2-1.赤の絆


 遠ざかる声が昔を思い出させる。

 それがいつで、どんな時だったのかは憶えていなかったが、それはどうでも良い事だった。

 確かにそれがあり、自分の中に根付いている事が解ればいい。

 要するに、それだけ多くの時間を経ているという事だ。

 炎狼、それがこの男の名。

 彼がそう名乗る経緯を知らなくとも、特に気にする必要は無い。それはただの呼び名であり、個体番号

のようなものだと考えていればいい。

 彼は赤き国に所属し、数々の戦果を挙げてきた。その名を知らない者は少ないが、それが正当な評価を

されたものであるのかまでは解らない。

 たまに一人一人に問うてみたくなるのが人間というものなのだろうが、この男はあまりそういう事に関

心は無いようだ。

 今も誰を待っているのか、何も考えない瞳のままで、何かを見下ろしている。

 いつものように。独りだけの場所で。

「ここに居たの。ずっと探したわ」

 美しい女が近付く。赤き髪、赤き目、赤き唇。解りやすい程に美しく、彼女のどこかに不満があるとす

れば、その解りやすさだろう。

 軽鎧を身に付けているが、その魅惑的な曲線を隠す事は出来ない。いや、敢えて隠さないように鎧を作

ってあると言うべきか。そうとでも思わなければ、彼女の姿はあざと過ぎる。

 女の名は陽炎。同じ炎の名を持つのは偶然ではないだろうが、詳細は解らない。全てはこの女の方にあ

る。いつもそうだ。そしてそうあるべきなのだろう。

 例え男がそれを望まなくとも。

 陽炎もまた傭兵、そして二人は契約している。

 傭兵同士の契約とは、一般に言う結婚に近い意味を持つ。

 共に闘い、共に目指し、共に死す。そういう意味と考えていい。

 一人の絶対的な味方。もしその誓いを破るような事があれば、その傭兵は二度と誰かを頼る事も、頼ら

れる事もできなくなるだろう。

 契約を破れば、その時点で傭兵にとって最も大事な名声を失う。

 それは傭兵にとっての死だ。

 ただの仕事。金を稼ぐ為、生きる為だけの仕事であっても、信頼というものは必要である。

 しかし一般に言う信頼とは少し違う。傭兵のそれは強さであり、契約なのだ。

 とはいえそれは永遠に続くものではない。その点は一般に言うものと似ている。

 二人が望めば破棄する事は可能だ。ただし一方の願いだけでは不可能。二人が同意し、その上でそれを

承認する者が最低一人は必要だ。

 結ぶのは簡単だが、破るのは難しい。こちらは一般に言うものとはむしろ逆。

 容易く破棄される結び付きなら、初めから契約を行う意味がなくなってしまう為、このように厳しいも

のになっているのだろう。

 契約した相手には自分の命を預ける事になるのだから、当然といえば当然だ。

 それを呪いと呼び変える傭兵も少なくない。

 一度結べば離れる事が出来ない、忌まわしい約束なのだと。

 多分それは当たっている。傭兵同士が契約を結ぶ。そこには呪いと同様の覚悟が必要である。

 師弟関係にも似ている。

 愛や情だけではなく、もっと現実的な必要性が関わっているという意味で。

「あなたはいつもそうね。契約したのは間違いだったかしら」

 陽炎は拗ねたような顔をしたが、炎狼は何も示さない。

 いつもそうだし、今もそうだ。

 二人は居るだけで目立つ。

 ここは赤き国。赤を崇拝する国。炎のような赤い髪は非常に尊ばれ、目を惹く。二人が相応に美しいと

いうのも、それを助長している。

 この国では赤いという事が重要だった。

「間違いだったとしても、俺はそう望んでいた」

「とてもそうは見えないわ」

「どう見ようとお前の勝手。だがそれはそう望んでいる、・・・今も」

 陽炎はその答えに満足したのか、諦めたのか、強張っていた表情を緩め、笑みを見せた。

「ま、このままの方が私にとっても、この国とっても・・・」

 沈黙は全てを物語る。

 後は触れ合うのみだ。

 二人は人目も気にせず、唇を触れ合わせた。

 或いはそれも、ごまかしだったのかもしれないが。



 炎狼は空虚さを抱えている、と思われている。誰からも。そして多分、自分自身でも。

 それは彼を見た時に抱く印象で、彼自身がそう語っている訳ではない。

 むしろ彼は何も語らない。語る必要がないとさえ考えている。

 いや、それさえ誰かの推測であり、彼自身の答えではない。

