1-3.逸らすな


 村はほぼ完成した。それは俺の思っていた通りの備えが出来たという意味で、今なら強盗団などに負け

はしない。俺が前線に出なくても、勝利できる。

 だが師が消えてからもう三ヶ月になる。今までにない長さだ。師を心配できるような資格が俺にはない

としても、やはり少し心配に思ってしまう。

 或いはこの不安は師がいない心細さなのかもしれない。つまり心配している相手は師ではなく、俺自身。

 そしてそれは別の不安を誘発する。

 もう二度とここへ帰って来ないんじゃないか、という不安だ。俺を捨て、師は新しい場所を見付けたの

ではないか。

 ありえない事ではない。人と人はいつかは別れる。師と弟子の関係もそうだ。だとすれば血生臭い別れ

にならないだけ、ましなのか。

 俺と師が、そんな事にならないだけ、運が良かったのだろうか。

 おかしな気分だ。以前なら師と離れる事など考えもしなかったのに。今ではむしろ居ない方が楽である

ような気がしている。

 俺は師を避けようと考えているのか。師以外に何も無い俺のような人間が、師と離れても良いと考えて

いる。これは師に対する冒瀆(ぼうとく)、自分自身の否定。

 おかしくなっているのかもしれない。今までならこんな事は思わなかった。それが師と離れている時間

が増える度、今の方が自然であるかのように感じている。

 俺は師から離れたいのか。師の所有物から抜け出したいのか。不遜にも、そんな事を考えているのか。

 思考は毒だ。捨て去りたい。捨て去りたいのに師が姿を消すと、むくりと頭の中で鎌首をもたげ、俺の

心を少しだけ支配する。

 いつの間にか育ってしまった感情が、俺を別の何かに変えようとしている。そんな風に思えた。

 このまま師と離れている時間が増えれば、完全にそれに呑まれてしまう。

 でも師は、もしかしたら師は、それこそを望んでいるのかもしれない。俺の心が師から離れ、一人の傭

兵になった時。師はきっと俺の前に立つ。師ではなく、銀豹として、刃持ちて俺の前に立つだろう。

 夢を見る。そんな夢を何度も見た。そして俺が一刀の下に切り伏せられた所でいつも目覚める。いや、

違う。俺は死にながら、愉しそうに哂う師の顔を見て恐怖し、目を覚ますのだ。まるでそれを否定するか

のように。

 夢の中で俺は、一体何度死んだだろう。

 だがこんな俺も、師の姿を一目見れば、今までの俺に戻る。師だけの炎に。

 きっと、そうなる筈だ。

 思考は毒。何も生みはしない。あるのは絶望と後悔だけ。穢(けが)れている。

 そこにあるのは絶望と後悔だけだ。

 俺は今、家々が燃え盛る中、血塗れになってそれを見ている。

 絶望と後悔。それは火の色をしていた。

 転がっているのは全て知った顔。幾度か世話になった娘、剣を教えた男、よく遊んだ子供、その母親と

父親、会えば必ず丁寧な挨拶をしてくれる老人、俺を恐れていた者達、慕ってくれた者達、誰もが死んで

いる。最早命すら無い。彼らは全てが死んでいる。死は何も変わらない。

 何故このような事になったのか。

 答えは簡単だ。一国の軍隊が攻めてきたからだ。

 強盗団などとは格が違う。専門的な訓練を積んだ兵士と傭兵。それらに通りがけの駄賃として略奪され、

敵に利用されないよう火を付けられた。戦時下によくある話。

 多分付近の村も同じ目に遭っている。これは災害のようなもの。逃れようがなく、防ぎようがない。

 俺もまた無力だ。必死で抵抗しても何も出来ず、全てを見捨てて逃げるしかなかった。

 そう、俺は逃げた。逃げるまでにどれだけ戦ったとしても、戦う相手が悪かったのだとしても、逃げた

事には変わりない。全てを見捨て、我が身可愛さに逃げたのだ。

 自分は師の物であるから死ぬ訳にはいかない、などという想いも無かった。俺は自分の命惜しさに逃げ、

この村で過ごした全ての時間を裏切った。

 今でも覚えている。あの目。俺に助けを乞う村人達の目。網膜に焼き付いて消えやしない。目を閉じれ

ば今もそこに居る。亡者となって俺を呪い続けている。

 幸せな時は全て燃え尽きた。形あるものは亡きものに変わるだろう。

 せめてもの救いは、皆灰になって静かに眠れるだろう事か。俺を恨みながら、心の底から憎しみを発し

ながら、この場所は静寂に還る。何もなかった始まりの場所に。そして終りなき心が、無限の罪過を生む

だろう。

 いや、もういい。もう止めよう。考えるのは止めよう。何も、何も、無いのだから。

 今はもう、全てが失われてしまった。

 俺がそれを、捨てたのだ。

 ここには何も無い。初めから、何もなかったのだ。


 俺の村を滅ぼした国の軍には銀豹が加わっていたらしい。

 師は結局帰っては来なかった。今も何処にも居ない。代わりに知ったのがその噂。

 これは師が村の場所を教え、滅ぼさせた、という事なのだろうか。

 でも何故そのような事を。

 意味が無い。そこには何の意味も無い。

 違う。意味は、意味はある。あるとすれば、・・・俺に。

 訓練なのか。処分しようとしたのか。或いは試したのか。

 この村を一国の軍が、例えその一部だとしても、攻めてくれば護りきれないのは解っていた事。師も村

をずっと見ていた。その力の程を良く知っている。俺がどうしようと、軍を跳ね除けられるような力が無

い事は、師が一番良く解っている。

 なら、何を試す。解っている事を試す必要は無い。とすれば、やはり俺を・・・。

 いや、そうではない。もし俺を殺すつもりなら、俺は生きてはいなかった。俺が上手く逃げ果(おお)

