2-4.思い出せるのはいつも後悔だけなのか


 いきなり唇を塞がれた。あまりの事に理解できず、炎狼は呆然と佇(たたず)む。

 切咲は遠慮しない。無言を肯定の意思表示だと考えたのか、それともこちらの思いなどどうでも良かっ

たのか、一人で事を進めていく。

 しかしそこに触れそうになった時、たまらず炎狼は身を避けた。

「案外、初心?」

「どういう事だ、これは」

「どういう事って」

「お前は海雲を探してたんじゃないのか」

「海雲・・・・ああ、そうだっけ」

 切咲は本当に忘れていたような顔をして、無邪気に微笑んでいる。

 何も変わらない、いつもの姿。それだけに尚更違和感がある。こいつはいつもそうなのだろうか。

「まあでも、あいつもここに来ているのは間違いないよ。だって、そう言ってたから。そりゃそうだろ、

健康な男が毎日家に篭ってたら、たまには発散させたくなるって」

「なら、それはそれでいい。何故こんな事をする」

「何故って、発散する為に決まってる」

「だから何故、俺を」

「何故って、あの中じゃ、あんたしかいないじゃん」

「理解できない」

「ああ、そっか。大丈夫、大丈夫。俺も一応女だし」

 切咲が着ている物を全て脱いだ。驚くほど素早い。慣れている、という事か。

「ほらほら、見なよ」

 全てをさらした切咲の身体は細く美しく、余分な肉がない代わりに凹凸もない。

 女性を象徴する胸もほとんど平らで、確かに女の体だったが、中性的、いや少女的といえる体付きをし

ていた。

 それはどこか不自然で、だからこそこみあげてくるものがある事を否定できない。

「・・・・・」

「ちょっと吃驚するだろ。でも、こういうのが好きな奴が世の中にはたくさん居るんだ。そういうのを満

足させる為には、俺みたいなのを無理矢理作らないといけない」

「・・・・」

「逆らうなよ、お願いだから」

 優しげである以上に哀しげなその眼差しをみると、もう何も言えなかった。

 それが、彼女の手であるのかもしれなかったが。



 全てが済んでも、切咲は炎狼を離さない。しがみ付いたまま、甘えるように頭を添える。

 炎狼は今も頭が真っ白で、何がどうなっているのか、これからどうなるのか、さっぱり解らなかった。

 果たしてこの行為に、何か意味があったのだろうか。

 そしてそれは、どういう意味だったのだろう。

「俺達はあの子を護っている。護らないといけない」

「・・・・」

「だからあんたにもそうして欲しい。お願いだ」

「・・・初めから、そのつもりだ」

「本当に?」

「ああ、どの道、俺は彼女が居なければあの場所には居られない」

 今の生活、ほんの少し前では考えられなかった生活。それが始まったのは彼女、久住にあってからだ。

その久住が居なくなれば、多分、今の生活を続けられない。

 そしてそれは、もう一度死ぬ事を意味する。

 こんな場所に一人放り捨てられて、簡単に生きていけると思う程、炎狼は世間知らずではない。

 であるなら、それを避けなければならない。彼は生き続けなければならないのだから。

 全ては、約束を果たす為。

 例えそれが、二人で結ばれたとも解らない約束であったとしても。

「お前はそれを頼む為にわざわざ」

「違うよ、発散させたかっただけだって」

「・・・・そうか」

「あんただってそうだろ。・・・・・それに俺、良かっただろ」

 満面の笑みを浮かべる彼、彼女に対して、炎狼はもう何も言えなかった。

 そして赤目の事を思い出した。

 あの時と今とは、随分違っている。

 その事を、想う。

 その根底は、同じなのかもしれないと。



 海雲は帰って居なかった。

 つまり久住はずっと一人で待っていたという事だ。

 切咲は護っていると言った。これはおかしいのではないか。

 でも誰も何も言わない。何も問わない。

 それぞれが知っていて黙っている。そんな風に思えた。

 ここが安全だという事を、はっきりさせる事のできる何かがあるのだろう。

「おかえりなさい」

 彼女の笑顔を見ると、何となく気まずくなったが、それもすぐに消えた。彼女は何も変わらない。炎狼

に対する態度に、変化はなかった。

「ただいまー」

 切咲の態度にも変化はない。おそらくこれは、ありふれた事なのだろう。

 そう思うと炎狼は色々な事が哀しくなったが、そう考える事の方が失礼な事かもしれないと思い直し、

彼もまたいつもの炎狼に戻る。

 少なくとも戻ろうとした。

 いつもの彼。つまり、ここに来てからの彼に。

 しかし今、この場所に前以上の親しさがあるのを感じる。

