2.来る


 その声は敢えて言うなら狼の遠吠えに似ていた。甲高く、よく通る声だ。

 ミハイル達が来た反対側の方角から聴こえてくる。

「静かにしていれば、大丈夫だ」

 焚き火が消えたのを確認していたのだろう、ゲオルグが遅れて近くの草むらに入り込む。

 ミハイルはもう少しばらけた方が良いんじゃないかと思ったのだが、彼らの判断を信じ、黙っておく事にし

た。確かにすぐそこに来ているのだから、下手にばらけるよりも、こうして意思の疎通がとれる距離に居た方

が良いのかもしれない。

 暗闇に目が慣れ始めた頃、足音と共に金属が擦り合うあの独特の音が聴こえ、獣人の群れが現れた。

 首を斬って、そのまま獣の首を人の体に縫い付けたような姿で、人間が使っている物に良く似た鎧をまとっ

ている。兜(かぶと)を付けていないのは、大きさや形が合わないからだろうか。とするとこれらは人間から

奪ったか、或いは力尽きた遺体から剥ぎ取った物かもしれない。

 そう思うと死臭まで臭ってくるような気がして、ミハイルは鼻を掌で覆い隠した。

 痕跡に気付いたのだろう、その中の一体がこちらにやってきたが、燃えカスが残っているのを確認すると、

あまり気に留める様子もなく群れの中に戻って行く。

 群れはそれ以外には何の変化もなく、まるで軍隊の行進でも見ているかのように規則正しく歩いている。

 見事に統制の執れたその動きは、人間達よりも優れているように見えた。

 恐怖よりも感嘆の意を持って、ミハイルは彼らを見送っている。

「そろそろ、良いだろう」

 五分か十分かそれ以上か解らないが、結構な体感時間の後にゲオルグがそう告げ、無造作に草むらから出た。

 ルカも肩や腰をほぐしながら続く。

 ミハイルはしばらくそれらを不思議そうに眺めていたが、ふと思い出したように立ち上がり、慌ててもう一

度焚(た)かれた火の側に寄った。

「あれが獣人と呼ばれている者達だ。個々の戦闘能力はそれほど高くないが、見ての通り集団戦が得意で、少

数では熟練の戦士でも勝ち目は無い。だがあいつらは死体漁りが主だから、こちらから姿を見せなければ襲っ

てくる事はない。自分達がわざわざ殺さなくても、いくらでも代わりに戦ってくれる者が居る、という訳だ。

移動の時にわざわざ遠吠えをするのも、我々に知らせる為だという話まである。嘘か本当かは知らんがな。ま、

相手にしない方がいい」

「はいはい、長ったらしい講義はそれまでにして、さっさと休みましょ。睡眠時間の少なさはお肌の大敵なの

よ。あんた達男は知らないだろうけど、女って大変なの。あたしももう若いって歳でもないし・・・・」

「・・・・・・」

 ゲオルグは内に秘める不快感を具体的に表情に出していたが、それ以上は何も言わず体を休めた。ルカも一

通り喋った後、続いて横になる。

 つまり、ミハイルの番という事だ。

「えーーーっと」

「心配しなくても、一晩に一度遭えば多い方で、二度遭う事はまずないわ。安心して見張りなさいな」

「は、はい。ありがとうございます」

 安心して見張るというのも何だかおかしいと思ったが、それ以上は触れないでおいた。

 そんな事より今見たものを忘れられない。鼓動は高鳴ったまま、とても眠れる気分じゃなかったから、見張

りに立てるのは好都合だった。

 もしかしたらそれを見越して見張りを任されたのか。

「やっぱ、すごいな」

 ミハイルは色んな事に感心しきりであった。



 日が昇り、無事夜を越す事ができた。ミハイルにとっては始めての夜、そして始めての獣人との遭遇。初日

としては充分に刺激を受けた。それでも怖くないのは、二人が頼りになるからだ。

 そして、経験は頼りになる。慣れるという事は何よりも優れた技術であると彼は学んだ。

「さて、行こうか」

