2-6.迷い子が降る場所


 当てもないまま流れる人の群れに身を任せた。

 まるで彼らと一つであるかのように。

 仲間、友達、家族。何一つ繋がりがないから、こうして望んで流されてしまうのか。

 人の流れは川のようだ。

 しかし決定的に違う所がある。

 水はその為に流れていく。しかし人はただ流れていく。

 だからそこに何か意義を見出そうとしても、空っぽのまま虚しく時を費やす破目になるのだろう。

 そこには何もない。自分の意志さえない。悲しくも、離れ難い場所。

 入りくねった道、それが多くの支流を作る。

 初めは埋まる程居た人の数が、いつの間にか数える程になり、それぞれが流れるままにそれぞれの行き

着く場所へと漂着する。

 そこには確かに何かがある。求めていた何かがあるのだろう。

 だがしかし、それを得た所で全ては虚しく、悲しい。結局は何も残らない。

 心も記憶も、残るのは虚しさだけだ。

 ただ消費し、自分自身に追い詰められながら必死に消費する。それだけの自分が残される。

 その事に気付いた時、初めてこの流れから抜け出せるのかもしれない。だがそれを望む人間が、この流れ

の中に、一体どれだけ居るというのだろう。

 人はただゆるやかに流されたい。

 そういう気持ちを持っている。

 炎狼もそうだった。少なくとも、炎狼自身はそうだったのだ。

 だがそれも今となっては許されない事。彼はもう一人ではない、あらゆる意味で、あらゆる場所で、あら

ゆる存在の中で。

「・・・・・」

 無言の溜息が漏れた。

 炎狼はいつの間にか独りで居て、当てもないまま、当てがないという状況を誰とも共有しようとしない。

 それは強さか。

 違う。

 弱さ。いや窮屈さだ。

 誰にも入り込めないからこそ、誰も入ってこない。彼はそういう人間なのかもしれない。

 辿り着いた場所は、誰もいない寂れた場。

 そういう場所ではなく。本当に誰も来ないからこそ寂れた場所。

 しかしそれはそれでいい。

 炎狼の目的は、独りになる事だったのだから。



 何もない。

 荒地、荒野、そんな場所ではなく。確かにここには人の匂いがするのだが、それだけである。

 ごつごつした質感の壁が立ち並び。塞がれてはいないが、そうであるように感じる。

 ここは閉ざされている。

 何も聴こえない。特別なものが、という意味で。

 ただ嗅覚に触れるものはある。

 空気は驚くほど重い。一体何がこの上から圧し掛かっているのだろう。

 炎狼は王を思い出す。

 あの蒼き王がこれだけの重みを生み出せるとは思えない。

 しかし現に重みがある。

 一体誰の、或いは何の重みなのか。

 ふと懐かしい気がした。

「自殺志願者じゃあ、あるまいに」

 乾いた声がする。

 この空気さえ、瑞々しく感じる程に。

「・・・・・ッ」

 自分の迂闊(うかつ)さに腹を立てながら、炎狼は振り返る。しかし。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 そこには何も居ない。沈黙のみがある。

