1−1.忍び寄る予兆


 魑魅魍魎の満ちる地がある。

 永劫の奥深く、その淵よりも更に深く、人知や神智さえ及ばぬ所にそれはある。

 誰も目にする事無く、また目にする必要もない。そこは死者さえ訪れぬ永遠の暗闇、消える事無き負心

の墓場。

 そこへは情念の奥深く、ほの暗く灯るどす黒い炎にも似た、猛々しくも薄ら寒いモノを通してしか行け

ぬと言う。

 決して誰も開いてはならぬ、神さえ恐れる場所。

 しかしその開いてはならん扉を開かんとする者は、いつの時代にも現れる。

 時は戦国、武士と言われる者共が時の権力者達に反旗を翻し。それまでの典雅だが無気力な世界を、荒

々しく力ある者のみが統治する世界へと変えてしまった時代。

 今よりも遥かに人の業は深く。まるで生きる事すら罪であるかのように、弱き者は無残に斬り捨てられ、

貪り喰らい合ったと言うそんな時代。

 以前の法も秩序も失せ、道徳こそが弱さと蔑まれる時代。

 そんな時代のある小さき村にそれは起こった。歴史にも書かれないような小さき村である。

 村の名も伝わっていない。

 その村に悟朗丸(ゴロウマル)と言う若者が居た。この小さき村を治める力少なき領主の息子である。

 若様、若様と育てられたが、このような村の税などは真に微々たる物。決してその暮らしは楽では無か

った。最下等の農民とほとんど変わらないと言って良い。まだ毎日飢え死にしない程度に食えるだけまし

と言った暮らしである。

 それでも彼はすくすくと育った。背丈も骨柄も仁王のようで、正に偉丈夫と言う言葉が似つかわしい。

 頭脳も聡明で、職人でさえ驚く程に器用でもあった。

 その悟朗丸、歳は今年で十六を迎え、そろそろ嫁取りをしようと言う事になった。

 結婚は早ければ早い方が良い。この時代当然のように皆短命である。いつ死ぬか、殺されるか、それは

解らないが、領主となれば命のある内にささと子供を作っておかねばならない。

 悟朗丸も最近は沸々と身体の内に欲望が生まれ、彼自身も嫁取りを強く望んでいた。

 何しろ若く、しかも堂々たる体躯である。欲望の捌け口を狂う程に求めて当然と言うものだ。

 彼の父、義実(ヨシザネ)も今は名を変え、このような小さな村の領主に甘んじているものの。実はや

んどころなきお方の血筋に名を連ねる程の高貴な人物である。

 この時代、家柄や血筋などはさほど重んじられはしないものの。それでもまったく実の無い物と言う訳

でも無い。多少の権力者ともなれば、やはりその地位に応じた血統と言う物を不思議に欲し、権威を打ち

壊した側の者の中にすら、まだ根強く生きている。

 そしてこの地には昔から血統信仰のようなモノも残っていたから、義実程の血筋であれば、十二分に威

光を発する事も出来た。

 この小さき村が生き残れてきたのも、多分にそのおかげと言って良いだろう。

 だから義実はその高貴な血をひく唯一の息子を、彼の力程度では流石にれっきとした大武家は無理とし

ても、力ある大豪族くらいの娘は貰ってやろうと考えていた。

 地方豪族であれば尚の事、高貴の血を好む事甚だしい。いかに義実の現在の力が微小であったとして、

それでもその血を欲するに違いない。その代わり出来た子供を幾人か取られてしまうだろうが、悟朗丸で

あればいくらでも子を作れるだろうと義実は思った。

 そして実際それは正しかっただろう。悟朗丸には精気が満ち満ちている。

 義実はそこでこの近辺で最も猛々しく、そして最大の勢力を誇る、円乃(エンノ)家へと使者を遣わす

事とした。その当主、春匡(ハルマサ)には確か妙齢の娘がおり、そしてその美貌も評判であると言う話

を聞いた事があったからだ。

 前々から候補に置いていたのだが、幸いにも未だ未婚であるらしい。

 春匡はこの時代でも特に評判の悪い男であったが、それも時代であると信頼云々には義実は頓着しなか

った。高貴の者らしい無頓着さであったと言えよう。 

 円乃への使者が戻って言うには、春匡は非常にこの婚礼を喜び。評判の才女である、春日(カスガ)を

すぐにでも嫁がせたいとの事だと言う。

 義実は純粋に喜んだ。世が世ならば円乃等と言う素性も解らぬ一豪族などは、歯牙にもかけぬ下賎の者

ではあるが、義実は貴族にありがちな過去の栄光を幻想する者とは違い。力こそ正義のこの時代において、

自分の価値がどれほどまで下がっているのかを、しっかりとその身に受け止めていたのだ。

 それは彼自身が望んだ事では無いが、人並みの苦労をする破目になった事の、せめてもの報いと言えな

くも無い。それは哀しい程過小な報酬ではあったかも知れ無いが。

「悟朗丸、悟朗丸や」

 だから義実は使者を下がらせる間も惜しみ、早速に息子を呼ばせ、この祝すべき事を伝えた。

