3.目的


 その頃ルカは解放されていた。

 今回の探索で罪を償ったという訳だ。例え罰でもきっちり報酬を払ってくれるのが教会の良い所で、自由と

共にある程度まとまったお金も手に入っている。

「うーん、何に使おうかしら」

 特に必要な物は無い。待っている誰かが居る訳でもない。

 ふと思い出すのはミハイルの顔。お坊ちゃん然としているが、芯は通っているおかしな子だった。

「うふふ、あの子は将来良い男になるわね。今から手を付けておくべきかしら」

 そこにゲオルグのしかめ面が浮かぶ。

「何よッ、妄想でまで邪魔する気? あんた、ほんとはあたしの事好きなんじゃないのッ」

 顔は笑っている。

 探索は楽しかった。

 似たような事は何度か経験があるし、もっと条件の良い仕事はいくらでもあった。でもこんなに楽しかった

のは久しぶりだ。何も考えず、目指すものの為だけに戦っていたあの頃を思い出すよう。

「あたしにも男だった時があるのよねぇ。ああ、思い出すわ。男であるからこその喜び。男同士だからこそで

きる繋がり。女である今となっては羨ましくなるわね」

 念の為に言っておくが、ルカの身体は産まれた時から今の今まで何も変わっていない。

「こんな気持ちになるのも、歳とった証拠かしら、嫌ねぇ」

 そういえばお肌ののりも悪くなってきたし、無理をするとすぐに体調に響く。まだまだいけると思いつつ、

自分が変わっていくのははっきりと解った。

「でも規則正しい生活なんて夢よ。王侯貴族ならともかく、あたしら庶民にはとても手が出せない。地位も金

も無い人間は、それ以外の全てのものを削って稼ぐしかない。結局、そうなのよね」

 しかし幸い、金はある。すぐになくなってしまうだろうが、頑張れば一月くらい持つかもしれない。景気よ

く使ったとしても、半月は生きられるだろう。

「久しぶりに、顔出してみようかしら」

 ルカは馴染みの店に顔出す事にした。

 ここの所良い事が無かった。息抜きに行ってみるのも良いかもしれない。

「そろそろ開いている頃よね」

 金色の盲目亭は出会いとささやかな食事、寝床を提供する中規模の酒場である。繁華街の路地に設置された

この酒場には、ルカの同好の士がよく集う。いや、それ専門と言っていい。

 中には気まぐれに異性を求める事もあるが、大抵は同性を求め、一夜の愛を遂げている。望んでいる事は皆

同じ、割合簡単に成功するようだ。そのせいか痴情のもつれというやつも多く、喧騒が絶えない。

 ただし、この店が雇った衛兵は皆優秀で数も多く、やり過ぎれば命は無い。死にたくなければ後腐れなく別

れるしかなく、そういう意味でもこの店は重宝されている。地位や資金を持つ者までしばしばこの店を訪れる

のは、そういう面でのサポートが優れているからだろう。

 ルカはここの常連ではなく元は衛兵で、多少知られていた。盗賊的な技術といい、戦闘能力といい、この店

の衛兵の中でも上位に位置していたようだ。

 他の皆と同じように、出生は解らない。捨て子で、男娼、娼婦達に育てられたという噂もある。本人は肯定

も否定もしないが、実際そういう境遇の子供は多い。生きられただけでも運が良かったといえる。

 例えそういう趣味の人に育てられたとしても、必ずしも同じ趣味になるという事は無いのだが、ルカはそち

らの才能があったのか、衛兵になるまでは男女問わず相手をし、稼いでいたようである。

 おかげで色々と援助してくれる人もできたし、実に多くの事を学んだ。悪くない人生だったと思っているし、

後悔もしていない。

 今の自分があるのはこの時の頑張りがあったからだ。それを否定する事はしたくない。

 だから余裕のある時にしかここに顔を出さない。必要以上に仲間との繋がりを利用する事も無い。彼はここ

とは別の場所で立ちたかったのだ。ここに居る人達とはまた別の人達と一緒に。

 過去の自分を否定したくはないが、いつまでも過去と繋がっていたくもなかった。何故そう思うのかは解ら

ない。とにかく、そうしたかった。

 それでもこうして戻ってくるのは矛盾しているが、そんなものだとも思う。

「ここはいつも変わらないわね」

 煌(きら)びやかに飾りたて、ごてごてと着飾っている。全てに化粧しているかのようで、慣れるまでは息

苦しかったし、今でも好きではない。

 それでも戻ってくるのは、結局他に居場所など作れていないからだ。

「ようするに、未練たらしいって事かしら。あたしもやっぱり、女よね」

