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 大蛇達を刺激しないよう、なるべく静かに移動している。しかしそれもどれ程効果があるのかは疑問だ。

 元々水中や地中に住む生物は音などの振動に敏感で、地上に住む者とは別個の感覚を持つ。そんな彼ら

の感覚を欺く事は難しい。

 それに今まで普通に歩いていたのだから、今更静かにした所で、意味が無いようにも思える。

 それでも自分の気を休める意味もあり、彼らは極力音を立てないように、さほど広くない沼と沼の合間

を通り抜けて行った。少しでも落ち着けるなら、何でも試したい。そのような心境なのだろう。

 沼地を半分程抜けただろうか、未だ大蛇達に変化は無い。

 興味が無いのか、それとも逃れられぬようにもっと奥まで進むのを待っているのだろうか。

 沼の水面が跳ね、蛇腹が水面をうねる度、クワイエル達の背に悪寒が走る。気のせいか、大蛇が大きく

なってきているようにも思える。体長が大きくなっていると言う事か、それとも蛇が彼らに近付いている

と言う事だろうか。

 どちらかと言えば、やはり体長が大きくなっていると思える。とすると、年老いた者、或いは強者ほど

奥の沼に住まうという、法のようなものが存在するのか。

 だとすれば、この先に居る何者か、または何かを彼らは護っているのかもしれない。或いは、彼らにと

って大切な場所であり、出来る限りその近くに居たいとでも願っているのだろうか。

 しかしそうなると、そこに近付こうとするクワイエル達に、何も干渉しようとはしないのはおかしい。

 それとも同族でなければ気にならないのだろうか。人間も彼らから見れば、落ち葉や草木と同等の存在

なのかもしれない。

 だが、いくら理由を考えても、どうにも納得出来ない。何故、大蛇達は何もしてこないのだろう。

「・・・逆に彼らが護られている可能性もありますか・・」

 クワイエルは一人考える。

 奥に居る存在が、この大蛇達を護っているのではないか、そう仮定してみたのだ。

 そうであれば、大蛇達が襲って来ない理由がはっきりする。大蛇達に干渉しようとしなければ、此処を

通り抜けるのも自由だと守護者が考えている可能性もあるし。単に大蛇達が守護者に寄生するように、勝

手に側に住み着いているという可能性もあった。

 だがしかし、自分の縄張りへの侵入者を許す者などが、この世界に居るのだろうか。

 それともクワイエル達などは、危機感を覚えるまでもない、卑小な存在だと言う事か。例え寝首をかか

れても、微塵の傷も付けられる事はないのだと。

 相変わらず危険を感じない。それだけに漠然とした不安が募り、心労だけが増していく。

 仲間達の顔にも疲労の色が見えた。

 これを別の場所で例えるなら、虎や獅子の群の中を、一人歩いているようなものだ。恐れない方が異常

だろうし、大蛇達に動きが見えないのが、逆にクワイエル達の精神を追い詰めている。

 勝手に自分を追い詰めていく瞬間ほど、怖ろしく、救いようの無い時は無い。妄想と不安感だけが肥大

していき、病にも似た現象、いや症状を人に起させる。

 じりじりと背中が焼きつくような恐怖感は抜けず、進む度に自ら強めてしまっていた。

 横の沼に目を向ければ、確かに先ほど見た蛇よりも、更に巨大な蛇が居る。うねる腹は禍々しい色彩を

帯びているようにも感じた。

 今は全てが悪く見える。

「・・・・・・・・・・・・・・」

 誰も声を発しない。まるで一言でも発せば、その瞬間に大蛇達が一挙に襲い掛かってくる、とでも思っ

ているかのように。

「ようやく抜けますね」

 しかしここでもクワイエルはそんな気分を無視し、平然と発言した。

 思わず一行の顔がひきつってしまうが、彼が気にしたようには思えない。いつも通りの当然の行動だと

言わんばかりの表情をしていた。

 彼も怖くない訳ではないはずだのに、どういう精神の構造をしているのだろう。或いは考え事に没頭す

る余り、そういう機微にまで気が回らなくなっているのだろうか。

 ピシャリと水面が大きく跳ねた。

「もう一息です。頑張りましょう」

 しかしそれすらもクワイエルは無視する。

 仲間達は気が抜けたような気がしたものの、不思議と気分は何処か楽になっていた。切羽詰り、自ら自

分の精神を追い詰める気分は止み、自然のままの風景を見えるようになった気がする。

 不安の薄れた目で見れば、どうと言う事はない。大蛇達も彼らを無視したままで、自分達の営みで忙し