 ゲオルグに導かれ、獣人達が現れた方角へ歩く。無数の足跡をたどるように進んでいるのは、獣人の地理感

覚を評価しているからだろう。彼らはここに住んでいる。なら彼ら以上にこの地を知る者はいない。

「折角ですから、あいつらの巣まで行ってみましょうか。お宝がごろごろしているわ、きっと」

 ルカの軽口にゲオルグは応えない。彼の言動に反応する事を止めてしまったようだ。必要以上に接する事を

避けている。

 それを見ても不安に思えないのは、昨夜の連携を見ているからだろう。この二人は互いに本当はどう思って

いたとしても、その役割を過不足なくこなす事ができる。そして二人ともミハイルの保護者という点では共通

した思いを抱いているようだ。

 ミハイルが居る限り、最悪の事態にはならないだろう。勿論、ケンカする事はあるだろうけれど。ルカはそ

れを知ってからかっているようにも見える。

「ふふふ」

 何だか仲の悪い兄弟を見ているみたいで、微笑ましく思えてきた。ミハイルが育った教会には人が少なかっ

たし、今ではトゥーリと二人きりのようなものなので、少し嬉しくなる。

 まるで家族ができたようだと。

「あら、何かしら。何か善い事でもあった? お姉さんに話してみなさいな」

「あ、いえ、大した事じゃないんですけど・・・・」

「しッ」

 ゲオルグが頭を低くするよう身振りで示す。

 二人は急いで手頃な岩の陰に潜り込んだ。今度は別々だ。

「・・・・・」

 ゲオルグが無言で指差している方を見ると、少し開けた場所に獣人が一体だけ居る。昨夜の群れからはぐれ

たのだろうか。それともまた別の種族か、別の群れの一員なのか。

 ここから眺めていても良く解らない。群れは暗がりの中で見たし、一体居る獣人までは距離が遠過ぎる。

 鼓動が早くなるのを感じていると、ゲオルグがするすると影伝いに寄ってきた。見張りはルカと交代したら

しい。

「あれは昨日の?」

「かもしれん。たまに群れから外れるのか、外されるのか知らんが、出て行く者が居る事は確認されている。

俺も何度かそういう奴に遭った事がある。奴らにも奴らの法があるのかもしれん。まあ、こちらにとっては好

都合だ。昨夜も言ったように、奴らは少数なら怖くはない。初の実戦相手としては手頃だと思う。

 だが、忘れるなよ。どんな奴でも死に物狂いになると怖い。三対一でも大怪我を負わされる時はある。決し

て舐めてかかるんじゃない。解ったな」

「・・・は、はい」

 ミハイルはなるべく力強く頷けるよう努力してみたが、できていたのか自信はない。

 しかしゲオルグはそんな事おかまいなしに。

「まず俺が行く、お前はその次だ。ルカに援護させるから、背後は気にするな。迷わずそのメイスを叩きつけ

てやれ。奴程度なら、充分効果があるはずだ」

 もう一度頷く前に、彼は無言で走り出す。

「よし」

 ミハイルは一度拳を握り締めてから、その後を追った。

 速い。みるみる距離が離される。どう見てもゲオルグの方が重装備なのに。それだけ差があるという事か。

「くっ」

 ミハイルは諦めず、とにかく走った。後の事なんか考えない。離されない事、それだけを考えていた。

 目は前を行くゲオルグの背中だけを捉えている。

「ウォオオオオオオン!」

 獣人が声を発す。気付いたのだろう。顔がこちらを向き、威嚇(いかく)するように口を開く。意外に歯並

びがいい。

「つぁぁぁぁぁぁああああああッ!!」

 ゲオルグは何の迷いもなく、抜いた斧を両手で握り、勢いのまま横殴りに振り払った。

 甲高い音を立てて、獣人が吹き飛び、鎧がきしむ。

「今だ、ミハイルッ!」

「は、はいッ」

 もつれそうになる足をこらえ、ゲオルグの動きを頭の中で再現し、それに乗せるようにして横殴りにメイス

を振り払った。

