2-2.回帰、常に辿り着く場所へ


 発端は下らない事からだった。あまりにもありふれた事で、語る気もしない。

 炎狼の部下と紫将の部下との間で一悶着があり、その結果炎の部下が紫の部下を殺巣事になった。

 勿論、ただで済む問題ではない。炎狼の部下はすぐに逃げ、すぐに追っ手を差し向けたが、どういう事

か逃がしてしまった。

 つまり、一番簡単な解決方法を逃したのだ。

 これは政治的な問題である。

 解決するには犠牲が必要だったが、それに一番相応しい人間を逃がしてしまった。

 炎狼では対処できなくなり、炎将が直々に来て采配を取る事が決まった。

 炎将は紫将をいつも通り篭絡し、その情を得たが、それでも不問にさせる事までは出来なかった。

 紫公国にも紫公国の意地がある。体面がある。紫将もそれを無視する事は出来ない。

 誰かが処罰されなければならなかった。責任を被せ、殺さなければならない。

 そうなると炎将は躊躇(ちゅうちょ)しない。炎狼の解任と斬首を決定し、すぐさま実行させている。

 紫将は面目を保たれ、後を炎将に任して紫公国へと戻って行った。自分の面目さえ保たれれば、後はど

うなろうと知った事ではない。面倒な事は誰かに任せておけばいい。

 部下の一人が殺されようと、紫将には初めからどうという事もない。そこに犠牲となる者が、責任を全

て引き受ける生贄さえあればいい。

 全ては儀式であり、それ以上のものではなかった。

 人の心など、儀式の前では虚しいもの。

 それが初めから存在しない感傷であったとすれば尚更の事。

 炎狼は怠惰な気分に浸っている訳にはいかなくなった。

 全てを捨て、一人逃げる。命が惜しければ、逃げるしかない。

 炎将はすぐさま追っ手の数を増やし、腕利きの傭兵に現場指揮を任せた。

 腕利きの傭兵とは、陽炎の事だ。

 陽炎に炎狼を殺させる事で、忠誠を確かめるという意味合いもあるのかもしれない。

 実に合理的で、彼女らしいやり方。

 陽炎もまた、当たり前にそれを受け容れる。

 契約しているとはいえ、炎狼は犯罪者。犯罪者からは全ての権利が剥奪されるのがこの世界の掟(おき

て)。

 それが冤罪(えんざい)だろうと関係ない。犯罪者と認定されれば、その時点で全ての権利を失う。

 所有権、生存権、保障、契約、そのようなものの一切が無に帰される。

 全ての関係は断たれ、唯独りの罪人として、敵からも味方からも追われる。それが犯罪者のあるべき姿

であり、その罪に与えられるに相応しい罰なのだ。

 全てが敵になる。その時まで笑顔で話していた親友が、愛を交わした相手が、長く過ごしてきた家族が、

その瞬間から牙を剥いて襲い掛かってくる。それが今の炎狼の立場。

 逃げる準備はほとんど出来なかった。

 金も少ない。持ち物も少ない。食べる物、飲む物すらほとんど無い。

 そして何より辛い事に、一切の協力を得られない。

 衛兵、番兵、そういった奴らが街中を飛び回り、逃げも隠れも出来なくなる。

 彼らの情報伝達速度は驚くほど速かった。それもまた炎将の力を物語る。赤き国において、彼女に逆ら

う事など不可能。

 勿論、彼女から逃れる事も。

 炎狼は追い詰められ、逃げ場所を失った。

 船、馬、行商人、あらゆる移動手段を考えた。しかしそのどれもが動かない。すでに押えられている。

 炎将は充分な準備をした上で、炎狼の処分を命じたのだ。手抜かりがある訳が無い。

 前から後ろから、全ての道を追っ手が塞ぐ。

 炎狼に出来たのは、民衆に紛れながら見付からないよう祈り、震えている事だけ。

 そして頼みの民衆さえ追い散らされる。

 全ての道は途絶え、炎狼は程無く見付かった。

 眼前には陽炎の姿。

「こうなるとは思わなかったけど」

 彼女が一歩、また一歩と炎狼へ近付く。

 圧力に押し潰されそうになり、彼女の敵となった事をはっきりと知らされた。

 陽炎は迷わない。そこが炎将に似ている。いずれ彼女も炎将になるのかもしれない。

 その為にも、炎狼は邪魔だったのか。

 それとも、こんな事にならなければ、上手くやっていけたのか。

 今となっては、永遠に解らない。

 考える時間も与えられない。

 炎狼の思いを無視し、最後の一歩が踏みしめられる。

 来る。

「仕方ないわよね。これが、そうだから」

 陽炎の手から光が伸びた。

 それが刃の輝きであると気付く頃には、炎狼の身体は貫かれているだろう。

 炎狼は覚悟した。しかし諦めはしなかった。

 血桜が咲く時にさえ、生き残る道は残されている。