 例えるなら、家族になったような感覚。受け容れられたという実感。

 もしかしたらあれはその為の儀式だったのか。

 それとも。

「あー、腹減った」

「皆揃うまで待たないといけないんだよ」

「えー、あいつなんか良いじゃん」

「駄目だよ、駄目」

 切咲の我侭も彼女には通じない。

 そういえば彼女だけだ。誰も逆らえない、逆らいたくないのは。

 炎狼自身でさえそうだ。その前では全てを受け容れるしかない。そう思う。

 いや、違うか。

 彼には何も無いのだ。だからこそこの境遇を受け容れ、切咲を受け容れ、その願いを受け容れた。

 空の器が寂しくて、無理に満たそうとした。

 初めからそうだった。きっと最後までそうなのだろう。

 何度繰り返したのか解らないその思いを、今もまた繰り返す。

「もうちょっと待ってね。美味しいの作るから」

 しかし悪くはなかった。

 どうなるにしても、ここが新たな居場所である事に、ようやく慣れてきた。

 そんな気がする。



 甘える時はいつも二人きりだ。

 まるで猫のように、それを隠す。

 切咲はまるで解らないまま大人になったかのように。

 その身体と等しく、無垢であり、誰よりも染まっていた。それを矛盾させない所に、凄みがあるのかも

しれない。

 しかしそれも、どうでも良い事なのだろう。

「長いなー」

「何が」

「休暇」

「いつもはどうなんだ」

「長い。でも短い」

 解らない。

「だから不安なのか」

「解んない」

「そうか」

「うん、何も」

 薄暗い中でも、二人で居ると不思議と落ち着く。

 別に切咲に限った事ではない。いつもそうだった。これからも、多分そうだ。

 見えない場所を恐れながら、二人でその場所に居たいと思う。

 誰にも見られない事を恐れながら、二人で誰にも見られない場所に居たいと思う。

 いや、違う。もしかしたら、二人を見たくないのかもしれない。

 明かりを消す。その行為に全てが含まれていて。むしろそれだけを求めているかのように。

 暗闇に安心して包まれる日を、誰もが求めている。

 それはつまり。

「死か」

「何?」

「なんでもない」

「へーんなの」

 確かに炎狼はそれを望んでいる。

 師と共に、それを望んでいる。

 だからこそ、暗闇がこんなにいとおしい。

 不健康だとは思うが、否定したくはなかった。



 海雲に呼ばれた。仕事だと思ったが、そうではない。彼もまた、何か目的があるようだ。

 炎狼は装備一式を与えられ、連れ去られるように同行する。

 目的も行く場所も、相変わらず教えてくれない。

 沈黙、それだけを力とするかのように。

 海雲は何も言わない。決して誰にも。本当の事は、何も。

「どこへ行くんだ」

「行けば解る」

「何をするんだ」

「行けば解る」

 取り付く島もない。彼だけは何も変わらない。変わらないままあり続ける。まるで、師のように。

 外見も考え方も多分どこも似ていないが、もしかしたら師と同じ種類の人間なのかもしれないと、炎狼

は思っていた。

 誰にも何も悟らせず、ただ自分のまま、自分の中だけで生きていく。他人を取り込む事しか知らない、

貪欲な獣。

 でもそうであるが為に美しい獣。

 海雲の沈黙には美を感じる。そしてそれは、以前炎狼が持っていたものと同種のものだろう。

 いつ失ってしまったのか。

 そうか、人の上から降りた時だ。

 つまりその沈黙は、その上に立つ証。対価、代償といえるものなのだろう。

 早くそれを下ろせれば、誰もが楽になれるのに。

 そんな事を思えたのは、それを下ろせてからだった。それを背負っていた時は、思いも寄らなかった考

え。それがいつの間にか当たり前になる。

 つまりそれが変化というやつか。

「着いたぞ」

 そこは薄暗い酒場。酷く落ち着いている。

「あんたも暗がりが好きなのか」

「行くぞ」

 海雲は呆れたように店に入っていく。それもいつもと変わらない。彼は問わない。多分、無意味だから

だろう。彼と、彼のやろうとしている事にとって。

 ある一点を除き、海雲は炎狼に対しても興味を抱いていない。彼が考えるべき事は、もっと別の所にあ

る。そんな気がする。

 この男だけが違う。この男だけは知っている。

「・・・・・・」

 海雲は黙って人差し指だけを立てながら、奥へ進む。

 店主らしき老人は何も言わない。多分、彼らが普通の客であってもそうなのだろう。いや、ここに来る

客は皆普通ではないのか。

 店内に客らしき姿はあったが、どれもそういう感じがしない。