 客として泊まっている限り、必要以上に寄ってくる事は無い。誰と話さずともゆったり過ごす事はできる。

仲間意識はあっても、ねっとりとした家族意識のようなものはない。勿論、顔見知りを見かけたら声をかける

が、その程度のもの。

 ルカは数日過ごしてみたが、何となく気まずくなって外に出た。

 思い出すのはミハイルとゲオルグと過ごした時間。たった数日だったけれど、心から抜けなくなっている。

それだけ居心地の良い空間だった。ゲオルグの癪(しゃく)に障る態度さえ、懐かしく思う。

「あの二人、今頃何やっているのかしら」

 そんな事を考えていると、いつの間にか聖アネス教会に来ていた。ぼろぼろで照明も満足にない小さな教会

だけれど、黄金の盲目亭よりも懐かしく、あたたかく感じる。

 それはこの場所に家族を感じるからかもしれない。

 シスターの出してくれた料理を思い出すと胸の辺りがあたたかくなってくる。

「あたしって、ほんとはマザコンだったのかしら」

 母の愛にずっと飢えていたのか。だから自分が母になろうとしたのか。女になりたかったのか。

 解らない。でも今にして思うとその程度の理由だったような気もする。

「泊めて・・・・くれるわよね」

 財布にはまだずっしりと金が入っている。土産でも持っていけば、喜んで迎えてもらえるだろうか。

 解らないが、もうその想いを止められそうになかった。



 結局ミハイル、ゲオルグは朝まで二人で飲み明かした。望んだようにはならなかったが、不思議と二人は満

ち足りていた。勿論、多少の後悔もあるだろうが。

 足は聖アネス教会へと向かう。ゲオルグにとってもそうする事が当然であるように思えた。ミハイルは酔っ

ていないし、送る必要も無かったのだが、多分彼もまたそこにあたたかいものを見出していたのだろう。

 しかしすぐ後悔する事になった。

「あら、二人で朝帰りなんて、やるじゃない。でも、ミハイルちゃんには早いんじゃないかしら。まさかゲオ

ちゃんもそういう趣味だったなんて、知らなかったけど」

 顔を真っ赤にし、慌てて否定するミハイル。

 それを仏頂面で眺めるゲオルグ。

 静かに微笑むシスター、トゥーリ。

 不思議な事にそんな光景が当たり前の、懐かしいものに思えた。不愉快な顔をしているゲオルグさえそれは

変わらない。ゲオちゃんなどと呼ばれた事も今は気にならなかった。それよりも何故こんなにしっくり馴染ん

でしまうのかと疑問に思う。

「・・・・・・・」

 ゲオルグは首を払い。目的を失敗した事をトゥーリに報告した。何だか変な役回りだが、それが義務である

かのように思えたのだ。できの悪い弟を庇(かば)うようにそうする事が。

 トゥーリは表情一つ変えずそれを受け入れ。

「あら、それは残念でしたわ」

 と言ったのみである。何となくそこに安堵感を見て取れたのは考えすぎだったのかどうか。

「それでは、朝ご飯にしましょう。ルカさんから食材をいただいたので、今朝は久しぶりのご馳走ですよ。お

客様もたくさん居ますし、楽しい食事になりますわね」

 彼女とルカは手際よく支度を済ます。すでに用意できていたのだろう。温かい具のいっぱい入ったスープ、

焼きたてのパン、それに野菜炒めのようなものが並んでいる。

 ミハイルは思わず唾を飲んだ。こんな豪華な食卓を見たのは初めてだ。

「さあ、皆さん。いただきましょう。神様に今日と言う日を感謝して」

「いただきます!」

 四人は一時の団欒(だんらん)を過ごした。



 ルカはそのまま聖アネス教会に住むようになり、ゲオルグも毎日のように訪れるようになった。台所事情が

悪くなってくると当たり前のように三人パーティを組んで霧に出かけ、浅い所を探索して帰ってくる。任務で

はなく、生活の糧を得る為の狩りをする。

 その中でミハイルはめきめきと腕を上げ、実戦経験を積む事で戦士としての技量が目覚しく成長した。ゲオ

ルグ、ルカには遠く及ばないが、自然に連携を取る事ができ、初めてきた時のようにおどおどする事はなくな

り、堂々と振舞っている。

 知識も得、今では一人でも探索に行けるまでになった。獣人一人相手なら、まず負ける事はないだろう。探

索者として半人前くらいにはなったのかもしれない。

 そこで腕試ししてみようという事になった。

 もう少し奥へ進んでみるのである。

 彼らが今探索しているのは霧地帯の外れ、霧の影響は少なく、外界とほとんど変わらない土地。手強いのは

