漆黒がどこに落ちても。 彼女の立場は変わらない。 新領土の統治者であり、炎狼の妻。 つまり実質元紫公国を支配しているのは炎狼だ。 その為の準備も滞りなく進み、炎狼の権威は強まりつつある。 赤の国からの言葉には黒を盾にし。 黒の国はゆるやかであるだけに、性急に口を入れようとはしない。 いずれは漆黒の代わりを遣すかもしれないが。 それまでには全て終わっている。 時間を得るという意味でも、黒帝国という国は打って付けだった。 やるべき事は変わらない。 それが誰に読まれ、誰の望むものだったとしても。 その先に自分の望むものがある。 自分だけの力でなど、愚か者の戯言。 人一人にできる事など知れている。 肝心なのは誰を引き込むかだ。 そしてその上でどこに導かれるかだ。 進む先が一定であるなら。 その過程でどこをどう進もうと同じ事。 それを解らなければ、無意味に果てる事になるが。 炎狼はそれを解っていた。 だがそれはそれで詰まらなくもある。 全ては予定通り、道を外れてはならないが。 ただなぞるだけでは退屈だ。 手持ち無沙汰に欲を満たしてみても。 望みは一つも叶わない。 虚しいだけだ。
思い切って炎将に接近する。 敢えてこちらから踏み込む。 その事に大した意味は無いのだろう。 だが炎将の方が好きなように意味を付けてくれる。 いつもこちらが考える必要はない。 相手が決めてくれる。 だからこそ一方的でありながら、自動的にそれは進む。 全て同じ。 ただ退屈さを紛らわしたいだけ。 無意味でも、変化が欲しいだけ。
漆黒に後を任せて炎狼は赤き国に何度も通い、その度に炎将と会った。 炎狼自身、何故今それをするのかは解らない。 しかし炎将はそう思わない。 これを炎狼の示威行為。或いは飢えと考えた。 漆黒は我が手にあり。 炎将の体が恋しい。 どちらかの意味だろう、と察する。 それは間違っていない。 多分、どちらも正しいのだろう。 そういう部分はある。 だからこそ見誤る。 意味の無い事に意味があるという事は、多分、そういう事だ。 自分ではなく、他人にある。 他人が勝手に見付ける。 だからそういう誤差が起こる。 それを操る事は難しいが、狙ってできない事ではない。 だから意味を持たせず接近したのだろう。 何でも良かったのだ。
炎狼は炎将との関係を深め。 知らず知らずの内に目的を達していた。 誰かの掌の上である事を自覚し、その上で遊ぶ者は、時に強く、狡猾である。
一月程それを続けた後、炎狼はある意図を見せ始めた。 つまり炎将の勢力を裂き、引き抜く事。 炎将の勢力を調べ上げ、使えそうな者に目星を付け、篭絡(ろうらく)すべく行動する。 それは炎将自身が得意とする手であり、だからこそ炎将自身に対して誰も使ってこなかった手。 もしそれを考えてもすぐに看破される。 そう思い、使われなかった。 赤き国で炎将に逆らう事は、即ち死を意味する。失敗などできない相談だ。 だからその行為に炎将は驚き、失望したようだった。 何をしに来たのかと思えば、そういう意図であったのかと。 その程度の事を考え、その程度の事で終わる男だったのかと。 向こうから近付いてきた時、正直、炎狼という男がよく解らなくなっていた。 だからこそ解りやすい答えに納得する。 普段しないだろう答えにさえ執着する。 多くを知る者は、知らぬ事を恐れる。 智に自信を持つ者は、それが通じない事を恐れる。 自分の掌から抜け始めたという程度の事が、彼女には受け容れられなかった。 炎将はそれを高く捉えず、低く見たのである。 有能だからこそ掌の上にあり。 無能だからこそ外れる。 予想外の行動は、全て無能の証。 長くそれを成功させ続けていたせいで、そういう固定観念をいつ頃からか持ち始めていた。 