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 クワイエルとエルナはようやくフィヨルスヴィスの住まう泉まで到着した。

 すでに魔術は解き、いつも通り地に足を付けて歩いている。身体の節々が痛いのは筋肉痛だろうか、普

段しないような動きをしたのだから、その影響かも知れない。

 滝と泉を静寂の中に隔離する結界の前に立ち、いつぞやと同様に、クワイエルは祈りを捧げた。

 そして身を護る為のルーンを詠唱する。

「マン・ウル・エオズ・・・ナウシズ・エオ・ウィン・・・ギュフ、・・・我らに・大いなる・加護を・

・・苦難を・防ぐ・喜びを・・・与え賜え」

 突如身体が軽くなる。あらゆるモノから保護されるように、何かしらの加護を感じるのは、錯覚では無

いだろう。

 以前とこれまた同様に、クワイエルは膝を着き、息を乱していたが。しかし歩けないほどではないよう

だ。全ての力を使い尽くすのでは無く、より上手く、より正しく魔術を行使したと言う事なのだろう。

 或いは、やはり彼の魔力が上がっているのか。

 或いは神が彼の祈りをより深く聞き、それだけ親身に願いを叶えてくれたのだろうか。

 魔術師としての訓練を正規にクワイエルから受けるようになった今でも、まだまだエルナは未熟である。

クワイエルの見た所、才能はあるようなのだが、その才能と言うモノは開花するに時間のかかるものだ。

 それは自分を磨くと言う事に、少なからぬ意識の変化が必要な為であるが。ようするにエルナにはまだ

クワイエルの魔術の全てを理解出来る訳ではない。

 二人は結界内へと踏み入れた。

 これで三度目となるのだが、未だ此処には慣れそうに無い。と言うよりも、人間程度の力ではこの場所

に適応しようとする方が無理なのだろう。

 そしてまた、ただ存在するだけで暴風のような魔力場を生み出してしまうほどに、フィヨルスヴィスが

強大だからこそ、あの大樹にも対抗出来ると思われる。この地に来て、それを確信した。

 少なくともエルナから見れば、フィヨルスヴィスの力が大樹に劣っているとは思えない。まあどちらも

計り知れない力だけに、比較しようと言う事自体が、本来無意味な事なのだろうけれど。

「エルナ、余裕があるのなら、意識して少しずつ魔力への抵抗を抑えてみるといい。そしてこの場に満ち

る魔力を感じるんだ。多分、それだけでも魔力を使う為の良い訓練になると思う。相手が相手だけに、少

し危険だけれど、それだけの効果もあると思う」

 クワイエルはすでに実践しているのだろう、先程魔術を使ったと言う疲労を差し引いても、エルナより

も苦しげに見えた。

 そろそろ身体に影響が出る距離に来ている。魔力場は中心点から離れる程衰えるから、やるなら今の内

にしておいた方がいい。

 それに考えて見れば、これは自分の成長を知る良い機会だ。フィヨルスヴィスは常にほぼ一定の力を放

出し続けて居る。だから泉への距離にどれだけ抵抗を抑えて近付けるのか、それを量る事で、自らの魔力

を量る目安になる。

 勿論、膨大な魔力場に覆われている地であるので、他人にはお勧め出来ない。下手をすると、体の器官

が狂ってしまうかもしれないからだ。

 今クワイエルがそれを行い、敢えてエルナにも勧めたのは、このレムーヴァと言う大陸を進むにつれ、

余りに強大な存在に出会う事に、大きな危機感を感じたからかも知れない。

 多少無理してでも力を付けておかねば、この先命を落しかねない。人間はこの大陸にとって余りに卑小

な存在である。焼け石に水だとしても、己を高める努力を怠る訳にはいかない。そのほんの少しの差で、

命を失わずに済むかもしれないのだ。

「そろそろ意志をしっかり持って下さい。やはり彼の力は強大過ぎる・・・」

「はい」

 エルナは意識を集中させ、自分をしっかりと保つ事だけに力を向けた。

 魔力への抵抗とは即ち、他者に侵されない意志を持つ、と言う事である。流されない心、留まる心、真

摯に貫く想い、心が確固としていればいるほど、ルーンの干渉を阻む事が出来る。

 それから二人は歩調をゆるめて進んだ。ゆっくり進まないと、身が持たない。

 魔術で護られていても、まるで暴風に吹き飛ばされそうな思いすらする。すでに泉は近い。


「あの木がそれほど育っていたとは」

 フィヨルスヴィスは溜息をもらすように、大きく口を開けてそう言った。