 何か言おうかと思ったが、無駄だろうと考え直す。

 もし炎狼と会うつもりなら、そこに居ただろう。

 もし炎狼を殺すつもりなら、とうに殺されているだろう。

 警告を発してきたに過ぎない。

 その意図は解らないが。このまま続けるつもりなら、容赦しないという意味なのだろう。

「自殺志願者、か。・・・そう見えるのか」

 確かにこんな場所に居るのは、尋常な人間とは思えない。

 だが。

「お前に言われる筋合いはない」

 どちらが異常なのか比べてやってもいいとさえ、炎狼は考えていた。



 収穫が無いまま、その場所を去る。

 もう帰ろうかと思ったが、何となくそれはしたくない。

 先ほどあった事を、海雲か切咲にでも話そうかと思ったが、それもしたくなかった。

 何故なのかは解らない。

 ただそうしたくない。それだけが答え。

 炎狼は自分の答えに従う事にした。

 幸いまだ時間がある。

 どこへ向かおう。

 当てはない。

 迷わないように解りやすい道を選んで進んでいるが、それもいつまで持つかは解らない。

 このまま逃げてしまおうか。

 そんな考えも浮かぶ。

 今そうしてしまっても、何も問題はないように感じる。

 確かに今では公私ともに繋がりができた。深い繋がりだと言ってもいい。

 だがそれが希薄なものでしかない事を、炎狼は良く知っている。

 遊びなのだろう。真似事といってもいい。まるで子供がそうするかのように、何も知らない人間にそれを

教えている。

 そんな風に思う事がある。

 飾りであり、作り物なのだと。

 でもこの世にそうでないものなどあるのだろうか。

 一度、いや二度全てを失った彼にとって、今ある現実でさえ希薄なものに見えた。

 それはすぐに剥がれ落ちてしまう、カサブタのようなものだと。

 しかしそうだ。

 カサブタでも、無理に取れば痛みを生じる。

 だとすれば、炎狼も痛むのか。

 この心が、痛むのだろうか。

 胸に手を当て、考えてみる。

 何かを探るように、手を動かす。

 何も出てこない。

 何も無い。そこには何も無かった。

 何も無いのなら、このまま姿を眩(くら)ます事が、最善の方法かもしれない。

 しかしそう思ってみても、できる事ではなかった。

 炎狼はそれができる程、勇に溺れる人間ではないのだ。

 彼は慎重なのである。つまりは臆病。

 それは悪い事ばかりではないが、その為に先を考えると動けなくなってしまう。

 炎狼は考えてしまう。

 ここで海雲達から離れて、一体何ができるだろうかと。

 言い方は悪いが、今の炎狼は彼らに飼われているようなものだった。

 衣服住、女でさえ与えられている。そんな彼に、そこから抜け出す事などできはしない。

 そしてだからこそ、こうして好きに外出を許される。

 だとすれば、先ほどの声は、海雲達とは関係ないのか。

 解らない。

 考える事で何かを知った気になりたいが。その為の情報すら、炎狼には与えられていなかった。

 彼一人では何も考えられない。そういう風にして、行動を縛られている。

 いや、初めからそうだったのか。

 今までの生活を思い出す。

 主体的に行動した事が一度でもあっただろうかと。

 いつも流されるまま、誰かに手を引かれて、ここまで彷徨(さまよ)ってきたのではないのか。

 お前は自分というものを持っているつもりだったのか。

 意思などというものがあると思っていたのか。

 だとしたら、彼の心と感情に、一体何の意味があるというのだろう。

 泣けるものなら泣いていたかもしれない。

 そのあまりにも切ない現実は、炎狼の目を開かせた。

 そして終止符を打つ。



 切咲は出かけていて、海雲だけが居た。

 久住はどこに行ったのか、それとも初めから居なかったのか、姿が見えない。

 それを問う事はできなかった。

 何となく、久住に対してはまだ違和感と恐怖心が残っている。

 別に彼女がどうこういうのではない。

 彼女自身は清らかであるとすら思っている。それは変わらない。

 ただ、その存在に恐怖している。

 その心を否定する事はできなかった。

 例え誰にどれだけ情けない事を言われても、それだけはできない。

 これは本能的な恐怖。

 抗えない。そう、思う。

「あまり出歩くな」

 海雲が突然口を開く。

「好きに過ごせと聞いた」

「状況が変わった。お前も知っているだろう」

 その言葉が余りにも当然であるかのような響きであったので、炎狼も隠す事はできなかった。

 例えそれが鎌をかけただけのものであったとしても、否定できない事はある。

