば過不足なく達成出来るだろう。

「私達は泉へ向うのですね」

「ええ、今回は彼の手助けが必要です。我々も急ぎましょう」

「はい!」

 元気良く返事をしたエルナを従え、クワイエルはリーダー達とは逆に、進路を西へと向けた。


 フィヨルスヴィズの泉への道のりは険しい。

 ハールの塔から更に北西へと進む道は付けたものの、現在居る森外れへの道は無く。当然、此処から泉

への道も切り拓かれていない。

 フィヨルスヴィズの身辺を騒がせないと言うのが条件でもあったから、この不便さは仕方が無かったの

だが、やはり痛い不便さではある。大陸中央部への道も、あの大樹の対処を終えてからの事になるだろう

から、完成するのはまだまだ先の話だろう。

 つまりは何処へ行くにも時間がかかるという事だ。

 クワイエルとエルナは剣を振い、草を薙ぎ、木々を掻き分けるようにして西へと進んだ。

 そうなると、結局遠回りして一度ハールの塔まで戻り。そこから泉を目指しても、到着時間はさほど変

らなかったかも知れない。まあ探索も兼ねてと思えば、理由を付けられるが、それでも疲労度は比べ物に

ならない。その有意義さと疲労度の比率は釣り合わないだろう。

 それでも数刻歩き続けると、少しずつ地形が変化し。更に歩き続けると、以前苦しめられた、あの高低

差の大きい地形が現れ始めた。

 ここからは更に疲れる行程になるだろうが、確実に目的地へと近付いている。

「少し休憩をとりましょう」

「は、はい」

 二人きりと言う事もあって、エルナは少し緊張しているようだったが。いつもと変らないクワイエルを

見るにつれ、徐々に普段通りに休む事が出来るようになったようだ。

 しかし予想以上に身体に疲れが溜まっている事が解り、話あった末、二人はそのまま野営をする事に決

め、その準備を始めた。無理をしても、おそらく思ったよりも進めないだろうからだ。

 それから暫くの間、騒がしくも楽しい一時が二人を包む。

 急いでいるとは言え、それで身体を壊してしまっては元も子もない。休む時はゆったりと休むのが一番

いい。そうでなければ、この休むと言う事に消費した貴重な時間を、それこそ無駄にした事になるだろう。

 二人はただぐっすりと眠った。

 

 陽光に起される。

 今日も良く晴れていた。そう言えばこの大陸は雨が少ないような気がする。それでも水が枯渇する気配

が無いのは、よほど豊富な地下水脈があるのか。それとも水を創る者でも居るのだろうか。

 もっと考えれば、雨が嫌いな者が天候を支配し、それによって最低限の雨しか降らせないようにしてい

る。そんな可能性もある。

 この大陸では何があってもおかしくない。現にフィヨルスヴィズや大樹、そして鬼人と言う者達が居る。

怖ろしくもあり、頼もしくもあり。このレムーヴァと言う大陸は、根本的に何かが違うのだろう。

 ともあれ、探索に夢中な人間にとって、天候が穏やかである以上に至福な事は無い。

「イェーラ、ウル、ナウシズ ・・・・・ 大地の、力よ、緩和せよ」

 クワイエルは重力を和らげる、女性が喜びそうな魔術を使い。身体への負担を軽くさせた。

 完全に重力を遮断し、浮く事は困難だが。何とか半減させる事は出来る。体重が半減すれば、高低差の

大きな地形でも、おそらくさほど速度を落さずに乗り切れるだろう。

 それに以前とは違い、すでにこの辺りの地図は出来上がっているから、無理に虱潰しに移動する事も無

く、安全に直線を進む事が出来る。警戒するべき動植物が居ないのも、調査済みであった。

 ただ重力が半減した状態で移動する事は、なかなかに難しい。身体がどうにもふわふわとして、うかう

かしてると目測を誤って、妙な所へ跳んで行きかねない。

「歩こうとするより、跳躍して移動する方が楽です」

 クワイエルが見本を見せるように、片足ずつ数mも跳んで行く。見てると面白そうなのだが、実際やっ

てみるとこれも難しかった。エルナは暫くはまるで溺れた馬のように暴れ回っていたが、要領を掴んだら

しく、クワイエルとほぼ同等のペースで移動出来るようになった。

 普段の倍近い距離を跳び、しかも着地の負担も少なく、慣れて見ればこれほど楽しく素晴らしい事は無

かった。空も飛べそうな気がするくらい、爽快な気分である。

 二人は木々に注意しながら、徐々に速度を上げていく。

 この分であれば、思ったよりも早く着けるかも知れない。

「でもこんなに魔術を使っていたら・・・」

 ふと不安を覚えたエルナは、クワイエルに近付き、その顔色を見る。彼は別段問題があるようには思え

ず、健康そのものに見えた。

 もしかしたら、クワイエルの魔力が大きく上がっているのではないだろうか。強大な魔術を何度か使い、

多くの危険を乗り越えた事により、彼の力は日増しに上昇したのだと考えても、それほど意外な事とは思

えない。

 それとも、元々これ程の力があったのだろうか。

 ふとエルナの瞳に、クワイエルの指に光る、一つの指輪が触れた。

「とにかく、急がないと」

 だけど今はこんな事を考えている時じゃない。油断していると怪我をしてしまう。

 エルナは気を引き締め、跳躍移動に専念したのだった。




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