せたのは、師が俺を逃がしてくれたからだ。

 師が護ってくれたのか、兵に何か言い含めておいてくれたのかは解らないが。そうとでも考えなければ、

俺が今生きていられる理由が見付からない。

 それに師が本当に村の場所を教えたのだろうか。これはたまたまだったのかもしれない。たまたま発見

されて、師とは関係なく行われた。

 初めから師には関わりの無い事。

 でも一国の軍が何の当てもなくこんな場所まで来るだろうか。こんな場所に軍を派遣する理由も解らな

い。来て一体何をしようというのだ。この付近には小さな村しかない。そんなものを滅ぼす為だけに、国

が軍を動かすとは思えない。

 解らない。解るのは今もその軍が動き続けている事だけだ。

 そして俺は解らないままそれを追っている。

 自分でも何をしたいのか解らない。身体が自然に追っていく。もしかしたら師を求めているのかもしれ

ない。或いは逆に師を・・・。

 解らない。俺自身は何を、何をしたい。

 今までも、何をしていたのか。

 何をしたかったのか。

 解らない、何も。今となっては、何も。


 ようやく軍に追い付く。

 やけに速い軍だ。何を急いでいるのか、一人で進む俺と大差ない距離を進んでいく。よほど訓練されて

いるのだろう。

 だが例え小部隊に別れ、陣形や隊列より速度を優先させているとしても、これは異常だ。

 こんな強行軍がいつまでも持つ筈が無い。一体どこに向かっているのだろう。まさか目的地もなく行軍

しているとは思えないが。

 先頭を切るのは美しき銀の獣。まさか師が仕官したとは思えないから、おそらく傭兵部隊を預かってい

るのだろう。師の力なら容易い話だ。

 でも何故急ぐ。何かを追っているのか、それとも何かから逃げているのだろうか。

 逃げている。馬鹿な。銀豹が誰から逃げる必要がある。

 師に怖いものなどある筈が無い。絶望でさえ、師は快く哂うだろう。

 俺は一番後ろに居た一人を殺し、小隊に紛れ込んだ。

 このまま師に会えば、全てはっきりする。でも俺は動かない。

 何故俺は師に会わないのだろう。何故背後から師を窺うような真似を。これではまるで、師を・・・。

「見ない顔だね、あんた」

 一つの声が不意に貫く。

「知られる程の名じゃない」

「そういう意味じゃないんだけど。まあ、いいさ。誰にだって訳がある。ここに居る理由がね」

 俺と同じ赤い髪。声からすると女か。どちらにしても若い。細身の身体が美しく風になびいている。一

体いつからそこに居たのだろう。

「怖い目だね。でもそんな目、ここじゃあ意味無いよ」

 殺気が走る。俺はそいつの目を見ている事しかできなかった。

 ここで終るのだろうか。それもいい。何も知らないまま死んだとしても、今の俺にはお似合いだろう。

 もう何も無いのだ。俺からは何も取れはしない。ここで失われても同じ事。

 俺は覚悟し、黙ってそいつの目を見続けた。

 どこか師に似ている、美しい獣の目を。


 血を流す事には慣れている。痛い以上に熱い、あの独特の感覚。だがこの時俺を襲ったのはそれではな

かった。

 視界を真っ赤な血飛沫が覆う。俺はそれを浴びながらその目を見た。

 本物だ。さっきのような紛い物ではない。これこそが本当の獣の目。心の全てが凍りつく、何よりも美

しい獣の目。

 銀豹が哂っている。

 紅い女は無数に切り刻まれて地面に転がり、肉塊が幾度か跳ねた。その目は暗く、何も見ていない。口

だけが勝ち誇ったように笑っているのが、酷く残酷に見える。

「待っていたよ、炎」

 師が近付いてくる。狂気のままで。

「随分時間がかかった。それとも速かったのかな。お前はどちらだと思う、炎」

 優しい声。

 死を覚悟する暇すらない。

 しかし師は俺の横を通り過ぎ、哂いながら進んで行く。付いて来いという意味なのか。帰れという意味

なのか。それとも。

 全身に浴びた紅い汚れをこそぎ落とし、俺は師の後を追った。


 師は何も言わない。黙って進んで行く。その沈黙が今は痛い。