 酒も食い物も無いまま、空のテーブルを囲んでじっと黙っている。

 時折こちらに視線を送る事に、何か意味があるのだろうか。

 海雲は躊躇(ちゅうちょ)しない。炎狼も付いて行くしかない。

「ここは一体・・・」

「しッ、もうすぐだ」

 彼らの言葉に店内に居る全てが敏感に反応した。どうやらここで口を開く事は、よくない結果を招くら

しい。

 口を塞ぎ、沈黙の中であえぐ。

 流されるまま、まるで一片の花弁のように。

 奥に在った扉を開けると、懐かしい光の世界が待っていた。

 そう、あの場所で見た、あの世界だ。



 錯覚だったのだろう。目映(まば)ゆい程の光は消え、薄明かりの景色だけが在る。

 小さな部屋にロウソクの明かりが灯り、ちらちらと周囲を照らしている。

 その光が揺れる度、この世界もまた揺れる。

 それもまた錯覚だったのかもしれないが。

「定刻通りだ」

「間違いは無い」

「確かにそうだ」

 三人居る。

 その声、背格好からは何も判別できない。男なのか女なのか、何をしていて、何をしているのか。そう

いうものを全く汲み取れない。

 顔も映らない。

 まるでそこだけが影に沈んでいるかのように、影に顔を取られてしまったかのように、薄暗く見通せな

いようになっている。

 どうしてそうなっているのか、勿論それは解らない。

 ただ理解出来るのは、彼らは光と影というものを効果的に用いているという事だ。以前あったあの女も

そう。

 あの女は光の中に姿を隠し。この三人は影の中に隠している。

 同じ物を別の方法で、同じ意味で隠している。

 光も影も同じ。その中に沈めば、誰も真実を見る事はできない。

 ただ何となく皆海雲に似ているような気がした。雰囲気というのか、その存在そのものというのか、と

もかく何かが同じであるように、炎狼には感じられたのだ。

 その直感にも似たものが、核心を突いているような気がする。

 それも錯覚なのかもしれなかったが。

「言いたい事があるが、その前に報告を済まそう」

 海雲の言葉に同意した彼らは、それぞれに意味の解らない事を話し始めた。

 それは隠語なのかもしれないし、そのままの言葉なのかもしれない。

 どちらにしても炎狼にはさっぱり理解できなかった。だから彼らは遠慮なく喋っているのだろう。

 例え何を聞かれても、解りはしないだろうからと。

 或いは、それを聞かせておく事に、何か意味があるのか。

 どちらとも考えられるし、どちらとも考えられない。解らないという事は、きっとこういう事だ。

「こいつが例の男だ。使えるといえば、使える。役割さえ与えれば、過不足無くこなすだろう」

「あなたがそんな風に評価するのは珍しいな」

「確かに」

「同意する」

 三人は喋る順番は違うが、話す時は感覚的に一揃いになる。

 三人で一人、とまでは言えないが、自然にそういう役割が決まっているのだと。つまり、この三人は一

緒に行動する事が多い、という事。

 彼らも三人。

 これは偶然か。それとも意図してそうさせられたものなのか。

 いや、そういえばあの女は久住の事をよく知らないようだった。

 となると、今炎狼を入れて、初めて三人になったといえる。

 今までは二人、これからは三人。

 勘違いか、それとも・・・・。

「話には聞いている。役割さえ果たせるのであれば、我々も何も言わない。ただし、邪魔になるようであ

れば、容赦しない」

「その通り」

「そこは譲れん」

「解っている。だからこそここに連れてきたのだ。こいつの面倒は俺達が見る。だから受け容れてもらい

たい」

「それは解っているよ。問題ないさ、あなたがそういうならね」

「そう」

「それは否定しない」

「では我々は失礼する。後の事は任せてくれ。そして任せたよ」

「幸運を」

「そして成功を」

 三人はすうっと消えてしまった。

 消える。それが一番相応しい表現だ。

 そこから移動した様子も、何かをしたようでもない。

 その場から不意に居なくなった。

 まるで初めからそうであったように。

 そこに何か居ると考えていた炎狼の方が間違っていたのかもしれない。

 どこかから声だけを伝える。そういう事も出来る筈だ。

 とすればあれも錯覚か、それとも影か。或いは、本当に居たのか。

 海雲は何も言わない。言わないままにこの場を去る。

 解る必要は無いと、命じるかのようだ。

 炎狼もまた、その後を付いていくしかなかった。

 とにかく彼は受け容れられた。

 何に、そこにどんな意味があるのかは解らないが、それは必要な事だったのだろう。