それが愚かとはいえない。 愚かでないからこそ、幻想に陥る。 余計に頭が働かなければ、きっと気付けていただろうに。 炎将は炎狼を所詮銀ではなく、小国を得た程度で慢心するような小物だと信じた。 それは炎将という立場にとっては都合の悪い考えだったが。 彼女という個人としては都合の良い考えだった。 結局私に負けたのだと、言うしかない。 炎将もまた一人の人間でしかなかった。 そして炎狼がいつ頃か狙い始めていたのはそこである。 自分が彼女の領域から抜け出したのではなく、そこに居る資格を失ったのだと思わせる事。 それが彼の望み。 表面上は変わらぬ、しかしその奥に潜む些細(ささい)な変化。 それだけの為に一月かかった。 黒帝国が鈍重でなければ、とても採れなかった手段だろう。 その全てを予測していた訳ではないが。 全てが炎狼に幸いした。 運。 そういえば聞こえは良いが、彼はそれだけの努力をしたのである。 運だけで生きていけるほど、人は天に愛されていない。 天は人が思うほど誰かに愛を傾けない。 ただ気ままに揮うのみ。 それは炎将に対しても変わらない。 いつからそれを忘れてしまったのか。 炎狼は彼女の事が哀れになった。 それで何かを変える事はなかったが。 哀れだとは思っていた。
炎狼は炎将の部下達と黒帝国に工作しながら炎将の命を。 つまり赤き国の命を無視するようになった。 まるでその地を自分の物であるかのように思い、自分の国であるかのように行動する。 これは明らかな反乱行為であり、炎将を決断させるに多くの時間を必要としなかった。 何度か警告した後、赤き国は炎狼を反乱者と認定し、軍を発する。 炎将は炎狼に失望し。 炎狼は炎将を哀れんだ。 どちらも同じ。 しかしどこか違う。 二人の意志は他所に、作戦は進行していく。 炎狼は篭(こも)り、炎将は囲った。 そして激しく攻める。 炎狼は寝返りを促す使者を出したが、誰も裏切らない。 炎将がほくそ笑む。 次いで炎狼は黒帝国に使者を発したが、黒も動かない。 炎将はここで完全に失望した。 彼女がそのような単純な意図を読み取れない訳が無い。 すでに手を打っている。 その程度の事も解らなくなっているのか。 赤き国と炎狼。 どちらと手を組むが利か、誰にでも解る事なのに。 役者も違う。 炎狼はあくまでも小炎将であり、それ以上ではないと見るのが当然だ。 炎将はせめて一撃で葬(ほうむ)ってやろうと、動員できるだけの兵を連れて来た。 褒美は新領土で払える。 気にせず、いくらでも使う事が出来たのだ。 炎狼は虫の息。 寝返り工作をしくじり、黒にまで見放された。 これまでの多くの人間と同じように。 彼もまた一夜にして終わるのだろう。 失望だ。 執着もない。 この程度だったのか。 炎狼に銀を見たのは何だったのだろう。 自分もその程度だったのか。 であれば、私を滅ぼせる人間はもうどこにも居ない。 しかしそれは早計である。 炎狼は期待に応える。 今までも。 これからも。 勿論、今も。
他愛無く成功した。丁度炎将がそう悟った頃だったろう。 黒帝国が赤き国に侵攻を開始し、次々と炎将の部下が裏切ったのは。 子飼いの諜報機関でさえ彼女を顧みない。 全てに見限られ、その名の当然の果てとして。 炎将は灰になった。 炎狼という銀に連なる炎によって。 確かに役者が違ったのだ。 嬉しかった。 彼女はようやく知る。 いつからかこれだけを望んできたのだと。 だからこそこうなった。 自分で自分の目を塞いだからだ。誰に負けた訳でもない。 炎狼もそれを許す。 下らない言い訳に過ぎないが。そう望むなら、そう望んで死んでいけ。 彼も知っていた。 そして炎将を取り込み、それ以上の炎となって、赤き国を平らげた。 得た領土は黒帝国がほとんどを占める事になる。 文句は無い。全てを飲み込めば良い。 どうなるにしても、最後に立つのは炎狼。 銀を継ぐ狼。 その過程に過ぎない。