 しかし、届かない。

「ギッ!!」

 体勢を崩したミハイルに、体勢を立て直したらしい獣人が剣を振り下ろす。

 刃がゆっくりと頭蓋めがけて降りてくるのが見える。死に触れた気がした。

「あんたなんかにッ、やらせないわよッ!」

 横から突き上げられた黒槍に跳ね飛ばされる剣。獣人の目が真っ黒に見開かれる。

「今よッ!」

「は、はいッ」

 もう一度、もう一度だ。三度は無い。これで決める。

 ミハイルはもう一度ゲオルグの動きをイメージし、それに独りで日々続けてきた訓練を重ね合わせ。

「うぁぁぁぁぁあああああああああああッ!!」

 喉から振り絞るような大声を発し、メイスを頭上から真っ直ぐに振り下ろした。

「ガァアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!!」

 手に骨の砕ける妙に軽い感触がして、すっと抵抗が失われる。

 気付いた時には、獣人はもうぴくりとも動いていなかった。

 頭のつぶれたそれは、より人のように見える。

 血は、赤い。

「う・・・ああ・・・」

「よくやった。ひるまなかったな」

 ミハイルの手からこぼれ落ちたメイスを受け、もう一方の手で肩を叩くゲオルグ。

「でもはらはらしたわ。次からはもっとよく見て攻撃しなさい。危なっかしくて見てられない」

 口調とは反対に、何だか嬉しそうなルカ。

「は、はいッ! あ、ありがとうございましたッ」

 ミハイルはやっと実感した。勝ったのだ。あまり気持ちのいいものではなかったけれど、勝利した。これで

少しは教会の為、トゥーリの為に役に立てた。

 その事が嬉しかった。何よりも。



 戦利品は獣人の鎧と剣。鎧の方はゲオルグの一撃で痛んでいたが、修理すれば使えそうだ。剣の方も多少錆

付いているが、物は悪くない。皮革よりは高く売れるだろう。

 人間の遺体から剥(は)いだ物を、今度は獣人の遺体から剥ぐ。気持ちのいいものではなかったが、取り返

したと思えば良いのかもしれない。仇は討ったと。

 ミハイルはそう自分を納得させる事にした。心は咎(とが)めるが、この地で甘い事は言っていられない。

先の戦いでも、ルカが助けてくれなければ、こうなっていたのはミハイルの方だっただろう。三対一でかかっ

た事も、申し訳ないと考える方が傲慢(ごうまん)なのだ。

 獣を狩っていた時には思わなかった事を考えてしまうのは、獣人があまりにも人に似過ぎているからかもし

れない。

 身勝手なものだと、自分の事ながら思う。

 それでも心を止められないのが人間か。

「戦闘が終わったら武具の手入れをしておけ。もし破損していたらすぐに直しておくんだ。そのたった一つの

不備で命を失う事は多い」

 ゲオルグに諭され、自身の装備を確認する。見る限り異常ない。メイスも血まみれになった以外は平素と変

わりない。獣人が兜を被っていなかった事が幸いした。

 ルカの方を見ると、戦利品の鎧をばらしている所だった。そのままだとかさ張るので、部品にばらして運び

やすくする。部品のまま売ってもそこそこ金になるそうだ。多分修理用に使われるのだろう。

「どうやら下っ端ね。普通の品みたい。でも次はもっと稼げるわ。こいつがいけたんなら大丈夫よ」

 ミハイルはまだよく解らなかったが、そう思っておく事にした。その方が、多分良いのだろう。

 こうして彼らはしばらくの間、思い思いの時間を過ごした。



 今回はこれ以上進まず、一度街へ引き返す事にした。

 初実戦ができ、目的を達したという事らしい。ミハイルは知らなかったが、初めから二人は長居するつもり

はなかったようだ。どちらかと言えば軽装なのもその為だろう。

 中には何ヶ月も潜るようなパーティも居るが、多くは2、3日、長くても一月程度で帰るらしい。特に初心

