5-6.

 半透明の膜に護られ、クワイエル達はまるで泡の中に居るように見える。

 四方八方気持悪いくらいに何処までも澄んでいる中、彼らは泡に護られながらゆっくりと沈んで行った。

 勢い良く飛び込んだというのに、水中にも水面にも驚くほど揺らぎが起こらない。

 あれだけの水量があったとしても、これだけ静かな湖ならば、多少なりとも水流が起きたり振動が伝わ

るものだと思うが。水は揺らぎもせず、水中は静寂に満ち、ただただ澄んでいた。

 もしかしたら、そのような魔力がかけられているのかもしれない。何が起こっても、それ以前の状態を

保つように。この水自体が結界だと考えられない事もない。

 何者が襲ってくる様子もなく、彼らは何処までも落ちた。沈んだ、よりもこの方が感覚としては合って

いると思う。底が見えず、しかも何処までも澄み、何処までも見える。そんな場所を下降していくと思え

ば、その速度がゆっくりであったとしても、落下していると感じる方がむしろ自然だろう。

 例えそれが錯覚だとしても。

「いつまで落ちるのか」

 戦士が身震いして呟く。

 彼も恐怖に似たものを覚えているのだろうか。確かにいくら冒険者稼業が長いと言っても、こんな場所

は彼も初めての経験だろうと思える。

 このレムーヴァはほぼ全て固有、特有のモノに満ちており、他の大陸ではまったく見られない現象ばか

り起こっている。

 未知ならば、慣れていないならば、恐怖を覚えても当然だろう。

 どれだけ経験を積んできたとしても、この大陸では皆赤子のようなものなのだ。全てが初めてで、全て

に喜びと恐怖が存在している。

「このまま落ちていて良いのでしょうか」

 エルナが問うた。

 しかし他の二人に答えを求めるかのように見詰められても、クワイエルにはどうしようもない。彼もこ

んな場所に来たのは初めてであり。

「ともかく休める内に体を休め、準備しておきましょう。何か起きてからでは遅い」

 そんな風に言うしかなかった。

 今は落ち続けるしかない。二人も頷き、取り合えず用意してきた蔓をお互いに結び付け始めた。

 これは当初、端の一方をクワイエルが持ち、もう一方を地上に結び付けておこうかと考えていたのだが。

しかしとても長さが足りないだろうと思い、何があっても三名が離れ離れにならないよう、お互いを結び

付けておくように使用法を変えた物だ。

 こうしておけば、例え水中に投げ出されたとしても、お互いが引き寄せ合う事が出来る。強度がどこま

で持つかは解らないが、水中でなら抵抗がかかる為、多少の事には耐えられるだろう。

 圧力を軽減する魔術を人や物には出来るだけ事前にかけてある。

 どれも気休め程度にしかならないけれど、無いよりは遥かに増しだった。それに、これで間に合わない

ような事態であれば、その時点で生還する手立ては無くなるだろう。

 人の力など、この大陸では無力でしかない。

「しかしどこまで深いのでしょう・・・・」

 クワイエルは湖に入ってから、ずっと下を見続けている。

 けれども、どれほど落ちてもまったく底が見えない。しかも今まで何の変化も見られなかった。生物も

植物も、その他一切の物がここには存在しないかのようだ。

 ただ水だけが在る。何処までも、果てしなく。

 最初は防衛の為にこの湖があるのかと思ったが、人間ですらこうも簡単に入れるとなると、その用は為

さないと考えられる。何せ人間の魔力は、この大陸の力関係では最底辺にあるだろうから。

「となると、単に水が好きなのか。それとも・・・・。やはり落ち続けるしかないか・・・」

 何かしっくりこない気分を味わいながら、三人共言葉少なに似たような事を考え、静かに落ちて行く。 


 どれくらい落ちたのか。

 状況はまったく変わらない。

 天から差す光はすでに消えてしまうくらい、それくらいに深く潜っているはずなのに。何故か周囲は飛

び込んだ時と同じくらいに明るく、やはり何処までも見通せるくらいに澄んでいた。

 これだけ何もかもが変わらないと、時間や距離の感覚が狂ってくる。一体自分たちは何処に居て、そし

て何処に向っているのか、何だか全てがぼやけて解らなくなってしまうような気がした。

 このまま永遠に落ち続けても、辿り着けない程深いのだろうか。

 それとも、ここは本来こういう場所なのだろうか。

 何も無く、ただ澄み渡り、果てしなくおかしな水で溢れ続ける。

 ただ水だけがあり、他には何も無い。何かあってはいけない。他の存在の進入は許されない。

 そんな考えを浮べながら、クワイエルは水下を見下ろし続ける。

