5-3.

 森を抜けたクワイエル達が見たもの。それは呆れるほど広がる広大な湿地と沼地であった。

 まず前方に湿地帯が広がり、その後方に沼地帯が広がっている。そんな場所に居るものだから、じんわ

りと足下から絶えず雨が降り上がっているかのようで、瞬く間に衣服が湿り気を帯びてきた。

 沼地の向こうにはこの膨大な森林を支える水源があるに違いない。

 しかし極端と言えば、極端な地形の変化だ。これはおそらく自然に出来た地形ではないのだろう。何者

かの意図を感じる。

 とすればこの湿地帯と沼地帯には、自分の住み易い環境を自由に作り出せる程の、強大な力の持ち主が

居るのだろうか。あのフィヨルスヴィズのように。

 それとも、この大陸自体を作り変えるような、途方も無い存在がこの先に居るのだろうか。創造神に匹

敵する強大な存在が。

 この大陸はどうしても自然に出来たとは思えないし、それにこの大陸に住む生物は異常なくらいに魔力

が強い。だからその原因となる、或いは原因を創った存在が居る事は、充分考えられる。

 果たしてどちらだろう。

 後者ならまだ救いがある。

 何故ならば、この地に執着する理由が特に無く、ここで出会う可能性が前者に比べて低くなるからだ。

 だが前者であれば救いがないかもしれない。ここを抜けるためには、この地の主たるその存在を、決し

て避けては通れないだろうからだ。

 どちらの存在が居るにしても、双方共に人間が抗いようの無い存在なのだから、出来れば後者の方であ

って欲しい。

 勿論、どちらも居ないというのが、一番良い結果なのだけれど。

 せめて少しでも、人間に対して友好的な感情をもっていてもらいたいものだ。それを望むのは、真に人

間にとって都合が良すぎる考えだとしても、それを願う事しか人間には出来ない。

 もし不快に思われていたのなら、哀れクワイエル達の命は風前の灯火となるだろう。

「ゲル、イス、マン、エオル  ・・・・・・・・  大地を、凍結し、我らを、保護せよ」

 前触れ無くクワイエルが詠唱し終えた瞬間、彼らの足下の大地に多量に含まれている水分が凍り付き、

足下の湿気やその他の物から彼らを護る、氷の保護膜のような物が出来た。それは彼らが動く度に足下へ

現れ、以前の膜は溶けて消える。

 まるで彼らの足が大地を凍らせているかのようだ。いや、実際に凍らせているのかもしれない。

「水も人体に有益だけをもたらす訳ではありませんから。それに何が出てくるか解りませんし、出来るだ

け触れないようにしましょう」

 クワイエルはそう告げると、いつも通りすたすたと歩き始めた。

 まったく迷いの無い足取りに、何か目標か考えでもあるのかと思えば、やはり何も無いのだろう。けれ

ども進むしかない。クワイエルの足取りは、自身の迷いを振り切る為なのかもしれない。

 ここから引き返したとしても、先ほどのように何者かが保護してくれるとは限らない。そしてここを進

む事が彼らの役目でもある。例え退いても、いずれは通らなければならない。

 退いて力を蓄え、再度挑戦する。それも確かに良い考えだろう。

 しかし例え人間が死ぬまで発狂しそうなくらい修行に励んだとしても、一億の力量の相手に対し、一し

かなかった力が二になるようなもので、この大陸の異常な魔力を持った生命に対するには、まるで意味を

なさない。

 それならば今進んだ方がいい。クワイエル達はこのレムーヴァという大陸に行こうと決めた時から、す

でに死を覚悟しているようなものだった。危険と常に向かい合うだろう事は充分に理解している。

 これまでも何とかなったのだから、今回も何とかなるだろう。ならなくても死ぬだけさと、悟りにも似

た心構えが彼らにはある。

「これだけ広い湿原なのに、生物の気配がまったくしませんね」

 リーダー格の男がクワイエルに話しかけた。

 小さな生物から大きな動物まで、少なくともこの湿地帯には何も居なさそうだった。勿論、一見したく

らいでは解らないだけかもしれなかったが、生命の居るような気配がしないのは確かだ。

「ええ、何かがありますね」

 クワイエルは先ほどから注意深く魔力波を探っている。

 強大な存在であればあるほどその力を隠すのも巧みであるが、隠す為の手段には魔術を使うしかない。

だから結果的に相応の魔力を感じる事が出来る。

 大きすぎる力は、どうしても完全に消し去る事は出来ないものだ。人が山や海を隠せないように。

 しかしそれらしきモノも感知出来ないでいた。不自然な魔力は感じない。

 物質的にも魔力的にもまったくの静寂である。もしかしたら本当に、ここには誰も居ないのだろうか。

或いはどこかへ出かけているのだろうか。

 それにしても何かしらの痕跡が残っているはず、やはり良く解らない。

「進みましょう」

 クワイエルの言葉に皆は頷き、後は彼らの静寂の下に進んで行ったのだった。


