2-10.欲望


 自らが自らでなくなっていく感触を味わいながら。

 炎狼はしかし何も見失ってはいなかった。

 初めから何も見ていなかったからかもしれない。

 部下達は従順に彼の命に服し。

 表面上は何も問題ないように見える。

 何かあった時、使えるだろう材料も暗部によって常に集めさせている。

 どこで何が起ころうと対処できる自信もあった。

 それでも尚、その上を行くのが不運であったとしても。

 だからこそ、怠らない、常に。

 そんな炎狼の働きに炎将は満足し、褒美を与えた。

 浅緋である。

 覇気も何もなく、絶望に全てを焼き、抜け殻のようになっていたそれ。

 しかしそこに炎将が幾らかの生気を注入し、心に火を点けた事で、女としては十分に役立つようになっ

ている。

 彼女に自らを注ぎ続ける事で手駒にし、副官として使えという意味だろう。

 それは炎狼の全てを手中にしたいという願望の現れでもある。

 炎狼が誰に手を出そうと、彼女は文句を言わない。

 しかしその相手は常に炎将の息のかかった者である事が望ましい。

 炎将の影響を強く受けた者、つまり分身に肩代わりさせる事で自分との繋がりを途切らせない。

 常に炎狼と繋がる事を欲し、その為に実行している。

 それを彼女自身は認めたくないかもしれないが。

 炎狼には理解できた。

 そういう考えは師に似ている。

 だから嫌悪する。

 どこまでも師を真似ようとする厚かましさに。

 だが表面上は大人しく受け容れる。

 今はまだ、その時ではないのだから。

 浅緋を常に傍に置き、しばらくはその心を取る事に専念した。

 いくら炎将に篭絡(ろうらく)されていても、快楽など一時の迷いのようなもの。

 繋ぎ止め続けるには、与え続ける必要がある。

 愛などどこにも存在しない。

 それを信じたいからその言葉を呟(つぶや)くのであって。

 それがつまり、存在しない事の証明である。

 人が甘くささやいているような感情は、どこにも存在しない。

 人間は誰しもそれをようく知っている。

 認めたくないだけで。

 その為に、生きるかのように。

 だから激しいのだろう。

 新たな火を浅緋に入れるのにも、さほど時間は要らなかった。

 彼女の中の炎将を全て抜き取る事はできないし、そんな事をすれば炎将を警戒させてしまう事になるだ

けだから、炎狼の方により重きを持たせるように努める。

 同じまやかしを、より濃く与えるのだ。

 一度転んでいるのだから、もう一度転ばせるのは容易い事だった。

 炎狼にはいざという時に裏切らない部下がどうしても必要。

 その心が浅緋に自分が必要とされているのだという錯覚を生み出し、よりよく支配させる事にも繋がる。

 全ては合理的に。

 必要であるが故になされる。

 だからこそそれは成される。

 彼はそうでなければならない。

 師がそうであったように。

 いや、彼の師はそれ以上か。

 自分以外の何もかも、全ては道具である。

 だからこそ使い方が難しい。

 全てに使い道があるが、その一つ一つを見出すのには相応の時間が必要。

 炎狼はそれを見付けるという点ではまだまだ未熟だったが。

 浅緋一人を取り込むくらいなら、簡単な事だった。

 そしておそらくその事を炎将も理解している。

 その上で渡したのは、彼女の自信か、それともやはり逆らって欲しいからだろうか。

 望むなら、そうしてやってもいい。

 だが掌の上でいくら逆らおうとも同じ事。

 炎将は何一つ満足しないだろう。

 それを炎将自身、理解できていないからこそ。

 彼女はいつまでも師に及ばない。

 誰もその代わりを務める事など、できはしない。



 傭兵隊の命令権は実質炎狼に在る。

 彼は副長ですらないが。

 自前の軍隊を持ち、傭兵隊副長である陽炎を顧問にしている。

 隊員も役に立ちそうな者はすでに自軍に入れるか、手懐けている。

 炎将の名の下にそれを行えば、逆らおうとする者はいなかった。

 傭兵の中に炎将の怖さを知らない者はいない。

 現隊長である茜も炎狼の干渉に対して何も言わなかった。

 おそらく炎将が何らかの不快さを感じない限り、彼女は何も言わないのだろう。

 隊長就任が形だけのものに過ぎない事を、彼女自身ようく知っている。

 だが全てが変わっていく中で一人だけ変わらない者が居る。

 陽炎だ。

 彼女だけは置き捨てられたかのように、炎将にさえ顧みられていない。

 それでも大人しく服しているのは炎将を恐れるからか、それとも他に理由があるからか。

 その理由が自分だと考える程、炎狼は甘くない。

 必ず現実的な理由がある筈だと考える。

 自分の存在意義を売り払っても構わないと思えるだけの現実的な理由が。

 詳細に調査させてみると、背後に紫公国の影を見た。