「やはり、不自然です・・・」

 クワイエルの呟きに、他の二人も頷いた。

 誰が考えても、どこをどう言い繕ったとしても、やはりこれはおかしい。初めから自然に出来た場所だ

とは思わなかったが、いよいよ不自然さが際立ってきている。

 クワイエルは視線を天へと向けた。

「光量が変わっていない。それは即ち、我々が移動していないという事になります」

 何もかもが変わらないと言う事は、そういう理由だとしか考えられない。

 何処までも深く落ちていくようでいて、実は彼らは初めから最後までそこに居たのだと、そう考えるし

かない。

永遠というモノがあるとすれば、おそらくそういう事だろう。目的地が移動しているか、或いは自分が動

いていないか、その二つしか考えられない。

 そうなれば、この場合後者である可能性が強い。

 永遠に落ちるように思えて、実は永遠に同じ場所に居たのだと。

「絶対に辿り着けない以上、護る必要も拒む必要も無い、と言う事ですね」

 エルナが確認するかのように問い、クワイエルが頷き返した。

 この点もクワイエルの考えを補完している。この場を創り出した存在は、湖底にさえ来なければ、湖に

入られても構わないのだろう。

 戦士は思考に耽る二人とは別に、さきほどからじっと体を休めている。

 魔術の二文字が出た時点で思考を中断していたようだ。素人の自分が余計な事を言うと、多分彼らの邪

魔をしてしまう。要らぬ知恵なら無い方がいい。

 それなら自分の役割である力仕事を必要な時に全うする為に、今は休んでおいた方がいいだろう。これ

もまた協力するという事である。

「無理矢理行くか、それとも退くか。となると、・・・・おそらく私の魔力では手も足もでないでしょう

から、戻るしかないでしょうね」

「でも、簡単に帰してくれるでしょうか」

「それは・・・・、相手の目的によります。もし来させたくないだけなら、帰るのは自由なのでしょうが。

この場に捕らえるつもりなら、永遠にここに閉じ込められたままでしょう。その時は玉砕覚悟で進むしか

ありません」

 クワイエルは淡々と告げているが、流石に表情に曇りが見えた。

 彼としても、こうなってしまうと祈るしかないのだろう。相手の敵意がより少ないよう、それだけを祈

るしかない。力の差は歴然である。

「ともかく試します」

 クワイエルは瞑想するように、深く呼吸し始めた。他の二人は邪魔にならぬよう彼から離れ、静かに成

功を祈る。

「ラグ、ウルズ  ・・・・・  水流を、生ぜよ」

 詠唱が終わった。不解言葉は力を生み、解言語で現世に働く、はずだった。しかし何も起こらない。

 水は相変わらず揺らぎもせず、そこにただ澄んで在るのみ。

「うーん・・・・・」

 魔術自体が失敗したのは初めての事。心配そうに二人がクワイエルの顔を覗く。

「いや、失敗した訳ではないようです。そして何者かに妨害された訳でもない。しかし何も起こらない。

・・・・・ひょっとしたら、水自体に変化を与える事が出来ないのかもしれない。いや、変化しても変わ

ったように見えないだけなのか。

 とすれば、この場はいつまでも停滞、或いは永続し続ける。変えられない。少なくとも私の力では」

 悩んだ末、クワイエルは思いきり水中へと手を突き刺した。魔力で構成されているからだろう、膜が破

れる事は無かったが、あまりの事に他の二人は驚いて声も出せない。

「何て事をするんだ!」

 相手が彼でなければ、おそらくそう叫んだだろう。自身を護ってる膜を、わざわざ自分で破る馬鹿がど

こに居るのか。 

 しかし突き出した場所から水が入ってくる気配も無く。クワイエルは普段どおりの表情で、ゆっくりと

上下に、まるで羽ばたくかのように、手を動かし始めた。するとどうだろう、ゆっくりとだが彼らを包む

泡が上昇して行くではないか。

「さ、二人とも私の真似を」

 そう言いながら、彼はいつのまにか両手を突き出し、同じリズムで上下に動かしていた。

「は、はいッ」

 何となく彼のやりたい事を理解し、二人も丁度円周を三等分するように並び、同じように両手を水中に

突き刺し、ゆっくりと上下に動かし始めた。

 何も知らない者が見れば、腰を抜かすか大笑いしただろう。本人たちは必死だけれど、それはとてもと

てもおかしな光景であった。

 薄い泡から両手が三本だけ突き出され、それぞれがぱたぱたと扇子を扇ぐかのように上下に動いている。




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