 そして代わりに何かを問うても、彼は答えてくれないのだろう。

 そう思っていた。しかし今回だけは違っていたようだ。

「反政府組織、とでも言っておこうか。我々が我々であるように、我々と敵対する者達が居る。どこででも

そうであるように、邪魔をしあう存在が。だから今までのようにはいかない。お前の力は疑っていないが、

相性の問題がある。お前では彼らに勝てない。だから、俺達がいる」

 海雲の表情は何も変わっていなかったが、そこには確かな義務を感じた。

 自分の感情は別として、そうしなければならない。そこにはそういう心がある。

 少し悲しく思えた自分が不思議だったが、別に炎狼にとって悪い事ではない。

 むしろ好材料だろう。

 それでも素直に喜べなかったのは、彼らに対する依存心があったからか。

 それとも、その時を前に、これ以上貸しを作っておきたくはなかったのか。

 炎狼は自分の心を量りかねた。

 しかし、それも満更悪い気分ではなく。

 誰かに与えられる事に、慣れてしまっていた彼は。

 それを肯定してしまった。



 一週間程炎狼はその動きを封じられている。

 しかしそれだけの時間をかけても方が付かないのか、珍しく海雲は怒りを見せていた。

 焦りではなく、怒り。

 解決できない訳ではないが、そうする為には時間がかかる。

 できるのに時間がかかる。そこに現れる無駄に対し、怒りを覚えていたのだろう。

 彼らの仕事量は少なくなく、その時間を炎狼の為に割かなければならない事は、そのそれぞれに一々支障

を与える。

 これは確かに我慢のならない事だった。

 だがそんな事は常にある事。それでも海雲が怒っているのは、多分自分に対して関わりのない事、つまり

炎狼がその原因としてあるからか。

 例えば久住を護る為であったら、それに必要とされる時間を惜しむ事はないだろう。

 海雲自身、切咲であれば、そもそも護る必要はない。

 炎狼が関わっているから、事が二次的な問題だから、怒っている。

 これは間違っている考えかもしれないが、なんとなくしっくりくるものだった。

 或いはもっと単純に、相手の力量が優れているからだろうか。

 海雲を怒らせるほどに、彼らは強い。もしくは大きい。

 相手は組織だと言っていた。だとすれば、確かに海雲だけでどうこうできる存在ではないのだろう。

 しかしそんな存在が、何故炎狼を狙うのか。

 彼が海雲達と一緒に居るからか。

 海雲一味の中で一番相手しやすい炎狼を狙う。これは当然の事。

 炎狼も腕には自身があるが、相性が悪いと言った。

 それはつまり、相手も海雲と似た種の人間だという事だろう。

 一度会っているから解る。確かに相性が悪い。

 でもそれなら何故、彼ら、或いは彼は炎狼を殺さなかったのか。

 何故警告に止めたのか。

 あの時に済ましていれば、こうも時間をかけないで済んでいた筈だ。

 彼らとしても任務は迅速に遂行できた方がいい。

 それでもやらなかった事から考えると、もしかしたら海雲達の行動を制限させる事が目的なのかもしれ

ない。

 炎狼を生かしたまま脅かす事で、嫌でも護らなくてはならなくさせる。

 だから時間がかかってもよく、むしろ時間がかかればかかるだけ目的を遂げる事になる。

 時間稼ぎ。

 そう考えれば辻褄はあう。

 海雲が怒っているのは、それを理解していて、それでも防ぎようがないからだ。

「そろそろ行ってくるね」

 久住がそんな空気を知ってか知らずか、いつものように前触れ無く出て行く。

 何故かは知らないが、炎狼が出歩かなくなってから、食糧調達は主に久住が担当している。ちょっとした

用があれば、出て行くのは彼女だ。

 違和感を覚えるが、だからこそ良いのかもしれない。

 ここに海雲と切咲が居るのだから、久住は単に雇われた人間だと思われる筈。あの屈託のない笑顔を見て

いると、警戒心も薄れさせられてしまう。

 だが、本当にそうだろうか。

 炎狼を狙っている理由が、彼が一番楽な相手だからだとしたら、久住こそがまさに打ってつけの相手では

ないだろうか。

 それとも彼らも感じているのだろうか。

 恐怖を。



 海雲は行動に出る事にしたようだ。

 炎狼を囮(おとり)にし、彼らを誘い出す。そして始末する。

 やると決断したのだから、全ての情報を得、そして総合的に判断した上での答えなのだろう。

 行くしかない。

 何処へだって。

 何時だって。

 行くしかない。

 炎狼はこの前と同じく、人の流れに沿って歩いた。

 いや、単純に、流れた。

 そうすると不思議な事に、前と同じ場所へと辿り着く。