赤き国が滅ぶ。 だが王は生きていた。 黒帝がそれを許したからだ。 赤き国の広さを考えれば、丸ごと支配下に置いた方が楽。 全ては炎将の独断であり、彼女こそが裏切り者。 生贄(いけにえ)さえあればいい。 王もあっさりと肯定する。 あれだけ頼っていたのは、頼れたからこそ。 頼れない炎将に価値など無い。 今はその称号さえ、何かの冗談であるように聞こえる。 王は自分の立場に満足し、これ以上余計な不安を抱えなくて済む事を喜んだ。 下らない権力争いに煩(わずら)わされる事なく好きに振舞えばいい。 勿論黒帝の意向を気にする必要はあるが。 それさえ満たしていれば命を奪われる危険はない。 傀儡になった不便さもあれば、操り人形だからこその気安さがある。 それならば気安さの方を取る。 王もただの人間。 獣の名を冠してはいない。 赤き王、それだけの存在だった。
炎将こと紅は反乱という罪を被り公開処刑された。 見せしめである。 何かが終わった事を告げる為には赤き血が必要だったのだろう。 彼女こそが赤き国であり、その全てだった。 その血は誰よりも赤い。 だからこそ恨んでいる者も多く。 生贄として相応しい存在。 民の暮らし、反応にも変化はない。 ただ上にもう一つ上ができただけ。 遠過ぎて興味も無くす。 基本的な統治は黒帝国に順ずるが。 ある程度は赤き国のまま。 黒の怠惰さが、良い方に働いた。 炎将だった紅という女の最後は一切の無言。 苦痛の声さえもらさなかった。 ただ受け容れ、全てを受け容れた顔がそこに在る。 そしてそれを見、炎狼は哀れみを強くした。 銀になれぬ全ての人間を、彼は哀れんだ。 勿論、自分を含めて。 そこに多分、誤解がある。
新しい炎将には炎狼が任じられた。 彼こそがそれを成した者。新しい支配者。 王に王たる力無く。 炎にのみその資格がある。 対抗者も居なかった。 全ては紅が片付けた。 後はその紅さえ落とせば、自ずと転がり込んでくる。 だからこそ紅を生かし。 だからこそ炎狼はこの国に戻った。 次は蒼き国か。 しかしこの国とまで争う必要はないだろう。 むしろ争ってはならない。 この国を利用して、黒帝国に止めを刺す。 その方が利になる。 蒼と言えば、あの三名を思い出す。 今頃どうしているのだろう。 紅によって導かれた彼ら。 その紅が死んだ今、どう動くのか。 それとも初めから・・・・ 炎狼は次々に使者を発し、蒼き国の内情を調べ、友好を結ぶべく貢物を捧げた。 黒帝国に知られても構わない。その程度の事なら気にしない怠惰さに満ちている。 立て続けに勝利した事で傲慢さを強くし、少しずつ地から足が離れて逝く。 そこは実に気分が良いが、それだけの事である。 高ければ高いほど、速く深く落ちる道理。 それを待てばいい。 その為に行動すればいい。 天高くどこまでも昇り、自然の理によって落ちればいい。 炎狼の心に哀れみではなく、奇妙な笑いが芽生えた。 あまりに大きくなり、皇帝でさえ持て余す。 それが黒の正体。 呆れるべき巨体に、無数の野望が燃えている。 しかし燻(くすぶ)り煙を吐くだけになったそれには、何の力も無い。 あるがままに朽ちるだけ。 いつからそうなったのか。 全ての人間がそうなのか。 解らない。 解る必要も無い。 ただ利用する。いつものように。 全ては利用される為にある。 炎狼でさえそれは変わらない。 なら彼がそうする事を、一体誰が否定できると言うのだろう。
