2-9.純粋なる策謀


 真赭が音を上げるのは早かった。

 彼は当然のように浅緋に言い寄ったが、すげなくあしらわれ、失意と共に炎将に篭絡されたのである。

 浅緋は代わりの女をあてがいさえしなかったらしい。

 確かに待遇は悪くなかったが、結局禁欲させられるのなら同じ事。

 真赭が憂さを晴らせるものは何もなく、窒息から逃れるように音を上げた。

 読み通り、というよりは、不幸中の幸い、といった所か。

 もう少し浅緋が融通の利く性格だったらなら、真赭を篭絡する事は困難だった。

 欲望を満たされた真赭は満足し、炎将に対し従順に跪(ひざまず)く。

 しかし表面上は浅緋に従っている。

 勿論、蘇芳の部下であるままで。

 複雑な関係を結んでいるが、整理していけば単純だ。

 こうして決着はつき、暫くは平穏に過ぎていくように見えたのだが、蘇芳も馬鹿ではない。

 真赭の態度の変化を、側に居るだけに敏感に感じ取り、真赭を見張らせている監視役の言葉によって、

その疑惑を確信へと変えた。

 勿論、監視役も炎将側に寝返っている。

 そして蘇芳は不愉快な真赭の浮気相手を知る。

 浅緋だ。

 蘇芳は当然のように激昂(げっこう)した。

 こうなれば体面など関係ない。

 激情を欲望に変え、散々にぶつけた。だが真赭もそのままではいられない。隙を見て逃げた。

 逃げれば当然浅緋の許に身を寄せる。

 浅緋も頼ってきた者にまですげなくする事はできない。

 そこまでしてしまうと、今後誰にも頼られなくなる危険がある。

 今彼女に味方している者も、考えを改めるかもしれない。

 頼むに足らない者なら、膝を屈する理由にならない。

 それにこういう展開を考えていない訳ではなかった。

 対処法も考えてある。

 殺した後蘇芳に引き渡す。

 できれば無傷で返したいが、そうなると真赭は不必要な事まで吐いてしまうかもしれない。

 殺した事で蘇芳の印象は悪くなるだろうが、真赭を手元に置いたままの方が危険である。

 死ねば過去として過ぎ去ってくれるが、生きていれば未来までずっと危険性と共に居なければならない。

 真赭を引き渡しさえすれば、例えそれが骸(むくろ)であっても、争いの口実を作らずに済む。

 後戻りできない今、それだけが最善の選択だった。

 しかし真赭も馬鹿ではない。それを悟り、その前に自分の価値を知らしめた。

 情報である。

 彼は蘇芳の弱点から秘密まで、何でも知っているらしい。

 そして証としてその中の一つを浅緋に教えた。

 その情報は浅緋にとって驚く程有用で、もしかしたら蘇芳と炎将を出し抜く事さえできるかもしれない

ものだった。

 勿論、炎将の入れ知恵である。そんな都合のいいものが、ある訳がない。

 だが蘇芳の弱点、秘密は本当だった。真赭は蘇芳の最も近くに居た者、深い所まで関与している。

 いざという時の為に、売れる情報を集めてもいた。

 真赭がその気になりさえすれば、蘇芳の口を割らせる事も難しくない。

 浅緋は一転して全面的に真赭を庇(かば)う。

 蘇芳は真赭の口を早く封じたい。

 結果、その仲は険悪を通り越して、敵対的なものになった。

 これこそが炎将の狙い。

 だからこそ真赭を深く篭絡して、面倒な役回りを押し付けた。

 浅緋は炎将を出し抜いた事で得意になり、獲物は得てからの方が厄介だという事、例え一時勝利しても、

それが最終的な勝利であるとは限らない事、などを忘れ。

 蘇芳の方も真赭に対する嫉妬に追われ、冷静な判断力を失くしている。

 本来の蘇芳なら、そこに炎将の影を見て取った筈だが。怒りに我を忘れ、浅緋への復讐で頭が一杯にな

っている。

 それは、女にしてやられた、という感情があるからだろう。

 蘇芳にとって女とは不浄なる者。そこにいるだけで許し難い存在。ましてや自分が敗れるなどと、あっ

てはならない事である。

 不思議な事に、いやそうなった者が大抵そうであるように。

 蘇芳は真赭の愛情を疑っていなかった。

 浅緋に騙されているのだ、と信じたい心もあったのだろう。

 それが浅緋への怒りを益々燃え立たせ、積極的な行動を起こさせた。

 女への敗北。

 それだけは何よりも雪がねばならない恥であり、最も大きな罪だったのである。