 考えてみれば簡単な事。

 炎狼が赤き国から逃亡せざるを得なくなった事件。

 あの時、紫公国の人間を殺した炎狼の元部下はあっさりと逃亡に成功しているが。

 冷静に考えると、そんな事ができる訳がない。

 確かにそれを追うのに炎狼だけでは無理だろう。

 そこに間違いはない。

 一時の遅れが、全ての可能性を摘んでしまう。

 そういう事もよくある。

 だが炎狼の背後には炎将が居た。

 彼女からどうして逃げられるだろう。

 そんな事ができるなら、炎狼は今ここに居なかった。

 部下が逃げられた事も、炎狼が逃げられた事も、全ては炎将の承知の上であったと考える方が自然。

 そしてそれを行うのには、紫公国の協力も必要になる。

 どこにでも生贄(いけにえ)にしたい、しても構わない人間がいる。

 紫公国が何らかの取引に応じたとしても、不自然はない。

 当然傭兵隊の側にも協力者が必要だ。

 それが陽炎だと考えるのに、何も不都合な理由は無い。

 おそらくは紫公国の手先であり、炎将の部下でもある。

 そういう役目を演じながら、誰かの為、もしくは自分の為に都合の良いように動いている。

 炎将が信頼する傭兵隊長の失脚。紫にとって悪くない話だ。

 そしてそれを炎将が知らない筈はない。

 知っていて生かしているのだから、より炎将に近い側か。

 或いは、紫と知りながら利用する為に泳がせてきたのだろう。

 そう考えると、陽炎が炎狼と契約した段階から全て炎将の命だとも考えられる。

 これなら陽炎が従順に従い。

 憎んでいるべき炎狼の首を狙ってこない事にも納得できる。

 しかしならば何故、陽炎の待遇を悪くさせるのか。

 炎狼に陽炎の役割を悟らせる為だろうか。

 そうする事で炎狼が知るずっと前から、お前は自分の手の中にいたのだと知らしめたい。

 或いは影はいつまでも影にいろという脅し、いや、忠告か。

 後者は退屈だが、前者なら師の考えそうな手かもしれない。

 だが炎狼はそれを不愉快には感じなかった。

 何故なら、銀豹ならそんな事を考えても、決して実行はしないからだ。

 彼の師はとても嫉妬深く、独占欲の強い人間。

 他の人間と契約を結ばせる事など、死んでもやらせない。

 実行しようとしても、すぐに気が変わり、それを命じた人間を、自らの嫉妬の為に殺すだろう。

 やはり師ではない。

 炎狼は心から彼女らを蔑(さげす)んだ。

 彼女らは銀豹の影にもなれない。

 だから師は炎将の前に姿を現さないのだ。

 そしてその程度の人間に使われるしかない炎狼は、更に惨めで、不必要な人間。

 解るには充分な理由だろう。

「その為か」

 炎将などという紛い物が生きていられるのは、炎狼を鍛えさせる為かもしれない。

 全ては自分の為に用意された。

 不思議とそんな気がしてくる。

 炎狼は師の掌の上の炎将の、そのまた掌の上に居る。

 それを理解させられる事は、奇妙に気分の良い事だった。

 師はそうでなければならない。



 炎狼は陽炎を意識するようになった。

 元契約者としてではなく。

 そうするに足る手駒の一つだと。

 それは炎将の動きを量る事にも繋がる。

 彼女が蒼き国とも繋がっているのだとすれば。

 紫公国と蒼き国、どちらに利があるかは言うまでもない。

 それに紫公国とは長い付き合いだけに様々な問題を抱えている。

 正直、赤き国としては紫公国の存在が疎(うと)ましくなってきている。

 要らないとは言わないが、他に代わりがあるのなら換えてしまいたい。

 その程度には考え始めていた。

 そこにあの事件。

 うやむやのまま。

 炎狼は炎将の下に戻り、将軍位まで得た。

 それらを考え合わせれば、答えは自ずと出てくる。

 ここまで材料が揃えば、誰にでも理解できる。

 だからそれを悟る事は前提に過ぎない。

 本題はそこからだ。

 炎狼に何を望んでいるのか。

 何をすれば良いのか。

 そしてどうすればその上を行けるのか。

 師の掌の上に達する事ができるのか。

 考えなければならない事は山ほどある。

 揃えなければならない。

 今度は炎狼が師の僕(しもべ)として動けるだけの。

 あらゆる条件を。

 炎将もまたそう望んでいるのなら。

 そうしてやろう。

 そして師の為に命を使い尽くせばいい。

 彼女にできるのはそれだけだ。

 師の為に、存在の全てを捧げればいい。

 炎狼は暗い喜びを感じていた。

 不思議と悪くない悦びだった。

 それが自虐めいた悦びだったせいかもしれない。



 一つ確認しておきたい事がある。

 陽炎がどれだけどちら側なのかという事だ。

 赤か紫なのか、それともそのどちらでもないのか。

 これは重要な問題。

 しかし本当はどちらでも良い事なのかもしれない。