者は二日も行けば荷が重い。

 実際、ミハイルも一度の実戦で限界だった。

 傷を負った訳ではないが、生と死の狭間に常に立っているような緊張感が、彼から戦う為の力を根こそぎ奪

ってしまった。体力とか疲労とかではなく、もっと人の奥底にある大事なものを。

 戦利品は獣皮と金属片のみ。大した稼ぎではないが、全部売ればまとまった金にはなる。

 ルカが交渉してくれたおかげで少し高く売る事ができたし、誰も怪我をしなかった。万々歳と言えるのかも

しれない。

 でもミハイルはこの結果に納得していなかった。

 勿論、自分の結果にだ。

 結局二人に助けられるしかないとしても、もう少し上手く働けたのではないか。そう思うとあれもこれもと

思い出す度に自己嫌悪に陥(おちい)る。

 物語に出てくる英雄のようにはいかなくても、パーティの役に立ち、もっと充実感を持って終えられるはず

だったのに。終わってみれば戦果も戦績もぱっとしない。二人は褒めてくれたが、自分がどうしても情けなく

思え。張り切って出てきた事、トゥーリに自信満々に言ったセリフを思い出すと、恥ずかしくて堪(たま)ら

なくなる。

「 顔から火が出そうって、この事だ」

 そんなミハイルを見て、しかし二人は何も言わない。

 きっと似たような経験をしているからだろう。誰だって実際にやるまでは楽観し、自分なら少しは上手くで

きるはずだと傲慢でいられる。それはその人が嫌な人だとか、そういう事ではない。人間として自然な感情な

のだ。

 そうだからこそ人は挑戦し、立ち向かう事ができる。

 でもそれが時に恥ずかしい結果を招くのも事実だ。誠実な人間であればあるだけ、自己嫌悪に陥る。

 もしかしたら、それこそが本当の第一の試練なのかもしれない。自分というものを思い知り、足らない事を

知る。全てはそこから始まるのだと。

 三人は霧から出てからは終始無言で、最低限の会話しか交わさなかった。

 ただぎすぎすした雰囲気ではなく。例えて言うなら冠婚葬祭で厳粛にしているような、そんな気分だろうか。

「まぁ、よく無事で帰りましたね。安心致しましたわ。ささ、お食事をしていって下さい。皆様を想って、腕

によりをかけましたから」

 と、満面の笑顔でトゥーリが出してくれた食事は、具がほとんど無いスープと硬い黒ずんだパンだけだった

が、スープの味は抜群に美味かった。何でダシをとったのかは知りたくもないが、精一杯の心遣いである事は

解る。

 ゲオルグもルカもこの教会の経済状態を知っている。初めから追加報酬など期待していない。喜んで彼女の

気持ちを受けた。

 スープを飲んでいるとあたたかさと共に自然と笑顔になり、ようやくいい雰囲気で話せるようになった。ト

ゥーリの発する柔らかいオーラもそれを助けている。母性そのものであるようなあたたかさが。

 祓魔師ミハイルの始めての冒険は、こうして終わりを迎えた。



 しかし本当の冒険はここからだった。

 ミハイルは今、緊張している。

 戦闘前に感じたものとは違う。むしろそれよりも強い。

 ここは小さな酒場。といってもここヴィグリムの街の酒場は酒と食事を出すだけの店ではない。遠路訪れる

探索者の為、情報から寝床、他種多様な快楽まであらゆるものを提供している。

 元々それらは他の街と同じように別々に営業していたのだが、溢れる程の客に対応する為、一つの店で大抵

の事はできるようにしてしまった。それがヴィグリムでいう酒場である。

 何故そう呼ばれるのかは解らない。自然とそう呼ばれるようになった。

 勿論、それは総称、通称で、店にはそれぞれ名が付けられている。それは共通していて、何とか亭、という

風になっている。この街にある酒場の数は多く、教会の倍もあると言う人も居るほどだ。