 銀豹は決して誰にも、追い詰められはしない。

 それを継ぐ者も、そうだ。

「・・・・そういうとこ、嫌いだわ」

 陽炎の手から剣がこぼれ、代わりに一条の血が流れている。

 今光を帯びているのは、炎狼の放ちし刃。銀色に瞬き、全てを平伏させる。

「前は、好きだったけど!」

 陽炎の逆の手が光放つ。

 細長く光る刃が伸び、炎狼を喰らった。

 しかし炎狼の刃が銀に瞬く度にそれらは落ち。

 神速で放たれた剣が、全ての光を打ち消した。

 陽炎の腕は十の刃で打たれたようにずたずたに斬り裂かれ、とめどなく血が溢れ出す。

 だが致命傷ではない。

 それに陽炎はどちらの腕でも殺せるだけの力量がある。

 彼女にはまだ余裕があった。

「流石ね。でももう無理よ。誰も彼女には敵わない。例え、銀の獣でも」

 陽炎の手が上がり、兵が動く。

 すでに何重にも巻かれ、何処にも逃げ場は無くなっていた。

 その為の時間稼ぎだったのだろう。

 兵の全てを相手にしていれば、炎狼の力はいずれ尽きる。

 そして炎将が現れ、無慈悲に殺されるのだろう。

 紛い物の銀では、決して彼女に勝てはしない。

 少なくとも、今のままでは。

 例え、その刃が確かに銀に輝いているとしても。

 紛い物は、紛い物。

 炎将も銀豹の敵ではない。しかし紛い物では、話が違う。

 炎狼は彼女の掌の上に居る。未だ逃げ出せていない。このままでは、いつまでも勝てはしないだろう。

 目算を誤っていた事に気付く。

 炎将は彼よりしたたかで、彼が思っていた以上に銀豹を知っている。

 愚かだったのだ。全てを見誤った。

 気付けたのは死の手前。

 未熟。その言葉が重く圧し掛かる。

 死が、迫ってくる。

「・・・くッ!」

 認めたくないように、数人を斬った。しかし包囲は確実に縮む。何も変わらない。

 周囲を窺う。どの顔も強張っているが、恐怖してはいない。勝てるからだろう。炎将が、彼らには付い

ている。それは絶対的な差だった。

 炎狼は死を想う。

 しかしそれは意味の無い想い。決して遂げられてはならない想い。

 師がそこに居ない以上、死へ導かれる事は許されない。

 例え、炎狼が炎将に及ばないとしても。

 行こう。

 行ける場所は一つだけだ。

 そこは人が行けない場所。

 今なら、行けるかもしれない。

 彼だけが気付いている。

 その一つだけの優位が、彼を助けるだろう。

 炎狼は上に飛んだ。

 そして握る。

 差し伸べられていた手を。

 はっきりと彼は見た。

 その手は美しく。

 銀の獣に似ていた。



 いつまでも、どこまでも走り続けた。

 気の遠くなる昔。こうして手を取って逃げ出した記憶がある。

 それが誰だったのか、どういう意味があったのかは思い出せないが。

 きっと、何かの意味はあったのだろう。

 人である限り、意味無く走る事は許されない。

 そう教えられたのはいつだったか。

 思い出せない。

 しかし思い出す必要はなかった。

 その手が酷く懐かしかった事。それだけが今の全て。

 それだけで良かった。

「ここまでくれば、大丈夫。きっと、大丈夫だから」

 小さな手。先程よりも小さな手がそこにある。

 まじまじと見ていると、その顔が僅かに赤く、美しく揺れた。

「そんなに、変かな。私の手」

「いや、綺麗な。綺麗な手だと思う」

 少女と女の間、花開く前の蕾のような人が、そこで笑っている。

 どちらかと言えば、少女と呼ぼう。

 その顔に見覚えはなかった。

 でも懐かしさがある。きっとどこかで見た顔に、彼女の顔が似ているのだろう。

 思い出せなくても、懐かしさはある。

「ありがとう。助けてくれて」

「違うわ。貴方が、私を、助けるの」

 炎狼は呆然として少女を見た。

「行くの。私と。私の行く場所へ」

「意味が解らない」

「解る必要なんてないわ。ただ私が貴方の恩人ってだけ」

 この出会いが良かったのか、悪かったのか、考える前に。

「行こう。こっち」

 少女は走り出し、炎狼は自然とその後を追う形になる。

 ゆっくりと聞いているような時間はなかった。

 追っ手がまだ下に居る。陽炎もそこで牙を剥いているだろう。

 炎狼の喉に、突き立てる為に。

 それだけが今の彼女を支えている。

 一対一、真剣勝負で負けたのだ。炎狼を殺さなければ、彼女は独りで立っていられなくなる。

 傭兵は名を尊ぶ。誰であろうと、自分を負かせた相手は殺さなければならない。

 覚悟は炎となり、実体となってその身に宿る。

 自分が焼き尽くされる前に、殺さなければならない。