 凍り付き、そして崩れるように溶け消える足跡が移動していく。

 相変わらず静寂に満ち、何者の影も見えない。だがこれだけの静寂が満ちるにはそれなりの理由がある

はずで、それが解らない以上、安易に気を抜く訳にはいかない。警戒を続ける。

 数時間程歩き続け、とうとう沼地まで辿り着いた。

 結果だけを見れば取り越し苦労、何も起こらなかった事になる。不思議と言えばこれ以上不思議な事は

ないが。こういう場所もあるのだと思えば、何となく納得できない事もない。

「どうしましょうか?」

 リーダー格が少し不安そうな面持ちでクワイエルを見やった。

 冒険者は危険と常に隣り合わせ。であるから逆に、こうして焦らされるように何事も起こらないと、か

えってそっちの方が不安に感じるものらしい。その面差しは常になく緊張している。

 他の仲間も同様で、口には出さないが、皆不審がっているのは確かなようだ。これを平和慣れしていな

いと言えば、冒険者とは不幸な職種だ、で終わるのだが。そんな簡単に済ませられる事だろうか。杞憂で

終わらせるには、少し怖い。

 中でも一番不審に思っているのが、他ならぬクワイエルである。

 彼は常におっとりと余裕があるように見えるが、本来は気の細かい男でもあり、周囲に絶えず気が狂う

程の注意を置いている。だからこそ彼が一番危険に気付きやすく、またその危険感知能力には皆が敬意を

払う程だ。

 彼の直感や危機感が、彼らを救った事は多い。

 しかしその彼でさえ、今もまったく危険を感じない。今はそれが怖ろしいくらいの恐怖となって圧し掛

かる。

 本来喜ばしい事が、こんなに危機感を感じる事になるとは、誰が想像出来ただろうか。知れずに冷や汗

が一滴流れ落ちた。

 何も無いはずがない。とすれば、感知さえ出来ない力が在る、そう考えるのが自然ではないだろうか。

以前フレースヴェルグの森で遭ったような力が。

「ともかく進むしかない・・・・ようですね」

 クワイエル達は時間をかけて、注意深く進んだ。

 すでに湿地帯を抜け、その源泉とも言える沼地帯に足を踏み入れている。足下を凍らせる魔術を消して

いないから、このまま沼を突っ切る事も可能であり、もし急いでいたならそれも考えただろうが、今は慎

重に沼の合間合間を抜けて行く事にした。

 眼前には大きな沼がいくつもあり、水源の豊富さが想像出来る。

 しかしもしこの場が造られた場だとしたら、何故わざわざこうして湿地や沼地まで作ったのか。こうし

た水場を好む存在なのだろうか。とすると水棲、半水棲生物のような存在だろうか。

 沼を迂回しながら暫く進むと、ようやく何者かの気配を感じ始めた。不思議な事だが彼らは少しほっと

する気持を味わった。

 沼の中に何かしら蠢く者が居る。移動しているのか、それとも木か何かが沈んでいるだけなのだろうか。

しかしどう考えても生物に見える。動きと水上の波紋がそれを示していた。

 大蛇、そういえば一番理解しやすいかもしれない。或いはウナギか、それに類する細長い生物。クワイ

エル達から見れば、その存在はそう言う風に見えたのである。

 その蠢きは暫くすると消えたが、よくよく見ていると、すぐに他の場所に潜って移動しただけだと解っ

た。それだけでなく、他の沼にも同様の現象が見えた。場所は一定していない、多数居るのだろうか。

 もし多数居るのであれば、少し安心出来る。何故なら、力の強い者ほど独りを好む傾向があるからだ。

 彼らはただそこに居るだけでも呆れるほどの魔力波を発する。垂れ流していると言ってもいい。だから

自然、力ある者同士は互いに干渉される事を嫌い、独りで住む事になる。多数で居ると落ち着かないのだ。

 その傾向から考えれば、これは喜ばしい現象だろう。

 とはいえ、この大蛇が人間よりも弱いとは言えない。このレムーヴァの大抵の生物は、人間よりも遥か

に強靭な身体と強大な能力を持っていた。あの鬼人でさえ、この大陸では弱者の部類に入る事を、まざま

ざと見せられてきている。

 人間などは力関係で言えば最底辺に位置するのだろう。弱者の頼みである個体数も、まだ少ない。

 この大蛇が知恵ある者ならばまだ良いが、もし単に人間の呼ぶ怪物という奴であったなら、クワイエル

達の命は儚く散る可能性が高い。

「一度退いて・・・・いや、ここは進みましょう」

 しかしクワイエルは暫く観察した結果、更に前進するという判断を下した。というよりも、大蛇達に敵

意があれば、今更退いても逃れられないと思ったのかもしれない。ようするに開き直りか。

「・・・・・・」

 仲間達は不安を顔に残しつつも、無言でしっかりと頷いた。信頼しているのだろう。




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