 探索者の中でも家まで買える者は少数で、大体が教会か酒場にお世話になる事になるからだ。大きな教会に

所属する者の中にも、こっちの方が気楽だとわざわざ酒場暮らしをする者が多いと聞く。

 教会とは深い繋がりがあり、望めば紹介し合い、相互扶助(そうごふじょ)の関係でもあるようだ。

 酒場の規模や雰囲気も教会以上に様々で、その響きには似つかわしくない高級店から屋台に毛が生えたよう

なものまである。が、こちらは教会と違い、仲良くやっているらしい。

 人間の需要は様々でそれに応えるにはそれと同じだけの多種多様な店が要る。どの店も貴賎の別はなく、酒

場という全体としてどれも必要不可欠なもの。

 つまり、全体で一つの店と捉える方があっている。

 実際、高級店の方が儲かっているという事もないし、安い店に行くと馬鹿にされるという事も無い。有名探

索者の中にも古ぼけた店を好んで利用している者がいるし、店も客を選ばない。勿論、支払うものが無ければ

客とは認められないが。

 酒場の繋がりは、教会や探索者同士の抱くものとは違い、郷土愛、愛国心に似ている。

 人口が急増した事で、一番初めに大きな混乱を生じたのが彼らサービス業に携わる者達だ。宿はパンクし、

酒場も来る人を収容できず、溢れた酔っ払いや乱暴者で本当に酷いものだったそうだ。

 その中で彼らが選んだ防衛手段が一つにまとまる事。そこには外から来た者達に好き勝手させない、という

街人達の想いがあり。訪問者の急増という奔流にさらされ、自分達の暮らしがずたずたに切り裂かれるのを恐

れた気持ちが、根底にある。

 外から来た者の方が圧倒的に多くなったからこそ、彼らの結び付きは強くなる。彼らの団結は、この大地と

先祖から流れてきた歴史から成り立っているのである。

 それがどれだけ強くても、不思議ではない。

 だが当然、ミハイルはそんなものに緊張している訳ではない。

 単純に、この街の若者にとって、酒場というものは大人への階段であるからだ。それは自分で稼げるように

なって初めて来れる、という意味であり。文字通りの意味でもある。

 この街の男の最初の相手となるのは、酒場女が圧倒的に多い。

 ゲオルグが紹介してくれた酒場だから、初めから過度の期待はしていないが、それでもやはり健康な男子と

なれば落ち着いていられない。

 何しろ彼は酒場へ初めて来たのだ。取り合えず座ってみたが、何をしていいか解らない。

 目はきょろきょろと泳ぎ、手は常に何かをこねまわし、解りやすい感じでゲオルグの到着を待っている。

 酒場女はそれを見て、おかしそうに、或いはある種の大きな興味を持って、流し目を送っている。

 勿論、そんな事に気付く余裕は無い。

 ゲオルグは少し用があって遅れるから先にやっていてくれ、との事だったが。大人しく待って一緒に来れば

良かったとミハイルは心底後悔している。

 酒場というよりは飯屋といった雰囲気の店だが、大人の女も多いし、客達に惜しげもなく愛想を振りまいて

いる。今夜その中の一人と・・・・まさか、じ、自分が・・・・・何て考え出すと妄想は止まらない。

 誘ってくれる時にゲオルグが言った。

「誰でもそうだ。そういう時は気晴らしに限る」

 と言った言葉も彼の心を刺激する。

 気を晴らす。一体どう晴らすのだろう。ただ食事をするだけなら、そう言えば良いではないか。それなのに、

含みを持たす言い方をしたという事は・・・つまり・・・それは・・・。

「駄目だ、駄目だ。僕は何を考えているんだ」

 トゥーリに頭の中でごめんなさい、ごめんなさいと謝りながら、ミハイルはもう初探索の事は忘れてしまっ

ていた。獣人なんて相手にもならない。青少年が抱える煩悩という大敵が、彼を圧倒的な力で呑み込もうとし

ている。

「ああ、ごめんなさい。ごめんなさい」

