5.予感


 収穫はあった。ここで一度戻っても良かったのだが、彼らはもう少し進んでみる事にしたようだ。珍しくゲオルグも止

めはしなかった事を考えると、ミハイルに体験させたい事はもっと先にあるのだろう。

 ルカを見直したという事もあるのかもしれない。あの黒光した槍があれば、この付近の獣など相手にならない。あのお

ちゃらけた自信もこの武器がもたらしているものだろう、とゲオルグは一人納得した。

 ミハイルの方は始めから戦力に入れていない。だからいざとなれば自分が囮になって逃がすような事も考えていたのだ

が、その心配は無くなった。ルカに頼るのは癪(しゃく)だが仕方ない。

「俺のわがままでミハイルの将来を閉ざす訳にはいかんしな」

 三人は再び道なりに進み始める。道を逸れるつもりはない。それはルカの力を知った今でも同じだ。全てを加味しても

この場所で油断できる理由にはならない。

「少し、休憩を取ろう」

 ルカの不満そうな顔は無視する。

 疲れを感じる前に休息をとらなければ意味がない、とゲオルグは考えている。これだけは誰にも譲るつもりはない。そ

の理由は彼自身が体験した苦い過去にあるのだが、それを語るつもりはない。

 だがもしそれを話せる事ができる人が、時が来たとしたら、それは人として誰よりも幸せな事なのかもしれない。

 半時ほど休み、再び歩き出す。速度が少しずつ遅くなっているのは意図したものか、それとも何事かを自然と感じ取り、

警戒しているのか。自分でもよく解らないが、霧に入るといつもそうなる。どんなに浅い階層に居てもしこりのような不

安が付きまとう。決して逃れられないのだとでも告げられているかのように。

 安心したくないのではなく、できないのである。現実に。

「そろそろか」

「そうね、でもまだ早いかもしれないわ」

「いや、ここの生物は存外規則的だ」

「それはアナタの思い込みじゃない」

「・・・・・・・・」

 ミハイルが心配そうに見ているので、ゲオルグはその気持ちを手で制しておいた。

 いつの間にかルカとこういう話し方をするのが自然になっているのが不快だったが、どうやらこのおかしな男と話す事

にも慣れてしまったようだ。

 以前の自分を思えば信じられない事だが。人の未来とはそういうものなのかもしれない。過去の自分からはまるで想像

できないような、そんな不思議なものだと。

「ミハイル、この先のT字路が見えるか。そうだ、すぐそこにある、真っ直ぐ先にあるそれだ。道が湾曲していないから

ここからでも見えるだろう。あの道をお前はどう思う」

「え、ど、どうって・・・・うーん」

「ようく見るんだ。これは大事な事なんだ」

「は、はい・・・・」

 ミハイルは道の先にあるT字路を凝視する。

 T字路までの距離は百mくらいあるだろうか、いやもっと短いかもしれない。今まで歩んできた道の数倍も広い道が広

がっている。まるで路地から大通りに出たかのようだ。

 でもそんな事だろうか。もっと大事な事を見落としていないのか。

「うーん」

 じっと睨み付けるが、それ以外には何も見当たらない。

 仕方なく解った事だけを伝える。

「そう、それでいい。今居る道よりもあの先の道は広い。だが今まで通ってきた道が狭い訳じゃない。ここはまだ軍が入

ったりもするから、広くはないがそれなりの幅はある。それがあの道と比べると酷く狭く見える。それは何故か解るか」

「えーと、軍が切り拓いたから・・・ですか」

「それもある。が、思い出せ。遺跡で見た光景を。あのだだっ広い場所はどうしてああなったのか」

「それは焼き払われて・・・・あっ」

 ミハイルが高い声を立てそうになったので、慌てて手で口を塞いだ。ゲオルグは彼の目を睨むように見詰めながら、有

無を言わさぬ雰囲気で静寂を強いる。

「そうだ。この霧において不自然な場所というのは、全てがこの地に住まう者によって作られたものだ。人間が干渉でき

るのはその表面に過ぎない。軍もその痕跡を利用しているだけに過ぎない。それを人の英知だと言う者は、しかるべき報

いを受ける事になるだろう」

 苦い光景がまぶたの裏によみがえる。

 ミハイルはそれを知らず、ゆっくりと頷いた。その心には多分嘘は無い。

 飲み込みの早さには感心するが、そこに危うさも見える。理解する事は重要だが、あまり解りすぎるのも良くない。他

人の事を自分の事のように受け取れる者は、少なからず大きな間違いを犯している。それに気付かない内は、危ういので

ある。

 しかしそれは今言う事ではなかった。

 誰にも説明などできない事だからだ。