そうだ。誰も自分達を害しようとは思ってはいない。

 まるで、呪縛から解かれたような気がした。 


 沼地を抜けると、水流の音が聴こえてきた。

 じっとりと空気は益々湿りを帯びており、呼吸をするだけで口中に水がたまるかのような気さえする。

 どれだけ水源が豊富だと言うのだろう。陸の上の海、そういう名称が相応しい。気温が涼しく快適だか

らまだ良いが、これで暑ければこの世の地獄だったろう。

 それだけの水が必要な種がこの場に居るのか。だとしたら、一体どのような生物だろう。

 もしや水そのものではないか。そんな考えが頭を過る。

 水源はまだ見えない。全てを覆い隠すように木々が繁り、通って来た湿地や沼地とはまた別世界が広が

っていた。誰かが造らなければ、おそらくこのような光景にはならないだろう。

 やはり此処には何者かが居る。

 クワイエル達はもう普通に歩き始めており、先のように音に過敏に反応したりはしない。先頭のクワイ

エルに続くように、良く言えば堂々、悪く言えば考えなしに、遠慮なく進んでいるようにも見える。

 開き直ったのかもしれない。

 此処には危機はない。例えあっても防げない。そうであれば、もう好きに進むしかない、と。

 進む毎に、最初は大木だった木が低くなり、今では丈の高い草へと変わっている。まるで成長の過程

を逆に辿るように、繁る植物が徐々に低く、小さくなっていった。

 空からこの場を見れば、木々がすり鉢状に生えているように見えるのだろう。とすれば、彼らは明らか

に中心に近付いている事を意味する。

 背丈程あった草も、今は膝丈程しかない。そして水源もはっきりと見えていた。

 果てしなく底が深く、それでいて怖ろしいほど澄み切った大きな湖が、そこには在ったのだ。


 クワイエルは湖に手を入れてみた。波紋が湖面を騒がして消える。

 ゆっくりと手を上げ、試しに指先を舐めてみた。

「・・・・塩辛い」

 その湖は木々に囲まれた中に在るはずなのに、何故か塩辛かった。海の水に近いが、かと言って海水そ

のものという感じではない。磯臭さがなく、喉に染みる程の辛味は無い。

 真水と海水が混ざっているのだろうか。

 表面上は解らなくても、地下で繋がっている可能性もある。

 と言う事は、これまで目にして来た植物は塩水に適応しているという事か。或いは一度蒸留して流して

いるのか。どちらにしても人間の常識では考えられない。正に別世界だ。

 それにしても深い。

 何処までも澄みきっているのに、それで尚湖底が見えないと言うのは、神秘さと恐怖を呼び起こさせる

に充分である。此処で人間達が生まれていれば、間違いなく神の住まう湖と呼ばれただろう。

 湖面は静かで、何者が現れる気配も無い。神秘的に澄み渡っているのみである。

「どうしましょうか」

 リーダー格が尋ねた。意外にも平穏で、彼も肩透かしをくらった格好になり、戸惑いを覚えているのだ

ろう。いつもなら、真っ先に付近を警戒し、罠がないか、危険はないかと調査し始めているはずだ。

「これ幸いと先に進む手もありますが、とりあえず休憩しましょうか。ここでなら襲われる事はないでし

ょうし。少し調べておきたいのです」

 仲間達は頷き、荷物を下してから腰を下す。

 地面も絶えず湿っているので、その辺の木々を折り、積み重ねる事でイスやシートの代用とした。

 この湖を詳しく調査したいところだが、潜るのは危険だろうし、どれだけ潜ったとしても果てに辿り着

けるかどうかは解らない。湖に沿ってぐるっと一周するくらいしか、出来る事はないかもしれない。

 暫く休んでみても、やはり何者も姿を現す事は無かった。

 ひょっとしたらクワイエル達の勘違いで、ここは何でも無い場所なのだろうか。

 どれだけ不自然な場所でも、たまには自然に生まれる事もあるだろう。しかしこの大陸でそのような考

えに至るのが危険である事は、今までの探索行で充分に承知している。

 この大陸では、偶然はありえないのだ。必ず理由があり、しかもその理由は常に何者かの意図が含まれ

ている。例外はない。

 だが結局そこで野営をし、翌日まで待っても、何かが起こる事は無かった。

 調べてみても埒が明かず。クワイエルは考えた後、この場を去り、先に周囲の環境を調べる事を決めた

のだった。

 湖面はいつまでも静かに澄んでいる。




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