獣人くらいで、集団にならなければ恐れる必要は無い。

 危ないと思えばすぐに街に帰れるし、危険も少ない。しかし実りもまた少ない。貧乏教会で暮らすにはその

程度でも充分だが、ミハイルは少しでも教会を楽にしたいと考えている。

 祓魔師として生きるからには、そして頼りになる仲間が二人も居るのだから、もう少し欲を出したい。装備

や道具ももっと良い物が欲しいし、このままぼんやりと歳をとっていくには若過ぎる。

 少し自信が付いた今、もっと上を目指そうと考えるのは当然だった。

 ルカもそれを主張した。

「ちょっと奥に進むくらい、大した事ないわよ。ゲオちゃんだって、あたしだってもっと深く入った事が何度

もあるんだし。そろそろいい頃合じゃない」

 それに抗するのがゲオルグ。彼は諸事慎重である。

「確かに俺とお前は経験がある。本格的な調査ができる程度には積んでいる。だが、たった二人では高が知れ

ている。ミハイルも奥に行けば当てにならなくなるし、三人で進むには危険すぎる。とても了承はできないな」

 だがルカは退かない。いい加減彼も痺れを切らしているのだ。元々落ち着いてお茶を飲んでいるような男で

はないし、無謀な事はしなくても、積極的に物事を進めていきたいと考える方である。

「まったく、これだから石頭は。そんな奥まで行くなんて言ってないでしょ。ちょっとよ、ちょっと。ミハイ

ルちゃんだって子供じゃないんだから。前々から言おうと思ってたけど、あんたちょっと過保護過ぎるわよ」

「しかし、私には責任が・・・」

「何が責任よ。一体あんたが誰のどんな責任を持っていると言うの。ミハイルちゃんにだって、あたしにだっ

て、それにシスターにだって、何の責任もありはしないじゃない」

「・・・・・・」

 ゲオルグは珍しくルカに反論しなかった。それは彼自身がその事を誰よりも解っていたからだろう。

「・・・・・解った。確かにお前の言う通りだ。ミハイルが望むなら、俺に異論はない」

 結局ルカに押し切られる格好になったのが悔しかったのか、最後の決断をミハイルに託した。

 となるとミハイルの答えは一つである。

「行きましょう。行ける所まで。ただ無理はしない。それでいいですね」

 誰にも異論は無かった。



 準備はいつもより慎重に行われた。何でもそうだが、準備段階で成功か失敗かの半分は決まってしまう。偶

然や不測の事態というやつも多く起こるから一概にこうとは言えないが、初めから無理なものはどう足掻いて

も無理な事の方が多い。

 何があっても備えておけば被害を最小限に食い止める事ができるし、それが命と直結しているとすれば尚更

慎重になる。

 とはいえ、基本的な事は同じだから、そこまで時間がかかる事は無く。いつも以上に多く、重い荷物をどう

分担するかに頭を悩ませた以外は、割合順調だった。

 そしてゆっくり一晩休息と食事を取り、明けて早朝。

「腕がなるわ。天気も良いし、出発の日としては最高ね」

「フン、お前の顔を見ると折角の気分も曇るがな」

「あーら、また照れ隠し? うぶな男もいいけど、過ぎると味気ないものよ」

 二人の軽口もいつも通りだったが、ミハイルはそこに隠しようのない緊迫したものを感じ取った。

 自分で出した答えは、もしかしたら余りに不遜なものだったんじゃないか。世間知らずが出した甘い結論だ

ったんじゃないだろうか。

 でも、それ以上にわくわくしてくる衝動を抑えられない。この教会の為とか、人々の平和の為とか色々言っ

ていても、結局自分は危険と冒険が好きなだけなんじゃないかと思わされる。

「そうではない、と思いたいけど。やっぱり僕も男って事だろうか」

 別に男が全て暴力的とか、危険大好きとか、そんな事を思う訳じゃないけど。どこかにそういうものはある

のかもしれない。自然に、どうしようもない部分として。

 ゲオルグもルカもそこは同じなんじゃないか。二人ともそれなりに稼いでいるだろうし、色々な知識も技術

も持っているようだから、今の仕事を辞めても食べる事はできるだろう。

 でもそうしない。危険であると解っていて、いやだからこそそこに飛び込もうとする。どこかそれを望む自

分が在る事を、否定できない。否定しない。受け入れて、二人は今ここに居る。

「僕にはそれがあるのかな」

 胸に手をあて、考えてみる。

 と、前触れなく、酒場で見た魅力的なお姉さん達のそれを思い出した。

 思わず顔が赤らみ、しどろもどろになる。

「ふうむ、始めてみる反応だ」