 どちらでもいい。どちらかを殺さなければ、終わらない。

 炎狼は逃げる必要がある。

 時間も迫っていた。

 だから逃げた。当ても先も、見えないままで。

 少女の着ていた服だけが、彼を誘い、惑わせる。

 その中に咲く、銀の花が、散らされる時を、待っていたからか。

 炎狼の目は、そればかりを追っていた。



 炎狼と少女は屋根伝いに逃げた後、入り組んだ路地を進み、用意されていた馬車に乗ると、そのまま街

を出た。

 その馬車は驚く事に紫公国の使者が使う馬車で、揉め事があったせいだろう、ほとんど赤き国の警備兵

にも呼び止められず、外に出る事ができている。

 馬車には少女の仲間が数人同席していた。

 他にも多くの仲間が居るらしい。

 炎狼を助けたのも偶然ではなく、彼女達の仲間に入れる為に、炎狼が罪を被ると知るとすぐに行動を起

こして、逃亡の準備を整えて待っていたのだとか。

 炎狼がどう逃げるかも解っていたのだろう。

 人の考える逃げ道はいつも似ている。予測しようと思えば、出来るのだろう。

 偶然通りがかって、偶然少女の心が動き、偶然助けられた。という事ではない。

 初めからそうだろうと思ってはいたが、それでもそれを知ると少しがっかりした気分になる。

 情けないと思いつつも、自分にも人間らしい部分があったのかと、少しだけ炎狼はおかしかった。

「このまま紫公国まで向かう。その後支部へ行き、衣服を着替える」

「支部って言うか、廃屋を勝手に使っているだけなんだけどね」

「切咲、無駄口を叩くのは止せ」

「良いじゃん、減るもんじゃなし」

「口にすれば減る」

「へーへ、解りましたよ。堅いっていうか、妙なこだわりがあんだからなあ」

 手綱を握る男、気楽そうな男、今共に居る少女の仲間はこの二人だけだ。

 気楽そうな男は切咲(キリサキ)と呼ばれていたが、手綱を握っている方は何も解らない。

 誰も彼の事を自分からは口にしようとしないし。彼も彼自身の事を語らない。解るのは随分落ち着きが

あって、どうやら指揮する立場にあるという事だ。

 二人とも一般的な旅人の姿をしている。武器も持っているが、仰々しい物ではない。使者という立場に

ありながら、武器の一つも持っていないのはおかしいので、仕方なく形だけ持っている、というように。

 どれ程の力量があるのか、ないのか、知らないが。少なくとも見た事のある顔ではない。傭兵ではない

のだろう。

 それとも、炎狼が知らない遠方の国の傭兵だろうか。

 仲間も居るのだとしたら、多分何らかの組織に入っている筈だが、よく解らない。彼らの言っている事

が全て本当かどうかも解らないし、炎狼には判断できるものが何もなかった。

 まあでも、それはいい。もう飛び込んでしまったのだから、今更何を言っても無意味だろう。

 しかしこの少女が加わっているという事には違和感がある。

 少女と初めて会った時、黒い外套(がいとう)を着ていたが、それも今は脱ぎ、中に着ていた赤い服が

はっきりと見えている。

 一応彼女達は諜報員というのか、工作員というのか、隠密要員なのだろうに、こんな目立つ姿をしてい

る事もおかしい。

 欺(あざむ)く為だろうか。

 こんな姿をしている工作員が居る筈はない。だから敢えてしている。

 或いは赤き国だからか。

 だがいくら赤を尊重している国とはいえ、全身赤というのは珍しい。こんな格好で歩き回っていたら、

かえって怪しまれてしまうだろう。

 炎狼はそう思ったが、この少女にはそういう事を口に出来ない雰囲気がある。

 邪気が無いというのか、はっきり言えば馬鹿に見えるというのか、頼りないからこそ許される何かがあ

る。炎狼もそれには逆らえそうにない。

 少女の愛くるしい表情を見ていると、考えるのが馬鹿馬鹿しくなってくる。

 もしかしたらその為にこそこの少女が居るのかもしれないが、そうだとしてもどうでも良い事だった。

今更、今更だ。全てはその言葉に集約される。

 炎狼の道は定まってしまっていた。

「こうして、また流されていくのか」

 炎狼は疲れた目で、少女の顔を見ていた。

 少女の方は見られる事に慣れているのか、気にした様子は見えない。

 馬車は揺れながら、快速で進む。

 御者の腕と馬が良いのだろう。

 やはり只者ではない。



 紫公国の支部で馬車と衣服を変えると、来た道を引き返して黒金方面へ向かい、それから赤き国を通っ

て、西方にある蒼き国を目指す事になった。

 警備は厳重で、赤き国内もすでに炎狼が逃亡した事が知られているのか、騒がしい。