 そこに居るのは俺の知っている師ではないような気がした。何者でもない。誰かですらない。ただの獣。

美しい獣。その恐怖に見蕩(みと)れるしかない。

 獣は銀の髪をなびかせて、どこまでも進む。他人の声も気配もない。ここには誰も居ない。俺と師だけ

が在る。灯火のように。

「炎、何を考えている」

「師を」

「嘘だな。いつからそんな嘘を吐くようになった」

「嘘なんて。俺は嘘なんて」

「もしかしたら、初めからだったのかもしれないな」

 切り裂くような殺気が満ちる。俺は何度殺されればいい。何度死ねば開放してくれる。

 その時の俺は弟子ではなく、ただの獲物だった。心からそう思う。

 全身に震えが走り、離す事も出来ない。剣の柄を握る手も、きっと震えていた事だろう。そして場違

いな音を立てていたのだろう。

 俺には何も聴こえなかったが。

「いつからだろうな、そんな事を考え始めたのは」

「し、師・・・よ」

「喋らなくていい。お前は喋らなくていいんだ。ずっと、前から」

 何かが閃き、俺の上着を切り裂いた。

 師が剣先を向けている。それが解ったのは、随分後の事。

「私はお前を愛しているよ。だから待った。その時まで。きっとそうなのだろう。初めからそうだったの

かもしれない。だからこそ愛し、教えた。全てを、いや、違うな。何も教えていない。全てはこれからだ。

でも」

 剣が下ろされ、獣が迫ってくる。

「これからは、無くなってしまった」

 それを愛と呼ぶなら、確かに愛だったのだろう。


 獣がいとおしそうに撫で、絡ませてくる。

 もう時間を忘れる程に、まるでそれだけが時間であるかのように営んだというのに、師は飽きる事が無

いようだ。確かに師は、俺を愛しているのだろう。今も。

 俺もそれに応えようと、内に滾(たぎ)る全てを吐き出した。もう何も残っていない。

「私は何も変わっていない。だから求める。お前も何も変わらない。だから求めない。それでは駄目だ」

 師の目が俺を睨(にら)む。その目だけは終始殺意を帯びていた。今でならそれを思い出せる。

「まだ足りない。私の相手をするには、足りないのだ、お前は」

 師のほほを涙が伝う。そんなに俺を殺したかったのか。

 師よ。

「ああ、本当はここで終わる筈だったのに。お前はまだ足りはしない。あそこまでしたのに、炎。お前は

私を恨みさえしていない。何故だ。お前からは殺気どころか、闘う意志すら感じられない。ここまで私

が愛したのに、お前にはその意志がないのか。ああ、何故私はお前を殺せない。何故お前は私を・・・」

「あなたは。あなたは、俺に何を望んでいるんだ」

「何も。そう、何も。嘘かもしれないが、何も望んでいない。これは本能だ。だからまた会おう。その時

に。私はずっと待っている。きっと、きっとだ、炎」

 銀豹が姿を消した。どこにどれだけ居ようとも、もう俺には何も見えない。

 いや、違う。きっとその時に。一番最後の日、最後の時、最後の場所で、俺は師に出逢うのだろう。そ

して共に終わるのだ。それが師の望みならば。

 こみ上げてくる感情を、鳴く事でしか晴らせなかった俺は、きっと師以上に獣じみていた事だろう。


 俺は傭兵として独立し、炎狼と名乗った。それは師だけの、誓いの狼。

 俺の全てをその名に込める。

 師は自らが率いていた部隊を殺戮(さつりく)し、姿をくらましたそうだ。初めからそうする為に強行

軍させていたのかもしれない。その後の事は解らない。銀豹の名を聞く事はなくなった。おそらく全てを

捨ててしまったのだろう。最後のその時まで。

 最早俺の師、銀豹はいない。

 それは俺宛の遺言。

 師を雇っていた国は激怒し、師の首へ新たに多額の懸賞金をかけたが。それは無意味だ。銀豹なる人は

消えてしまった。

 俺はどうしようか。

 いや、悩む事はないのかもしれない。生きればいいのだ。結局俺は師だけの炎。それまでは孤独な炎狼。

その事に変わりはない。

 師は俺に足りないと言った。なら足りない何かを得なければならない。その時とする為に。

 それは師の所有物だからか。