「大物って事よ、きっとね」

 それを見るゲオルグ、ルカの反応はまちまちだが、どちらも悪くは受取っていない。ミハイルの人徳のなせ

る業というよりは、二人の本質が正直者にあるという事だろう。



 まずはいつも通り霧地帯の縁を縫うように進む。霧地帯はかなり広いので、このままずっと進んで行っても

違った景色をいくつも見る事ができるのだろう。

 そこには見た事もない動植物、そして霧によって変化させられた化け物達がうようよしている。

 探索者の中にはそういう風に長距離移動しながら商隊を組んで交易している者達もいる。霧から得られる物

は何でも需要があるから、そういう商売も充分に成り立つし、もしかしたら一番安全で割りのいい商売なのか

もしれない。

 でもそれをする為には多くの資金と人脈が必要だ。一介の祓魔師風情が手を出せるような事じゃない。

 だから多くの探索者達は深奥へ進む道を選ぶ。それが最も手っ取り早く稼げ、危険が一番大きい方法。つま

り彼らの欲求を全て満たしてくれるという訳だ。

「今回はここから奥に向かう」

 以前、初めてミハイルが獣人を倒した場所の付近でゲオルグがそう言った。

 言われてみると確かに獣道のようなものが別の方角に付いている。多くの探索者、そして霧生物が通ったの

だろう、はっきりと跡になっていて、迷う事はない。

「足跡は多いが、そのほとんどは人間達のものだ。元々霧生物が使っていた道だろうが、今となっては人以外

に使う者は居ない。この道を使っていた生物はとうに全滅させられたそうだ。まさに、人が切り拓いたのだ」

 そんな風に言われると、足跡が血痕のようにも見えてくる。

 霧には人に奪われた、制圧された地も多い。地図もあれば、中継地点のような設備さえあるそうだ。

 でも逆に言うと、それを辿っている限り実りが少ない事を意味する。安全か、それとも利益か、どちらを選

ぶかで進路は随分変わってくる。

 ミハイル達はミハイルを慣れさせるのが主目的だから、無理をせず道なりに進んでいるが、ミハイルにもこ

の道を外れたらどうなるのだろう、という好奇心は常にあった。

「いつか、もっと力を付けたら」

 きっとゲオルグもルカも似たような思いを抱いているはずだ。

 不思議と縁あって一緒に生活する事になり、この二人の事はいくらか解ってきた。言ったら怒るかもしれな

いが、この二人はどこか似ている。

 ゲオルグは見たままだし、ルカもなんだかんだ言いながらミハイルを第一に考えてくれている。まるで兄が

二人できたようで嬉しかった。

 自分を含めてこの三人は多分気質が似ているのだろうとミハイルは考えている。求めている物も、したい事

も多分同じ。だからこそ惹かれあい、上手くいっている。

 進むべき先が同じなら、助け合える。もし別の道を行く事になっても、最終的には同じ場所で会えるだろう。

 その絆が家族のようで、嬉しい。

「ミハイル、ここからはお前が先頭だ」

 驚いてルカの方を見ると、彼も頷いてくれた。

 心の準備なんかできていなかったが、いつまでも二人の後ろに居る訳にはいかない。足を引っ張る存在では

なく、仲間として信頼されるようになりたい。

「解りました」

 力強く頷き返していた。力量はまだ足りなくても、覚悟と気持ちだけは示したい。

 ミハイル、ルカ、ゲオルグ、の順に隊列を変えた。ルカが左より、ゲオルグが右よりの小さな細長い三角形

を描くような陣形だ。

 少人数でも居る位置によって大きく変わる。何度も探索したおかげで、そのくらいの事は解っていた。そし

てその中でやるべき自分の役割も。

 でもこうして先頭に立つのは初めてだ。

 ミハイルを先頭に立たせたのは、多分この先が割合安全の確実な場所という事なのだろう。しかしそう思っ

ていても緊張する。

 先頭を進むという事は、最も危険にさらされるという他に、どう動くかで後に続く二人の行動や結果に大き

く影響を及ぼすという事になる。大抵は最も信頼できるか、行動力と柔軟性のある人を配置する位置で、ミハ

イルが配される場所ではない。

 確かにいい経験にはなるだろうが、本当に自分で良いのかという疑問に答えを出す事はできない。

 迷いと言い換えてもいい。

「ふぅ・・・・・はぁ・・・・・ふぅ・・・・はぁ・・・・」

 自然と息が荒くなってくる。

「大丈夫だ、ミハイル。まだ何も起きていない。緊張するのは早すぎる」

 自分にそう言い聞かせながら、緊張を解こうとするが。そう思えば思う程体が強張ってくる。筋肉や神経ま