 それでも必死に誘惑を振り切り、目をつむってひたすらに飯をかき込んでいるのは、彼の純粋さを証明する

に充分である。

 ゲオルグは来ない。

 ゲオルグが現れたのは、たっぷり三時間も待った後だった。

 一人飯を食らい、何かに祈り続けているミハイルを見て、彼は呆れもし、感心もした。ミハイルが深読みし

ていたのではなく、ゲオルグの言葉は文字通りの意味だったのである。

 気分を変えるにはこれが一番良い方法だ。初めてであるなら尚更だろう。男はそれで自信を取り戻し、自分

を思い出す。男である事を。だからもう一度踏み出せる。

 まあ、相手によっては逆に自信を失う事にもなるが。この店ならばそういう問題はないはずだった。

 それが何故、こんな事になっているのか。

 ゲオルグは溜息を吐(つ)く。

 堅物といえる程に真面目な男だが、禁欲主義者ではない。必要以上に求めはしないが、否定もしない。

 教会に属するとは言え、一介の戦士にそこまで制約は無い。

 祓魔師(ふつまし)もそうだ。彼らはあくまでも戦闘要員であり、教会の盾であり剣。死や血肉は彼らにと

って不浄ではない。

 それらを禁じられるのは全てを神に捧げ、神と共に生きる司祭や修道女くらいのもので、それもそうなるま

では禁じられないし、望めばその地位を還す事もできる。人としての幸せや行いを否定すべきではない。それ

は神に許された事なのだから、という訳だ。

 勿論、罪になるような事を犯せば、厳罰に処せられる。その点は一般の人より厳しいかもしれない。

 ここでミハイルが自然に従おうと、罰せられる事はない。むしろ奨励(しょうれい)される。

 彼が何度も名前を呟いているトゥーリにも、生真面目なゲオルグは許可を取っている。彼女もまたそれを受

け入れ、一人前の男になるのだと喜んでさえいた風であるのに、当の本人がこうなるとは誰が予想したか。

「全く、探索中にあれだけ堂々としていた男と同じ人間とは思えないな」

 しかしまあ、それが彼のいい所でもあるのだろう。ならば無理に啓(ひら)かせる事は、自然の摂理に逆ら

う事かもしれない。ゲオルグはその事を諦めた。

 そして席に着き、ミハイルの肩を叩き、びくっと起き上がった彼をなだめながら、代わりに自分の若い頃の

話をしてやった。

 初めての探索。初めての挫折。我ながら本当に酷いものだった。ミハイルの比ではない。今の自分を思うと、

あの頃が夢のようにも思える。しかしそれは事実なのだ。

 ミハイルは始めはよく解らない顔をしていたが、聞いてる内にあの凛とした表情を取り戻した。

 今ではもう酒場女に見向きもしない。

 ゲオルグは大声で笑いそうになった。でも真剣に自分の話を聞いてくれるミハイルの態度には感謝している。

何だか懺悔でもしているかのような気分になるが、悪い気持ちではなかった。

 もしかしたら祓魔師なんぞよりもそっちの方が向いているのかもしれない。この性格で、いわゆる清らかな

体のままであれば、運次第で相当上の方までいけるのではないか。

 だがそれは彼の夢を潰す道である。それに彼が出世したからといって、あの教会が裕福になるとは限らない。

 ゲオルグは詰まらない考えは捨てた。

(いいさ、今日はとことん付き合ってやろう。そして、とことん付き合ってもらおう)

 彼はミハイルをどうしてやれば良いのかを真剣に考え始めていた。

 仕事は仕事と割り切る彼にしてみれば、これは異例の事であったが、本人が自覚していたかどうか解らない。

 ミハイルの方は勿論何も覚らず、一生懸命にその話を聞いている。

 おかしな夜になったが、それでも二人には充実した一夜であったようだ。




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