 浅緋は怯えるしかない。

 純粋に軍事力で争えば、彼女が蘇芳に勝てる理由は無い。

 それは火を見るよりも明らかで、だからこそ蘇芳も動こうとする事に迷わなかったとも弁護できる。

 しかし怯えはしたものの、絶望する必要はなかった。

 真赭が付いているからである。

 彼の握る秘密を上手く利用すれば、そして軍を彼に任せれば、五分以上に戦い、堂々と勝つ事も夢では

ない。

 ただし問題もある。

 炎将の事だ。

 蘇芳に決定的な一撃を浴びせる事ができたとしても、それによって疲弊した所を突かれては堪らない。

 だからこそ今まで三者の間で均衡がとられてきたのだ。

 それは今も崩れていない。

 蘇芳がその気になっている以上、そして浅緋にもそれを受ける覚悟がある以上、最早争いは避けられな

いが。

 だからこそ手を打っておかなければならない。

 そこで浅緋が目をつけたのは、炎狼である。

 茜でも陽炎でもなく、炎狼。

 彼女も炎狼が元傭兵隊長である事。その地位から追放され、命まで狙われた事を知っている。

 それでも密かに手元に呼び寄せた。

 これはそれだけこの男が有用かつ炎将にとって重要な人物であるという事だろう。

 そう、真赭の件で味をしめた浅緋は、炎狼という炎将にとっての真赭に当たる人物を手中にする事で、

同様の効果を期待したのである。

 この辺、炎将を毛嫌いしている割に、やる事は似ている。

 だからこそ憎むのだろう。自分と同じ方法で優位に立つ彼女を。

 それは明らかなのに、浅緋はどうしても認めなくないらしい。

 そしてそうであるからこそ、炎将よりも自分の方が優れていると考えているようだ。

 しかしそれは甘えであり、自惚れでしかない。

 彼女が恵まれた立場に居たからこそ考えられた事で、不愉快な余裕を感じさせる。

 浅緋の世界には彼女しかいない。

 だから永遠に解らない。

 真赭の事もそうだ。

 単に利さえちらつかせれば尻尾を振って寄ってくると平気で考えている。

 単純な利だけで動くなら、真赭が蘇芳を裏切る理由はないのに、それさえ彼女には解らないらしい。

 浅緋は愚かだ。

 しかし三強の一人として君臨してきた。

 それは何故だろう。

 炎狼はその理由を悟る。

 これはおそらく炎将の策なのだ。

 浅緋は有能だが愚かである。

 それなのにその立場に居られたのは、今こうして炎将に利用される為だったのだろう。

 そう考えれば全ての事に説明がつく。

 全ては初めから蘇芳だけを意識して行われた事。

 炎将と蘇芳、その間に浅緋を置く事で、均衡を取らせる役目を与え。

 自らの失策に気付かないまま勢力を肥大させる事で、手頃な駒へと仕立てあげた。

 結局は彼女も炎将の影に過ぎず、その為に用意されただけの道具でしかない。

 おそらく彼女の今までの成功の裏にも、常にとは言わないが、炎将の助けがあり、だからこそこの程度

の心で今の地位にまでのし上がる事ができたのだ。

 炎狼は同情しなかった。

 当たり前の事を思い知らされただけである。

 自分もまた、そうであると。

 いや、炎将に関わる者は皆そうだ。

 最終的には彼女に利用される為に在る。

 その為の援助も愛情も惜しまないが、それは本心からのものではない。

 炎狼を再び彼女の中に組み入れたのも、最初から計算の内にあった。

 しかし何故だろう。

 何故炎狼だけが、もう一度なのだ。

 彼の役割は一度終わった。

 今暗部に引き立てているのも、どこか無理矢理という感じが否めない。

 愛か。

 いや違う。

 師だ。

 炎狼の中に僅(わず)かに見える銀の閃光に彼女は惹かれている。

 そして恐れている。

 いや違う。

 恐れているのは師だ。

 おそらく師の存在だけが、唯一炎将がどうにもできないもの。

 だからそれに対抗する為に。

 或いは腹いせの為に。

 炎狼を飼おうと思ったのだろう。

 それは屈折した愛と捉えられなくもない。

 勿論、師への。

 結局は師だ。

 皆、銀の獣に魅入られている。

 そしていつまでも、その下でもがいている。

 少しでも獣に愛されようと。

 無意味な努力を続けながら。

 認めたくないと叫び続けて。