 だが少女達は慣れているのか、特に問題も無く入り、抜けて行く。

 こうも簡単に抜けられるのなら、警備なんかに意味があるのだろうか。

 そんな事を炎狼が考えていると。

「厳重な警備という形を繕うとね。皆安心するんだよ。例え、誰も見付からなくてもね」

 切咲が見透かしたように言う。

「そんなものなのか」

「あんただって、解ってんだろ」

「かもしれないな」

「あんた、あいつに似ているよ」

 手綱を握っている男を指差す。

 そういえば切咲以外の二人の名前を今も知らない。

 隠しているのなら、切咲も偽名かもしれない。そう思ってみると、確かに胡散臭い名前だ。

 何か意味があるのだろうか、それとも。

「ま、ちょっとした秘密があるんだけどね。でもそれだけじゃない。もしかしたら、あんたの事、助けよ

うとしているのかも」

「誰が」

「炎将って人」

「まさか」

「いーや、解んないよ。案外ああいう女程、情が強いからね。人は見かけによらないさ。あんたの奥さん

だって、簡単にあんたを捨てたじゃん。あんなに仲良かったのにさ。大体、あんたもあんたで・・・」

「切咲」

「おっと、喋りすぎたね。ごめん、ごめん」

 手綱男が制止した。

 しかしそれもまたわざとらしい。止めるならもっと前でも良かった筈だ。それでも止めなかったという

事は、炎狼に知らせたい情報だったのかもしれない。

 という事は、まさか。

「いや、まさかな」

 炎狼は口を閉じ、狭い車内に横になって、体を休めた。

 何処まで行くのか、そこに何の目的があるのかは知らないが。体を休めて気力を充実させておけば、何

があっても対応出来るだろう。

 炎狼は今までそうしてきた。

 これからも、そうするだろう。

 例えそれが気休めに過ぎなかったとしても。



 蒼き国に入ると、少女達はよく外に出るようになった。

 これまではほとんど馬車の中で生活していたが、今は車内に居る事の方が少ない。

 炎狼も誘って来たほどだから、よっぽど安全に自信があるのだろう。

 確かにこんな場所まで手配書が来るとは考えられず、例え来てもそんなに真剣に動くとは思えないが、

あまりにも無防備過ぎないか。

 一度少女に問うてみると。

「心配性ね。だから駄目なのよ。もっと楽しく生きないと駄目よ、折角生きてるんだから」

 愛くるしい表情でそう答えられると、何も言えない。

 自分が追われている身だという事を、忘れそうになる。

 炎狼は不思議な気分だった。

 でも悪くない。

 こんな気分も、良いのかもしれない。

 いつもいつも考えては揉み消され、無視されるしかなかった思考。そんなものは、もう捨てるべきなの

かもしれない。

「ありがとう」

 炎狼は少女と散歩する事に決めた。

 別に何かを期待した訳ではない。お礼のつもりだった。



 歩く場所は、全て賑やかだ。

 蒼き国の東端にある街、時雨(しぐれ)。

 通り雨が多い事から付いた名らしい。いい加減な名前だが、実際、ここは雨が良く降る。そしてすぐに

上がる。

 理由は解らない。

 まるでこの少女のようだ。

「わたしはね、久住。久しく住むって書いてクスミ。良い名前でしょ。でもわたし旅ばかりでずっと住ん

だ事はないの。おかしいでしょ」

「教えてよかったのか」

「何を」

「名前」

「ああ、そっか。でも知らないと、不便でしょ」

「確かに」

 久住の言葉を聞いていると、全ての事がどうでもよくなってくる。この子の力は、師に匹敵するのかも

しれない。そんな事を思う。

 そしてそう思うと、炎狼は背筋が凍えてくるのを感じた。

「あの慎重な御者さんは海雲。水が一杯ある海に、空に浮いている雲でウミクモ。面白い名前でしょ」

 久住は笑う。その笑顔に邪気がない。引き込まれそうになる。

 炎狼はそれを堪(こら)えるのに随分苦労した。

 どうやら危機は去っていないらしい。

 もしかしたら、もっと危険な場所に居るのかもしれない。

 でも同じ事だ。そこがどんな場所だろうと、生きていられるのならそれでいい。

 生きていられさえすれば、希望は繋がる。

 それだけでもいい。

 最後の時の為にやらなければならない事は、炎狼が考えていたよりも多そうだった。

 溜息を吐き、空を見上げる。

 暗い雲が積もっている。雨が来るのだろう。

 この雨も海から来ているのだろうか。

 なら海は一体、どこから来ているのだろう。




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