 人という存在の中に居て、そこから隔離されている場所。

 無機質でいながら、確かな人の跡。

 今日は重みすらなかった。

 まるで全てが干上がった、何かの痕跡。干された死骸のように、何もかもが乾いて軽い。

 だから一層不気味さが肌に付く。取れない臭いのように。

 大きく息を吸うと、かびの臭いがした。

 こんなに開かれているのに。

 天は大きく口を開いているのに。

 ここにある物は、何一つ口にしたくはないようだ。

 拒否されている。炎狼自身がそうであるように。

「警告した筈だ。例えそれが罠でも、我々は容赦しない」

 声が聴こえた。多分、あの声だ。印象に残るのに、何も思い出せないあの声の色。それだけははっきりと

憶えている。

 ぬるりと影が現れた。

 いや、影から現れたのか。

 炎狼のすぐ下からぬるりと手が伸び、掴(つか)もうとする。

 振り払おうと試みたが、体が上手く動かない。

 この声だ。おそらくはこの声。この声によって暗示をかけられている。

 師からか、それとも炎将からだったか、そんな事を聞いた記憶があった。

 その者達は影を使い、そして人を操る事に長けている。その力からはどんな屈強の戦士も逃れられない。

 彼らから逃れられない事は恥ではない。ただ、相性が悪い。その記憶がそう言っていた。

 相性、相性か。

「そんな言葉を聞くとはな!」

 炎狼は伸ばされた手を蹴り飛ばす。

「ッ」

 くぐもった声を漏らして、影が姿を現した。

 何の事はない。真っ黒な衣装に身を包み、影に身を伏せていただけだ。

 そこに暗示をかけて、本当の影のように見せていたのだろうが、影に縮こまって隠れている姿を想像する

と、実に滑稽(こっけい)である。

「お前は師の事を思い出させた。黙っていれば良かったんだ。師はそんな事を言わないのに」

「・・・・・」

 戸惑っている。

 影は戸惑っていた。

 状況が理解できない所へ浴びせられた理解できない言葉。受け容れられない。

 炎狼は全てを飛び越え、ただ独りだけ優位に立つ。

「俺に響くものは、それだけだ!!」

 そして振り下ろす。

 銀の残光を残し、影は真っ二つに斬り裂かれた。

 血が慌てて溢れ出す。まるで死を繕(つくろ)うように。

 残された死骸は、惨めなものでしかなかった。

 こいつだってまだましな戦い方はできただろうに。ただ一つ誤ったせいで、無様に死んだ。

 それが触れてはいけない事なのだと、何故理解できないのだろう。

「俺以外に、理解できる筈もないか」

 笑みが湧く。

 この場所に、彼は帰ってきた。

 そういう事なのだろう。

 炎狼は理解した。



 静けさの中に、海雲と切咲の姿はなかった。

 炎狼は囮の筈だったが、誰も居ない。

 感じる。ここには誰も来ていない。

 どうしてだろう。

 そうか。罠にかけられたのは、彼らの方だったのか。

 いや、彼らではない。もしかしたら炎狼自身が標的だったのかもしれない。

「だいじょうぶ?」

 優しい声が響く。その内に浸っていられれば、どんなに良かっただろう。

 振り返ると久住が立っていた。あの笑顔で、あの声と言葉で。

 そして手が差し伸べられる。それは誰をも救う、神の手か。

 それとも。

「もう、必要ない」

「そうなの」

「ああ。もう大丈夫だ。・・・・そう、大丈夫だ」

「そうなの」

「そうだ」

「じゃあ、もう要らないね」

「かもしれない」

「これからどうするの」

「解らない。だが方を付けてこようと思う」

「そう、じゃあ、行ってらっしゃい」

「ありがとう」

「早く帰ってきてね」

 炎狼はそれには応えずその場を去った。

 ここは彼女達に任せておけばいい。

 目指すは赤き国。

 そう、相性だ。相性の問題。それは師ではなく、炎将の言葉。彼にそう暗示をかけたのは彼女だった。

 そして海雲もまた同じ言葉で暗示をかけた。

 まだ推測に過ぎないが、やはり全ての事には繋がりがあるような気がする。

 師からは離れてしまうかもしれないが、やるべき事はやっておかなければならない。その義務、必要があ

るのは彼もまた同じ。

 それを今、思い出した。

 海雲達には久住が伝えてくれるだろう。いや、その必要さえ、無いのかもしれない。

 炎狼は暗示をとく必要があったのだ。この一連の騒動も、その為のものでしかない。

 そう考えれば、海雲の怒りにも別の面が見えてくる。

 だから行かなければならない。

 彼がそうならざるを得なかった場所。

 得なかった人達の許に。

 偽りの血を流すのは、もう飽きていた。 




BACKEXITNEXT