 海雲がどこかほっとした顔をしていたのを、今も憶えている。


 三人に会ってから、手紙が届く事が多くなった。

 宛名は海雲、切咲が多いが、炎狼である事も少なくない。

 久住だけが一通もきていないので不満そうな顔をしていたが、代わりに切咲が彼女宛に手紙を出すよう

にすると、すぐに機嫌を直した。

「あなたも出してね」

 そう求められた時は驚いたが。悪くないとも思った。

 手紙を誰かに出すなんて、炎狼が今まで経験しなかった事だ。初めての経験というのはいい。それが例

えどんな事であっても、相応の刺激がある。

 苦悩であれ、喜びであれ、その大きさに変わりはないだろう。

 師に逢い、師が去った時と同じように。

 そう考えた時、何かを思い出したかのような気がしたが。多分それも、錯覚なのだろう。

 思い出すべき事はすでに頭にあり、そこから零れ落ちるものがあるとすれば、それは初めから要らなか

ったもの。

 要らない。この言葉には恐怖すら覚えるが、便利ではある。

 炎狼は試しに手紙を書いて、久住に送ってみた。

 しかしそれは不思議な事に、いつまでも彼女には届かなかった。

 それでも満足そうだった事を思うと、中身だけは伝わっていたのかもしれない。

 不自然なものが増えていく。

 炎狼はもう二度と手紙を出さない事を決めた。



 休暇が終わる。

 穏やかでさえあった暮らしが終り、生活の慌(あわただ)しさを取り戻す。

 愛着が湧いてきていた家を引き払い、彼らは再び馬車に乗って旅立つ。

 西進して行くようだが、目的地は誰も話さない。

 受け容れられたとしても、炎狼の立場は変わらないらしい。

 客人というよりは、やはり囚人なのか。

 そう思うと哀しくもあったが、そう思う事自体が馬鹿馬鹿しい事だった。

 初めからそうなのだ。何も期待するべきではない。

「楽しい旅行になるといいね」

 そう言って浮かべた久住の笑顔だけが、浮いて見える。

 道中次々と進路を変える。でも結果として西に向かっているようだから、目的地を覚られない為かもし

れない。

 そこにどんな理由があるのかは解らないが、海雲達はとにかく隠したがっている。

 特に久住をだ。

 初めは炎狼を隠そうとしているのだと思った。

 そしてそれを当然だとも。

 しかしそれは違った。明らかに違う。

 炎狼を大々的に宣伝するような事はしないが、例え知られたとしても、支障は無いように見える。

 赤き国は遠い。

 切咲との仲が深まったのも、海雲が承認させたのも、そういう理由があったからではないのか。

 ここまでくればもう安心だからやるべき事を済ませた、とでも言うような。

 炎狼は切咲との事も自然なものだとは考えていない。

 切咲が個人的に好意を持っているのだとも思っていない。

 おそらくあれも計画的なもので、必要な事だったのだ。

 炎狼の性欲処理という意味もあっただろうし、篭絡、ある程度気を許させるという意味合いもあったろ

うが。それよりも関係を、つまり結び付きを強める事に意味があったのだ。

 より彼らに繋ぎとめる為の必要な処置。

 炎狼が見る限り、切咲に自由は無い。

 誰よりも好き勝手にやっているように見えて、一番縛られているのは彼、いや彼女だ。

 切咲が全てを強制されているとは言わない。

 そのいくらかは望んでやってさえいるのかもしれない。

 でもその意志とは関係なく動かされているのは事実だ。

 まるで人形のように、命じられるがまま動かされている。

 海雲と切咲、主と従、命じる側と命じられる側。炎狼が二人の間に抱いていた違和感はそれだった。

 何かが違っていたように思えていたのは、それだったのだろう。

 しかしそれを言うなら、炎狼もまた同じ。

 彼も常に従、そして今もそうだ。

 だからこそ切咲も、少しだけ心を開いてくれたのかもしれない。

 あの時の彼女は、不自然なくらいに優しいように思うから。

 この先何があっても、あの時に感じる優しさだけは、本物だろう。

 だからといって、何がどうなる訳でもなく。

 切咲がその時に容赦してくれるとも思えないが。

 嬉しかった事は事実。

 その点で、切咲は味方と言えるのかもしれない。

 そう思った時、炎狼は炎将の顔を思い出した。

 切咲が以前言っていた事は、案外当たっているのかもしれない。

 同じ女だけが解る事なら。

 外れているとは思いたくない。

 そう、思う。

 望みたい事は、彼だって望んでいたい。




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