 つまり炎狼は、そういう人物とされている。

 陽炎の方は透き通った空のように人を惹き付け、それと同じだけ弄んだ、と思われているようだ。

 男は恐れつつも敬い。女は憧れつつも嫉妬する。

 彼女は傭兵であるという以上に女である。だからこそ一流なのだろう。

 彼女は思想に振り回されるような人間ではなく、そこが多くの傭兵に一目置かれている理由である。

 傭兵は全ての力を肯定する。腕力、知力、財力、魅力。そしてそれに付属する名声、悪名、どちらも尊

重する。

 善悪もまた一つの力に過ぎない。それは傭兵を決定付けるものではない、一つの要素。

 その中にあってさえ、炎狼の空虚さは独特の扱いを受けているのだ。

 沈黙、秘密という力。

 得ようとして得られるものではなく。欲しがって届くようなものでもない。あるべくしてあり、人の及

ぶ所ではない力。

 それが炎狼を特別な傭兵にさせている。彼が傭兵隊長の任に就き、その契約者である陽炎が副長の座に

就いたのも、当然と言えた。

 例えそこに何らかの意志があったとしても、人を納得させられるだけのものを持っている。

 勿論、それを認めない者も多く。その大部分は彼らの部下に居る。

 通常、傭兵隊員は隊長を認めない。例えそれに相応しくても、だからこそ認めない。

 何故なら、彼らにとって上に就く者は、全て追い落とす相手でしかないからだ。

 彼らが金を得る為には戦果を挙げる必要がある。そしてその事に最も多く関係すると思われる作戦行動

は、隊長の一存で決められる。

 皆が隊長になりたいと思うのは当然で、だからこそその地位に就く意味があった。

 隊員はいくらそれに不満でも、隊長の命に従わなければならない。

 もし命に逆らえば、戦果を挙げ難い場所に回されてしまう。

 隊長は絶対であり、決して認められない存在。最も憎く、最も敬うべき者。だからこそ隊長は常に居な

ければならない。

 これは自然な産物。

 自然ではない不満者には、派閥闘争の関係者が居る。

 こちらの数は少ないが、問題は大きい。

 傭兵とはいえ、所属する国と無関係ではいられない。そしてその中に住まう、或いは寄生する人間とも。

 将軍、高官、上司、どういう言い方でもいいが、彼らも人間である以上、好む者と好まない者が生まれ

る。そして不思議な事に、その好みは人によって違う。

 誰からも好かれている者も居なければ、誰からも嫌われている者も居ない。

 そしてその感情から自然に目をかける傭兵が生まれ、その傭兵は上官の人間関係を受け継ぐ。

 そして傭兵内にも派閥が生まれる。

 人間同士の関係は当人に止まらない。拡散し、近付く者全てに影響を与えるのである。

 炎狼と陽炎に不満を持つ者は少なくない。

 だが今の所は上手くやっている。そう見えるだけかも、しれないが。



「あなた、呼ばれているわ」

 事を終えた後、陽炎は少しだけ力の抜けた声でそう告げた。

 もう一晩は経っている、遅すぎはしないか。

「大丈夫。明日の話だから」

 炎狼は呆れたが、嫌いではなかった。こういう所は、何故か少し懐かしい。

「こうして全ては思い出に変わっていくのか」

「なあに」

「なんでもない」

 炎狼は唇を合わせ、もうこれきりだとでも言うように部屋の外へ出た。

 隊長に相応しく、彼には家をまるごと与えられている。それも傭兵に与えられるにしては立派過ぎる程

の建物で、人に自慢したとしても、不思議がられはしないだろう。

 隊長を退けば返さなくてはならないが、それまでは好きに使っていい。その時までに修復できるのなら、

全て壊してしまっても、問題はない。

 そういう事をした隊長は実際に居たし、今では何をしようと人は驚かない。彼らも慣れる。

 だから屋内を全裸で歩いていようとも、誰も何も言わない。使用人がそれなりの服を用意してくれ、勝

手に着せてくれるだけだろう。

 だが炎狼は多くの人間が同じ場所に住む事を嫌い。決して三人以上の人間を同時に入れる事は無かった。

家事も自分達で行う。或いは都合の良い誰かにさせている。

 相手には不自由しないし、それは陽炎も同じ事だ。そしてそれをお互いに責める事もない。二人はあく

までも仕事上の関係として契約している。それ以上の気持ちは無い。少なくとも、炎狼はそう思っている。