 それがどちら側であっても、やらせる事は同じ。

 であるなら、結局どちらであっても同じ事ではないのか。

 炎狼は思う。

 人間を利用するのに前提条件があってはならない。

 零にする事が一番良いが、それができないなら少しでも少ない方がいい。

 つまりそれが何であっても、そうするだろう状態を作り出す。

 秒刻みの堅苦しいものではなく、もっとおおらかに、いくらでも修正できるような幅を持たせておかな

ければならない。

 そうしなければ、必ず失敗する。

 予定通りにいく事など、現実には一つとして無いのだから。

 誰も完全にはそれを読みきれないのだと、理解しなければならない。

 少なくとも、炎狼や炎将には不可能だ。

 炎将が優れている点があるとすればそこだった。

 彼女は自分の限界を知っていて、それを考え、いつも無理なく計画を立てている。

 だから成功する。

 その間にどんな要素が挟まれようとも。

 何者が要らぬ横槍を入れてこようとも。

 結局はそうなるという計画。

 それが炎将の強みとなる力。

 炎狼はどうか。

 そこまでの力は無い。

 それは結局彼女にいいように使われている事からも解る。

 炎狼は炎将の掌から抜け出せていない。

 あがいてもあがいても抜け出せず。

 流されるままに従ってきた。

 そんな怠惰な生き方でも生きていられたのは、裏にいつも炎将が居たからだ。

 彼女が裏で常に助けてきた。

 それを自分の力、或いは炎将以外の力だと考えていた彼は、どうしようもない愚か者だった。

 それを自分で否定できない事が、何よりも辛い。

 いや、違う。

 自分が師以外の誰かに動かされていた事に、我慢ならなかった。

 しかしもう悟ったからには、要らぬ苛立ちの為に隙を作ったりはしない。

 それもまた炎将の掌だとしても。

 出発点に立てた事には変わりない。

 同じなのだ。

 そこにどんな感情、どんな過程があったとしても。

 結局は同じ。

 だからそれはそれでいい。

 そしてそれが弱みでもある。

 結局最後は同じなのであれば、そこにある意図を読み易い。

 それにその人間の意思を読めるという事も、その人間を操る事と同じではない。

 ただ読めるだけだ。それだけに過ぎない。

 幅が大きいという事は、それだけの幅を必要とする事は。

 つまり、無能の証明である。

 自分にはできないのだと、言っているに等しい。

 もしそこに気付いていないのであれば、気付いていても本当には理解できていないのだとしたら、炎狼

の付け入る隙はいくらでもありそうだ。

 そう、炎将もまた炎狼や陽炎と同じ、限界ある人間でしかない。

 それははっきりしている。


 炎狼は陽炎を紫公国との境にある黒金へ常駐させる事にした。

 因縁の地でもあり、炎狼が取る手としてはおかしくない。

 皆復讐と危険回避の為だと思うだろう。

 不遇にしている事もあって、傍に居させるのは危険。

 遠くへ飛ばすしかない。

 なら炎狼が逃亡する事になった黒金に。

 これは大いなる皮肉。大いなる悦び。

 人が暗い悦びを得るには充分な理由であり、だからこそ誰もが納得する。

 単純だからだ。

 それが他人事ならば、尚更に。

 その上紫公国に圧力を加える事にもなる。

 副長が行くとなれば、相応の兵を付けているからだ。

 不祥事があった為、より一層の治安向上を意図する。

 という風に紫には伝えているが、それが言い訳に過ぎない事は誰にでも解る。

 紫公国は早速炎将に宛てて抗議の書簡を送ったようだが。炎将は考慮する、とだけを言い、実際は無視

した。

 紫公国は怒りを抱いたが、他国が自分の領土に誰をどう送ったとして、文句の言える筋合いはない。

 それに治安が低下しているのは事実。

 黒金から喜びの声が挙がった。

 賊討伐は炎狼の事でうやむやになり、それ以降話が出る事もなかった。

 元々それが炎将の意図した所であるなら、当然だが。

 もしかしたら次の手の為に、盗賊団などを放っておいたのかもしれない。

 だとすれば、よほど神経質な性質であるらしい。

 用意周到というよりは、そこまでしなくては安心できないのだと考えられる。

 今までの事を振り返れば、それが正解だろうと思われた。

 そこが彼女の限界。

 だがそれは炎将自身も理解している事。

 油断せず、じっくりいくべきだ。

 一つ一つしっかりと積み重ねていく必要がある。

 上記の事もまた、その一つ。

 彼女を知る事は、悪くない。

 それに今はまだその範疇(はんちゅう)に居る必要がある。

 炎将の力に、炎狼は及ばない。

 それを忘れてはならない。

 彼女の好む油断を突き。

 望むままに蹂躙(じゅうりん)してやるには。

 相応の時間が必要。




BACKEXITNEXT