でもが緊張し、硬質化していくのが解った。あまりいい傾向ではない。

 周囲の雰囲気もそうだ。

 ここは今まで居た場所とは違う。霧と現実の中間ではなく、明らかに霧に包まれていた場所。その影響はは

っきり出ていて、見知った物を探す方が難しい。

 中には元の形を留めているものもあったが、そのほとんどは禍々しく歪んでいる。変質した全てが現す光景

は、まるで影の世界のように現実味をもたず、それがまたミハイルの心を塞いでいく。圧迫され、小さな箱に

でも押し込められていくかのようだ。

 踏み出す足ははっきりと重く。呼吸するだけの事にかなりの力を要した。

 まるで病にでもかかったかのようで、ここに居るだけで疲労させられる。

 これが霧。

 未知にして危険の巣窟。

 そしてそれ以上の富が眠る場所。

「・・・・・・・これが本当の霧か・・・・」

 だが、そうとしてもここはまだ始まりに過ぎない。初級も初級。子供でさえ目隠しで通れるような場所。そ

んな場所でさえこうなのだ。自分の非力さを思い知らされる。

 ミハイルは自分が先頭に立たされた事の意味を、今深く理解した。



 入ってきた道が獣道である事を意味するように、この場所には森が広がっている。天が隠れる程ではないが、

日が薄らぐくらいには広がり、その存在を主張している。

 草も丈はそれほどでもないが、みっしりと地面を覆っていて、踏みしめる度に青くさい匂いが漂う。

 緑の匂いは外の世界と似ている。つまりその中身、本質が変わっている訳ではない。草花はその上辺、姿を

変えられただけなのだろう。

 先へ進めば違ってくるのかもしれないが、少なくとも今はまだ完全に異世界という訳ではない。

「雰囲気に飲まれるな。いつだって、どこだって、結局は同じじゃないか」

 自分にそう言い聞かせ、わざと草を踏みしめて進む。匂いを立たせれば、それだけ現実と繋がっていられる

ような気がしたからだ。

 ゲオルグもルカも一言も発しない。いつでもサポートできるよう気を配っているのだろう。きつそうな感じ

は受けないが、余裕がある訳でもない。

 霧地帯ではいつも何かしら不可思議な事が起こっているし、それが今目の前で起こらないとは限らない。安

全な道と言っても、何が起こるかは行って見ないと解らないのだ。

 昨日までは安全でも、今日は危険という事もある。

 だから二人も緊張している。そしてそれを楽しんでいる。

 そう思えた。

「そうだ。何があったとしても、二人がいる。僕が全て背負う必要は無いんだ。先頭にいる、それだけの事さ」

 少しだけ気が楽になった。普段の自分を思い出し、足取りが軽くなる。それは何も難しい事ではなかったは

ずだ。毎日当たり前のようにやってきた事、緊張する理由は無い。

「・・・・・・・・・」

 息切れも治まっている。呼吸は速いが、荒くはない。

「よし」

 確認して、もう一度力強く踏みしめる。

 青い匂いが立ち、力が湧いた。一人でメイスを振っていた時、いつもこの匂いと共にあった。体が覚えてい

る。雨の匂いと同じくらい懐かしい匂いだ。

「ミハイル」

 ゲオルグが前方を指差した。

 見ると、草地の一部が焼け焦げ、地肌が覗いている。その側には黒くこげた何かが散らばっていて、炎の痕

である事を知らせている。

「戦闘の跡というには小さ過ぎる。おそらく、罠か何かだろう」

 知恵のある霧生物が罠を仕掛ける事も珍しくないらしい。それなら人の出入りの多い場所に罠を仕掛ける。

これは当然の事に思えた。違和感はあったが。

「あまり時間が経っているようには思えない。同業者に会えるかもな」

 ゲオルグの言葉は嬉しそうではなく、逆に困惑して聴こえる。

 探索者は人類の縮図と言えるくらい様々な人間がいる。探索中、同業者に会う事は珍しくないが、必ずしも

良い事ではない。中には明らかに敵意を持たれる場合もあるようだ。

「心配してもしょうがないわよ。会ってみれば、解る事。さあ、進みましょう」

 ルカの言う通りだ。

 ミハイルは迷いを捨てた。

 日がある内にできるだけ進んでおいた方がいい。誰かが先に居るという事は、その間の危険を引き受けてく

れたという事でもある。

 安全といえば、これ以上安全な道は無い。

 緊張もすっかりとれていた。




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