炎狼が炎将となった事で、かえって動きを制限された。 紅がそうだったように簡単に動く事ができなくなる。 その事を哀れんでいた自分が、今はその立場にある。 だとすれば今、炎狼は誰かに哀れまれているのだろうか。 いや違う。違うはずだ。 彼こそが継ぐべき存在。 ならば誰も哀れむ事はできない。 そうであるはずだ。
日を追う毎に制限が強くなる。 妻にさえ会う時間が無い。 更なる快楽で満たし、繋ぎ止めておく必要があるか。 それとももっと別の手を・・・・ 「何を考えている」 「君が知る必要は無い」 「確かに。だがそうしなければ、私は私の役目を果たせない、そうだろ」 炎狼は頷く。 目前には茜が居る。 炎狼に乗り換えた、と言えば単純だが。彼女にも彼女なりの思惑があるのだろう。 その証拠にその態度を崩さない。 それは紅に対していたものではない。 彼女は紅を忘れていない。 つまり、宣戦布告。 だがそれはそれでいい。 手足となる駒であれば、それが何を望んでいようとも。 茜を炎将に。 それも良い手かもしれない。 いずれはそうしてもいい。 しかし今ではない。 「下がっていい」 「承知した」 茜はあくまでも崩さない。 「その態度が上辺だけのものなら、良かったのにな」 炎狼は哀れむ。 紅がそうだったように、彼女もまたそうなるだろう。 確かに茜は紅の・・・・ 「いや、結論付けるのはまだ早い。早い、筈だ」 炎狼は独り呟(つぶや)く。 いつまでこのような些事(さじ)に関わっていなければならないのか。 全ては予定通り。 しかしその事がまた不快だった。 炎狼は炎狼。 炎将など退屈でしかない。 同じ炎を冠する必要はどこにもない。 それを受け継いだつもりもない。 在るべき炎を絶やさぬだけ。 面倒だ。 炎狼には更なる飛躍が必要。 炎将など、足枷でしかない。
赤、紫、後は蒼が揃えば準備が終わるのか。 それとも、そんな物は初めから必要ないのか。 それにさえ疑問が浮かぶ。 自分は一体何をやっている。 本当に近付いているのか。 確かに全ては上手く行っている。 予定通りだ。 でもだからどうだというのだ。 思い通りに行ったとして、望むものが手に入るとは限らない。 別の話である。 ただ手探りなままで。 今も。
炎狼はあの三人ともう一度繋がる必要がある。 彼らはどこまで紅と繋がり、必要としていたのだろう。 そしてそれは炎狼でも良いのか。 彼が炎将であるなら。 それとも・・・・ 下らない事を考えている間に次々と報が届く。 全ての色は滞りなく。 失われてさえ、当たり前のように輝いている。 紫でさえある意味ではそうだ。 鈍いのは黒のみ。 しかしそれもどこまで必要なのか。 一体何をしたいのか。 堂々巡りの思考に陥(おちい)る前に、やるべき事をやらなければならない。 散々回り道をしてきた。 今更それが増えた所で誰が困る事もないだろう。 そう思っている。 思うしかない。 だとしたら今までその為に生きてきたのか。 彼は。 炎狼は。 ただその為だけに・・・・ 違う。 違うはずだ。 彼は。 ただ銀に届く為に。 しかし。 その銀は。 果たしてどこにあるのだろう。 もしかしたら、どこにも無いのかもしれない。 そう考えた時、それを否定できる根拠などどこにも無い事に気付く。 これで良いのだろうか。 これが銀なのか。 解らない。 が。 ただ己の為に。 己も知らぬ己の為に。 それだけが、それだけが彼の知る師の姿なら、そうするべきなのだろう。 誰が望まぬとも。 自分でさえそうであっても。 今はもう疑問しか浮かばなくなったそれをいつまでも求め続けるしかない。 そしてそう思えるからこそ、師の掌の上である事を実感する。 間違ってはいない。 銀豹の掌の上こそが、彼らの言う自分の世界。 全ては師の為だけに。 それだけの為に。 今も。 これからも。 きっと・・・・。 |