「フレースヴェルグ、我らはそう名付けた。骸(むくろ)を喰らう者、フレースヴェルグ、とな」

「それでは貴方は知っておられたのですね」

 クワイエルが思わず問うた。

 知って居たのなら、何故あんな危険な存在を放っておいたのだろう。それとも、フィヨルスヴィスから

すれば、あの大樹もまったく問題にならない程度の存在だとでも言うのだろうか。

 だとすれば、一体どれだけの力を持っていると言うのだろう。正しく神か、少なくともそれに連なる者

に違いない。

 自然にこのような存在が生まれたとするのなら、一体それはどういう現象で生まれたのか。この大地か

ら誕生したにしては、その力は強大すぎる。果たして大地が自らを滅ぼす程の力を持った存在を、偶然で

も生みだすものだろうか。

 もしかしたら、このレムーヴァと言う大陸自体が、人間達の言う自然の摂理とはまた別の摂理で誕生し

たのかもしれない。

 それこそ超越者とでも呼べる存在の御手によって。

 いや、今重要なのはそのような事ではなく。あの大樹、フレースヴェルグの事だ。

「そうだ、知っておった。しかし知っての通り、私は騒々しい事を好まない。それにそこまで肥大すると

は思わなかったのだがな。ふうむ、そこまで厄介な奴だったとは、これは予想外である」

 そう言うとフィヨルスヴィスは考え込むように腕組みをし、ぎょろりとその目を剥いた。まるで遠くに

そびえる大樹を、睨んででもいるかのようだ。

「そう言う事であれば、私も協力しよう。折角の居場所を壊されては堪らんしな」

「ありがとうございます。それで私達はどうしましょうか。おそらく鬼人達でも、あの大樹に対しては無

力に近い魔力差があります。私達は貴方の判断に従いますので、雑用でもお申し付け下さい」

「そうさな・・・」

 フィヨルスヴィスはまた暫く考えて居る風だったが、意を決したらしくこう言った。

「考えてみれば、これも良い機会だ。汝らは我が力を見て居ればいい。鬼人達も人間達と共存するのであ

れば同様、この大陸に一体どういう者共が住んで居るか、それをとくと見ておけ」

 そして彼は滝壺から全身を抜け出し、六本の腕を組んだままで大空へと突如浮び上がった。

 魔術の詠唱は聞かなかったが、代わりに魔力場が大きく揺らぐ。オーロラのように煌き、瞬く度に色彩

を変えていく。

「私がここを出るのはいつ以来だろうか。汝ら、滅多に拝めぬ光景よ、さあ、楽しめい」

 そして、皆を大樹の下へ集めよ、結界は私が解いておく。そう言い残すと、あっと言う間に何処かへと

消え去ってしまった。

 これもまったく生物の動きでは無い。そして魔力は確かに感じるものの、彼はルーンを詠唱していなか

った。という事は、フィヨルスヴィスは詠唱など必要とせず、ルーン魔術を行使出来ると言う事だろうか。

それともこれは魔術では無く、単に彼に生来備わっている能力の一部に過ぎないと言うのだろうか。

 神の、ルーンの力など借りる必要は無いのだ。とでも言うように。

 クワイエルとエルナは暫し呆然としていたが、ふと気付くと慌ててハールの塔へと向った。あそこなら

ば遠話の出来る器具もある。フィヨルスヴィズがあれだけの力を持っているのなら、時間の感覚も距離感

も人間とは違うはず。なるべく急いでこの事を知らせた方がいい。

 今のフィヨルスヴィスを見れば、地上の距離などは全て零に等しい事が解る。あっと言う間に大樹の側

へと行ったはず。つまりすでに彼だけはその場に居る。待たされて良い気がする者など、居るはずが無い

ではないか。

 それなりに待ってはくれるかも知れないが。とにかく急がないと。そしてこの場合は急ぐ事だけが、人

間達に出来る最善であり唯一の手段だった。

 神は常に気まぐれである。気が変らない内にその御許へ赴(おもむ)かなければならない。

「エルナ、急ごう。疲れているとは思うけれど、今はそれしかない」

「は、はい。解りましたッ」

 エルナにもそう言う心は通じたのだろう、飛び出すように走り始めたクワイエルを見、すぐに彼女も後

を追う。

 二人には未だ安息は与えられないらしい。

 それだけこの大陸では、人間と言う存在が小さいモノだと言う事なのだろう。力が足りない分、懸命に

動かなければならない。例え疲れ、その途で倒れてしまおうとも。




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