「服を脱がなければ良かった」

 朝はまだ冷える。どうせ着なければならないのなら、初めから脱がなければいい。何事も、そうするの

がいいのだ。



「呼んだ訳が解るかな」

 炎狼の眼前に聳(そび)え立つは赤き国随一の将軍にして策士。燃え立つように輝く紅い髪とその美貌、

そして透き通るように燃える目が非常に印象的だ。

 その目は誰かに似ていたが、炎狼がそれを思い出す事はなかった。

 彼女の名は紅(クレナイ)。その姿を表すのに最も相応しい名である。

 赤き国では将軍の中でも最も優れた者に、炎将という名を許すが。現在その名をこの紅が冠している。

 彼女は傭兵からその腕のみでここまで成り上がり、世界中の傭兵から畏敬の念と嫉妬を浴びせられる一

人になった。

 当然のように名門貴族なり、この国出身の者からは毛嫌いされているが。国民の人気は高く。その美貌

を持って数多の人間を篭絡(ろうらく)し、その地位は今の所磐石だと言われている。

 紅はその素性から傭兵への悪感情が薄く、傭兵を重く用いる事で知られている。

 おそらくそういう噂を流す事で、来る傭兵の質を上げようという狙いもあるのだろう。

 そうなると、傭兵部隊の所属は、自然とこの麗しき炎将に、という事になる。

「いえ」

「そう緊張するな。何も罰しようという訳ではない」

「ハッ」

「お前はいつも堅苦しいな」

「傭兵とはそのようなものです」

 炎狼はうそぶき、炎将は笑った。

 こういう所は何処か銀豹に似ている。だから嫌いなのだ。例え知らぬ仲ではないとしても、それは炎狼

が望んだものではない。忠誠を示す為であり、彼女に篭絡されたと彼女に思わせる事が、礼儀だと考えた

だけである。

「まあ、いいさ。実は、ちょっとした問題が起こってな」

 炎将は詰まらない話をした。

 東端の地に黒金(くろがね)という街がある。

 小さな街で、前線基地という意味合いが強く。兵舎や厩舎といった軍事施設以外には目立った建物がな

いという場所だ。

 赤き国と東に領を接する紫公国とは長く同盟関係にあり、婚姻も幾度か結んでいるという濃い間柄であ

る為、今では黒金に置いている兵数は少なく、前線基地にしては余りにも過小な戦力しかない。

 それを狙ってか黒金付近に近頃強盗団が出没するようになり、目障りな奴らをのさばらせまいと今度紫

公国と合同で討伐軍を出す事が決められた。

「つまり、その役目が私に課されたという訳だ」

 炎将は薄く笑う。それも何処か銀豹に似ていたが、しかし炎狼から見ればあまりにも違う笑顔だった。

 師の笑顔は、もっと・・・・。

「そして出向くのはお前という事さ」

「蛇の道は蛇という訳ですか」

「その通り。相応しい役割だろう」

「でしょうね」

「まあ、そう言うな。私はこの都から離れる訳にはいかない。偉くなれば色々と面倒な事があるからな。

それはお前もよく解っていると思う。だから信頼厚いお前に任せたいと、そういう事さ。お前と離れるの

は辛いが、お前は気が楽だろうな」

「・・・・・」

「いいさ、解っているよ。私は銀豹にはなれない」

「失礼します」

 苛立たしい気持ちになった炎狼は、話を切り上げるように踵を返した。

 それは紅の目が哀しそうに見えたからかもしれない。

 だが他人がその名を口にする事は、それ以上に許されない事だった。



 紅と銀豹。その間に何があったのかは知らない。何もなかったのかもしれないし、今となってはどうで

も良い事である。

 だが炎狼がこの国に仕官したのも、今のような地位に就いたのも、本をただせばその縁があったこそだ。

 師と別れてから、彼は生きる為にのみ生きてきた。その中で腕を磨き、それなりの名を得たが、紅に見

込まれなければ今の地位には居なかった筈だ。

 それが良かったのかどうかは解らない。だが生きる為の不安が減った事は確かだ。空腹や寝床の心配を

する必要がなくなり、戦死か病死以外の死に方を選べなくなっている。

 飼われた傭兵。国に属した傭兵をそう揶揄(やゆ)する者も居る。そしてそれは事実なのだろう。

 しかしそれでも構わない。再び師と逢うその時まで、生き続ける事だけが望み。

 今ではもう、それ以外の考えを失くしてしまっていた。彼の頭にあるのは生き残る事だけ。強くなる事

だけ。他のものはその為の手段に過ぎない。