 悟朗丸の為にも、円乃家が後ろ盾になってくれる事は喜ばしい事である。それほど親身になってくれる

事は期待出来ないが。それでも高貴な血を、それなりに重んじてくれるはずであろう。

 となれば悟朗丸とその子らには決して悪い事にはなりはしまい。そう義実は喜んだのであった。

 もしかすれば息子以上に喜んでいたかも知れない。

 当の悟朗丸も喜んではいた。元々誰の娘だとか、その美醜なども大して考えてはいなかったのである。

単に彼の狂わんばかりの欲望を、少しでも解放する事が出来れば、相手は誰でも良かった。であれば特に

悩む事も無い。

 この小さな村で育った彼にしてみれば、さほど自らを尊貴な者とも思っていなかったし、逆に何をそれ

ほど尊んでいるのかと、世話役の者に問うた事もあるくらいなのだ。

 だから悟朗丸もさして政略に考えをめぐらす事も無く、単純に婚礼を早くにと望んだのである。

 こうして双方同意の上、婚礼の準備はすくすくと進み、円乃家はまるで以前から用意してあったかのよ

うな周到さで、あっという間に婚礼の日を向える事となった。 

 婚礼と言っても大げさな事をする訳では無い。

 昔はそれはそれは荘厳で細かい手順があったと言うが、そんな形式ばったやり方は時代と共に消えて行

き、ごくごく簡単なものとなっている。

 まず嫁の一族郎党が婿の家まで列を作って送り、婿の家で双方初めて出会い、後は神の下に結婚された

事を神主が祝福する。それから数日親睦を深める為に、両家共々無礼講の宴を催すのである。

 この嫁を送る行列と、向える婿側の宴の規模と豪華さが、権力の象徴手段でもあったが。言って見れば

それだけの簡単な事である。何も難しく考える事は無く、悟朗丸もただ待ち切れない表情で、居慣れぬ場

所に居る気持を強く想い、ただただ時間の過ぎるのを待っていた。

 彼は礼服に着替え、威厳を正して静かに座して居る。その服は何処から持ちだして来たのか、非常に立

派な物で、その眼前に置かれた刀も二つと無い程に見事な物であった。

 鞘だけでも煌かんばかりに装飾され、それを見るだけで圧倒されそうな力をも感じる。気品ある丁寧な

作りで、田舎鍛冶ではとてもこうは作れまい。おそらく唯一義実に残され、その血筋を現すに足る業物で

あろう。これだけはいかに生活が苦しくても、この日の為に大事にしまっていたに違いない。

 この時代、刀や礼服と言った道具は、道具だけに止まらず。その身分や格式を証明する、言わばその家

格の高さを示す権威の象徴であり、その家柄そのものでもあったとも言える。

 多少名のある血族ならば、どれ程零落しようとも、先祖伝来の驚く程の宝を大事に持っていたものだ。

 身に付ける悟朗丸も堂々とした体躯で、まるで将軍でもそこに居るかのように見える。祝いの為に集ま

った村人の中には、平伏する者すら居た。彼らも義実がこの村に来てから、このような宝を見たのは始め

てである。

 名族であるからには、それなりの宝を持っているだろうとは思ってはいたが、まさかこれほどとは誰も

考えてはいなかった。

 この姿を見れば、きっと円乃の者も仰天するに違いない。あのような新興の田舎勢力などには、これほ

どの宝はあるまいと、皆誇りにも似た気持ちをいつか抱くようになっていた。

 義実も息子の見事な姿に無き栄華を見るようで、思わず涙が一滴零れ落ちた程だ。

「見事、見事。まるでお主の為にあるような刀ではないか」

 そしてそう言って何度も頷く。

 この刀は凪雲(ナギグモ)と呼ばれる神剣で、義実の先祖が神から授かり、その力を持って悪鬼共を次

々と退治したと伝えられている。一説には初めに切り裂いた最も強き鬼の魂と怨念が宿っているとも言わ

れ、所持者に血を求めさせる妖気を帯びた刀であるとも伝わっていた。

「それ故、妖刀と言う者もおったようだが。それはこの刀を使いこなせぬ者の戯言である。鬼の魂、怨念、

真に結構ではないか。それこそ最も強き鬼を打ち倒した証、一族の誉れである」

 さてこの時代、嫁を得たからには一人前の男としての名を名乗らねばならない。いつまでも悟朗丸では

嫁の実家にも示しが付くまい。

 だから今ここで名を決めねばならない。それはすでに以前から悟朗丸にも伝えられており、その名を考

えておくようにも言っていた。後は当主義実が認めれば、それが公式な名となる。

「なんとする」

「はい、義風と名乗りたく存じます」

「うむ義風か、良い名だ。雲を吹き散らす風であれば、凪雲も大人しく従わざるを得まい」

 義実は快くその名を認め、息子の名を呼び満足気に笑った。

 こうして悟朗丸は義風(ヨシカゼ)と成った。 




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