 違う。俺が望むのは、きっと・・・。

 太陽が昇る。

 朝焼けに全ては蒼く輝き。包まれる俺もまた蒼い。  師はいつでも見付けてくれるだろう。俺という存在が満ちるのを、あなたはずっと待っている筈だ。

 どこからか。いつまでも。


 炎狼を名乗るようになってからは師の事を忘れ。俺のやり方で全てを通してきた。

 人はそれを師への反抗だと笑うが、それは違う。俺にとって師は尚聖域。犯すべからざる神聖な場所。

だから俺はそれに触れない。それだけの事。何も変わりはしない。変わってはならない。足りないものを、

見付けるまでは。

 だが俺は意図せず変化を遂げていた。物の見方、人の好み、今考えれば随分変わっている。腕も上がり、

名を馳せ、多少は知られるようにもなっていた。

 だが俺は炎。それだけは何も変わらない。傭兵のままだ。

 一人で歩き、一人で闘い、一人で決める。全てに背き、全てに捨てられた、一人の傭兵。

 だがそれすらも言い訳でしかないのか。

 そうかもしれない。俺がそれを認めたくないだけで。

 証明するように、弱さも変わっていない。思い出に浸り、師を求め、乞うている。

 闘い方もそうだ。知らず知らず師を求め、師の残影を追うように、俺は師に近付く。俺が剣を振るう度、

そこに師を感じた。

 一度はそれを消そうと思った。剣から師を消す事が、師へ近付く手段なのだと。

 しかしそれは無意味。無駄である。全ては無駄だ。師は聖域、手の届かぬ場所。消せる筈がない。それ

は失われる事無く、俺に在り続ける。俺の手の届かない場所で。

 だから師を知る者は、俺が炎である事を悟る。俺に師の姿を見、恐怖、或いは欲望を抱く。

 俺を殺せば、銀豹に近付けるのだと。

 そんなものは間違いだ。俺はことごとくそいつらを殺し、その事を証明してきた。

 敵が俺に師を見た時、そいつらに勝利はない。銀豹はそういう存在なのだ。その残影にさえ、近付けな

い。近付けさせない。決して、誰も。

 確かに俺には銀豹の一部が宿っていると言えるのかもしれない。最後の時、師は俺に全てを与え、そし

て他の何かになって姿を消した。

 師は望まなくとも、そうするしかなかったのか。

 ならば応えなければならない。全てを賭けて、それに応えなければ。


 十年が経つ。

 俺の知る師と同じ程度の歳になった。

 しかし遠く及ばない。炎狼、その名は銀豹の足元にも及ばない。俺の内に宿る銀の豹は、俺自身には何

も答えてくれないようだ。ただ在り続け、俺を生かし続ける。

 そんな生活に疲れてきたのか。ふと思う時がある。

 確かに十年は長かった。飽いた時がなかったとは言わない。

 それでも俺は守っている。その時を待ち焦がれて。

 眠りの時は必要ない。俺は今も誓いの狼。忘れてなどいない。

 しかし変化は訪れる。それは避けようの無い事。

 俺は師を裏切ったのだろうか。それとも師もまたそれを望んでいるのか。

 今でもそれは解らない。きっとその時にしか解らないのだろう。

 それとも、それはもう失われてしまったのか。俺と師の絆は、もしかしたら初めから無かったのかもし

れない。

 そう思う時がある。最後の時、師が俺を悟ったように。

 無いものは初めから存在しない。俺にも解っていた筈なのに。それでも変わりたくはないと思ってしま

う。それが俺と師の差。埋められない違い。

 俺は本当に銀豹を受け取ったのか。あの時全てを吐き出していたのは俺の方だった筈だ。師はただ受け

止め、悲しそうに俺を見ていた。

 全ては勘違いなのかもしれない。でも俺は・・・。

 俺にはそれしかない。他には何も無い。

 何が変わったとしても、俺は空虚だろう。

 消えてしまいたい程に。

 決意の十年。

 何かが変わり始めたとすれば。

 それは誰にとって幸せで、誰にとって不幸せだったのだろう。

 それとも全ては同じように、同じように無意味だったのか。

 それまでの俺のように。




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