 紅。傭兵隊長という立場。陽炎だってそうだ。

 ただの手段。それだけの事。

 そして紅や陽炎の方も同様である筈だ。彼女達も誰でも良かった。単に炎狼の赤き名と髪がこの赤き国

に相応しく、見た目も力量も悪くなかった。それだけの事に過ぎない。互いに利用しあうだけの、どこに

でもある普通の関係。

 だからそれはいい。でも銀豹の名を出される事は許されない事だ。

 自分以外の口からその名が出る事は、存在そのものへの侮辱に感じる。

 炎狼はそれが矛盾した考えであるとは考えていない。彼もまた当たり前の人間だからだ。

 そして苛立つのには、もう一つの理由がある。

「やはり、苦手なのだろうか」

 紅という存在は、彼を安心させない。

 そこに師を見るからか、師を自分から引きずり出されてしまうからか。

 彼女には確かに銀豹に共通する何かがあり。それは質としては全く違うものだったが、やはり同一のも

ので、炎狼を酷く戸惑わせる。

 いつまでも慣れない。苦手と言えば、そうなのかもしれない。

「この場所は、相応しくない」

 任務は任務。受けた以上、果たさなければならない。

 彼は傭兵だ。それは解っている。

 しかし今の自分は、あの時の自分が目指していた者ではない。そんな気がするのだ、いつも、どんな時

でも。



 紫公国との合同作戦という事で、こちらも万全の準備をする必要がある。

 不祥事があれば、全てに響く可能性があるからだ。

 炎狼は部下の中から半数を選りすぐって分け、自ら率いて行く事にした。紅が出ない以上、せめて傭兵

隊長である自分が出る事が礼儀である。

 陽炎も連れて行きたいところだが、半数を残しておく以上、それを見張る者が必要。紅もそこまで面倒

を見てくれない。彼女は命じる以上の協力はしない。

 だが正直一人で戦場に逝ける事はありがたく、気が楽でさえある。

 紅の言葉は当たっていた。

 紅も陽炎も居ないという事実は、彼を随分楽にさせる。

「嫌いなのかもしれないな」

 そんな風に思うこともある。

 しかしそれだけでは説明できない。その気持ちの上に、或いは裏に、何かがありそうな気がした。それ

を突き詰めて考えたくはなかったが。

 行軍は穏やかに進み。予定通り一月の後には黒金に到着している。

 急ぐ必要はなかった。紫公国が到着する頃に着けばいい。敢えて先に着く事も、後に着く事も、必要で

はなかった。炎狼は傭兵である。政治的な事を考える必要はない。

 そしてそうであるからこそ、炎将は傭兵部隊を行かせたのだろう。彼女にはいつも幾通りもの考えがあ

り、狙いがある。無数の陰謀があれば、いつもその中の一つは当たるという寸法だ。彼女が策士と言われ

る所以(ゆえん)である

 用意されていた場所に兵を収容し、炎狼はあてがわれた部屋で独り、月を見ている。

 明日には紫の将と会わなければならない。面倒で退屈な仕事だが、相手もそうだろう。ならば我慢して

もいい。お互いにそうしなければならないのなら、彼にも不満は無い。

 そう思う。

 しかし月は違うようだ。

「お前は何故に欠け、何故今満ちていないのか」

 まるで自分のようだと、炎狼は考える。

 もしかしたら師は、自分をそのように見ていたのかもしれないと。

 では今はどうだろう。十年経った自分は、師に相応しい炎になれているのだろうか。

 ゆるやかな風で月に雲がかかる。

 今は何も見えていない。



 紫将の到着が遅れている。どうやらあちらは政治を気にしなければならない身分らしい。たかが傭兵相

手にご苦労な事だと思うが、相手にとっては必要な事なのだろう。

 ならばそれでもいい。面倒なのは互いに変わらない。

 しかしただでさえ少なかった興味を完全に失した事は確かだ。

 炎狼は酷く厭世(えんせい)的な気分になり、全ての事が煩わしくなってきている。

 気分は乗らず。部下をどやしつける気も起こらない。例え今何か不祥事を起こしたとしても、咎(とが)

める気にはなれなかった。

 むしろそれを望む自分が居る。

 しかしどちらにせよ、それは無意味な考えであったのかもしれない。咎められるのは部下ではなく、炎

狼の方であったのだから。




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