 炎狼がそう思いたいだけなのかもしれないが。



 蘇芳と浅緋の決裂は全面的な抗争へと発展した。

 そして蘇芳が宣戦布告し、浅緋が応じる形で、軍事力を用いたものへと終着する。

 他の者は巻き添えにならないようひっそりと息を潜(ひそ)めた。

 それは王ですら例外ではない。

 炎将が王にそう助言したようだが、そうしなくても王は何もしなかっただろう。

 王とは名ばかりとは言わないでも、それに限りなく近い所にある。

 本来なら家臣の私闘に目をつぶる事など、君主として信じられない話だが。

 それがまかり通る事が、この国の実情を表している。

 赤き国を代表する二者が戦うのだ。

 この争いは長く続き、民や派閥外の者にも甚大な被害を及ぼす事になるだろうと予想された。

 しかし結果として言えば、これは呆気なく終わっている。

 浅緋が当てにしていた真赭の裏切り。

 もっと正確に言えば、真赭が蘇芳を裏切らなかった事、で決まったのだ。

 まともに争えば浅緋が蘇芳に勝てる理由はない。

 しかし真赭を篭絡させたと思う事で、浅緋は勝利を見た。

 全てはその上に立ち。

 その上で考えられた事なので。

 前提条件となるそれが起こらなければ。

 全ては瓦解する。

 こんな単純な事にも浅緋は気が付かなかった。

 いや、気付きたくなかったのかもしれない。

 愚かだが、それが人間だとも言える。

 真赭は蘇芳からの嫌疑を晴らすような働きを見せ。

 蘇芳に前線から下げられてはいたものの。

 目覚しい活躍をした。

 おそらくその裏には炎将の助力がある。

 蘇芳は結果さえ良ければ過程を気にしない男だ。

 例え自分の意にそぐわない事をしても。

 それが蘇芳にとって良い結果をもたらしたのなら、褒め称える。

 だからこそ蘇芳の軍は強く、我がままで。

 一兵卒に至るまで士気が高い。

 男色趣味さえなければ、万人に崇められる存在だと言えなくもない。

 偉大な武人の前に、浅緋など物の数ではなかった。

 その兵も初めから蘇芳軍への恐怖心が多く。

 戦う前から敗北していた。

 呆気なく勝敗が決まり、浅緋は蘇芳に隷属する立場になった。

 公的にはあくまでも私闘の上の話で。

 浅緋の立場や肩書きが変わった訳ではないが。

 負けた以上、浅緋には自尊権を失う。

 ひたすらに蘇芳に尽くし、それだけが評価される存在。

 いや、ただの所有物と言っていい。

 そこから逃れるには自害するしかないのだが。

 浅緋は最後まで真赭という希望を捨てなかったのか。

 それとも怖かったのか。

 自分を救う事ができなかった。

 幸運にもそれをする事が出来た者は、待ち受ける残酷な運命に蹂躙(じゅうりん)されずに済んだ。

 しかしそれは少数で、多くの者は蘇芳軍の所有する物となり、散々な運命を辿る。

 命が助かっただけまし。

 生きてるからこそ苦しい。

 他人の心には相反する二つの意見が浮かんだが。

 そんなものは当事者には何の役にも立たない。

 それがどちらであれ。

 今の状況は何一つ変わらない。

 浅緋閥に女性が多く。

 蘇芳が極端な女嫌いであった事もその運命をより過酷になものとした。

 公の時間、将軍として勤務する時は今までのままだが。

 私の時間、勤務外の時間では、浅緋は蘇芳に絨毯(じゅうたん)として使われているとか。

 椅子や机として使われているのだとか。

 実(まこと)しやかに囁(ささや)かれている。

 女の肉体に興味がないのだとすれば、それも無い話ではないのかもしれない。

 酷い話だが、自業自得でもある。

 炎狼も誰も同情などはしなかった。

 ただ哀れんだだけである。

 明日はわが身かもしれないと。

 それだけを恐怖した。

 彼女達個人に関する情など誰も持ち得ない。

 浅緋はその他人に対する限り発生する潔癖さのせいで、大抵の者から嫌われていた。

 それもまた炎将の望んだ結果なのだろう。

 結局彼女は炎将の為に生き、彼女の為に落ちる所まで落ちた。

 しかしただ一人、彼女に手を差し伸べた者がいる。

 炎将だ。

 どしようもなく惨めな目にあわせ。

 心が完全に砕け散った頃を見計らい。

 炎将は浅緋を高級な家具と交換した。

 蘇芳も浅緋などという家具には飽きてきている。

 始めは女を考えられる限り惨めな目に合わせ、心からの満足を得ていたのだが。

 結局肉体に興味がない以上、いつまでも持続していられる感情ではない。

 その女が欲しいと思えばこそ、愛しもし、憎みもできる。

 初めから要らないのであれば、飽きるのは早い。

 蘇芳には別の楽しみもある。

 浅緋は必要ではなかった。

 真赭が戻ってきたのだ。彼はとても機嫌がいい。

 安値で浅緋を売ったのも、その機嫌の良さがあったからだろう。

 しかしそれも長くはなかった。

 炎将が真赭が自分に言い寄ってきた事。

 本当はあの時裏切るつもりだったが、何とか自分がそれを抑えさせた事。

 などをそれとなく知らせてやると、蘇芳はその感情をどうしようもなく爆発させた。

 勿論、それらしい証拠も添えている。

 それを用意したのが炎狼なのだから、間違いはない。

 蘇芳は機嫌が良くなっていた分、尚の事怒り。

 真赭の言い訳など無視して、激情のままに斬って捨てた。

 二度目の愛は信じられなかったらしい。

 こうして炎将は証拠を消し、蘇芳の戦力を減少させ、最も有能な部下を失わせる事に成功したのである。

 蘇芳の部下達の間に、真赭に同情的な雰囲気を作り出す事も忘れていない。

 部下から蘇芳に対する信頼。

 蘇芳から部下に対する信頼。

 どちらも地に落ち、彼らは互いに互いを疑い、憎む事になるだろう。

 こうなればもう蘇芳など怖くはない。

 名実共に、炎将が赤き国随一の将になった。

 王も喜び、自らの安泰にほっとした様子である。

 このように真なる敵は、いつも生き残る。



 炎狼はその働きを高く評価され、将軍の一人に迎え入れられた。

 浅緋がその地位を退き、代わりに炎狼を推薦した為である。

 浅緋閥はもうあってないようなものであるし。

 今更首を変えてもどうにもならないが。

 居さえすれば、何かの役には立つ。

 それに将軍就任は炎狼に対する格好の褒美であり、傭兵達に対して希望を持たせる事にも繋がる。

 一石二鳥だと考えたのだろう。

 勿論、暗部の長という私的な立場は変わらない。

 つまり炎将は、自分の私兵に公的な軍事権を与えたのである。

 それだけ炎狼を買っているという事か。

 いや、違う。

 そうすればより役に立つからそうしただけ。

 真相はそんな所だろう。

 その証拠に。

 炎狼が現在握っている軍は、寄せ集め、敗残のかすに過ぎない。

 流石に蘇芳も私闘で国家の兵を損失する事は避けたかったのか。

 思っていたよりも生き延びている数は多いが。

 どれもこれも大した能力はない。

 逆に言えば、生かしておいても差し支えないから、生きていられたのだ。

 炎狼の背後に炎将が居る事を知っているから、表面上は従っているが。

 心服しているような者もまず居ない。

 心体共に最低の兵だ。

 そこで炎狼がやった事は。

 いや命じられた事は。

 炎将がやっているのと同じ事。

 つまり主だった者を篭絡し、足りない者を補充する事である。

 その方法は炎将自身が手取り足取り教えてくれたから、不足はない。

 炎狼は順調に組織を掌握していった。

 暗部の者も協力してくれたから、案外楽だったようだ。

 足りない者は、主に傭兵から抜擢(ばってき)した。

 陽炎にも軍事顧問の名を与えている。

 もっともこれは名前ばかりの名誉職でしかなく。

 お前は要らないのだ、と烙印(らくいん)を押されたにも等しい。

 陽炎に対する挑発行為かと思えたが。

 そこに炎将のどのような意図があれ。

 炎狼自身には関係のない事。

 炎将が絶対的な敵にでもならない限り、親密な関係を続けていた方がやりやすい。

 受け容れるだけだ。

 それとも、炎将はたまには自分に逆らって欲しかったのだろうか。

 そうかもしれない。

 だからこそ陽炎をわざわざ持ち出した。

 しかしそれもまたどうでもいい事だった。

 陽炎とは遠い昔に終わった。

 いや、初めから始まってさえいなかったのかもしれない。

 終わっても、そうでなくても、興味を持ち、執着する必要のない物。

 全ては終わり無く。

 だからこそ始まりもしない。

 まさに陽炎。




BACKEXITNEXT