「つまりあの道をあそこまで広く切り拓いた、いや押し潰した奴がここには居る。奴等は一般に走巨獣と呼ばれている。

百足の化け物と思えば丁度良い。奴等は決まった時間で決まった道順を進む。それは恐ろしく正確でな、時計代わりにし

ても問題ないくらいだそうだ。

 知能はそれほど高くない。目は無く、臭いで周囲を感知しているようだが、それほど敏感ではない。だからある程度距

離をとっておけば襲い掛かられる事は無い。いや、もしかしたらこちらに気付いても無視するかもしれないな。奴等は血

肉を食べている訳ではないようだから。

 しかしそんな事は問題ではないのだ。奴等に巻き込まれれば助かる人間はいない。どんなに強靭でも、どんなに良い防

具を付けていても、奴等の前には無力だ。

 いいか、今の太陽の位置とこの場所、そしてあの広い道をしっかり覚えておけ。どこかで似たような地形を見たら、す

ぐにその場から離れるんだ」

 ゲオルグはそのまましばらく太陽を睨んでいたが。

「そろそろだ」

 と彼が言うや否や、T字路を恐ろしい勢いでよく解らない途方もなく大きな何かが過ぎ去っていくのが見えた。百足(ム

カデ)の化け物と言っていたが、速過ぎてさっぱり解らない。とにかく何かが凄い勢いで蠢きながら過ぎ去っていく。

 呆然と見ている内にガサガサガサガサという音を何十にも重ねたような轟音が追いつくようにやってきて、音圧が鼓膜

を圧倒した。

「くッ」

 ミハイルは慌てて耳を押さえ、声をもらさないように必死に歯を食い縛る。

 ゲオルグが先に言ってくれなかったのは、この現象(生物のもたらすものというよりは、災害に似た自然現象に近いと

思えた)を身に心に直に叩き込む為だったのだろう。何の説明も要らない。これを一度でも経験すれば、死んでも忘れら

れそうにない。

 轟音は一分程度絶え間なく続き、それが過ぎ去った頃には走巨獣と呼ばれている化け物も跡形も無く消えてしまってい

た。もう音も聞こえない。そう言えばあんなに音を立てながら走っているのに、草木は揺れていなかったような気がする。

 だからまるで在って無いかのような違和感を感じたのだろう。今になって考えるとそう思い出せる。

「奴等は激しい音を立てるが、決して風は起こさない。振動さえ無い。その通った場所にだけ広い道という痕跡を残す。

その上、奴等の発する音がこちらに伝わってくるよりも速く移動している。予め知っていなければ、回避しようもない。

その時間にその場所に居れば、必ず死ぬ。

 いいな、覚えておけ。対抗する方法などない。我々にできるのは避ける事だけだ。濁流のように、雪崩のように、人間

ではどうにもできない災害なのだ。ああいう道を見付けたら決して近寄るな。例えそれが来て過ぎ去った後だとしても、

その道を通るのが一体だけという保証は無い。今までは一体であっても、今この時から二体、三体に増える可能性はいつ

もある。だから近付くな。そういうものだと憶えておけ」

 ミハイルは何も言えなかった。そして誰もがそうであるように、この場所で初めて悟ったのである。霧は人知の及ばぬ

場所、まさに異世界なのだと。知識ではなく、実体験として叩きつけられた。



 走巨獣路を見た後、ミハイル達は素直に引き返した。恐怖と同時により深い興味も覚えたので、彼としてはもっと進ん

でも良かったのだが、半人前がゲオルグ達に意見できるはずもない。結局今回の冒険も最初から最後まで二人に頼りっぱ

なしだった。ありがたいが、情けなくもある。

「ふう・・・・、こんなのだなんて、思っても見なかったな」

 寝転びつつ天井を眺める。

 子供の頃から夢見ていた場所は、確かに自分を圧倒してくれる何かではあったけれど、その圧力はあまりにも大き過ぎ

た。正直言って走巨獣の段階でもう訳が解らなくなっていた。実際に見た後である今でさえ、夢ではないかと疑っている

くらいだ。

 それでもその夢物語があの場所の普通の生活なのだ。根本的に何かが違っている。

 ミハイルは別世界の住人のようにそれを思う。

「確かに興味はあったけど、でも、でも・・・」

 初めてあれと出会った人達、そしてそれを自分達に知らせてくれた人達、そういう人達の過去があって今比較的安全に

進んで行ける。それは人類に対する大きな貢献かもしれない。でももし自分がそんな最初の人物になったらと思うと、ど

うしても恐くなる。

「死んだ事も知らずこの世から失われる命、なんて罪深いんだろう」

 真っ白のように見えて、ミハイルにも当然のように様々な考えが染み込んでいる。その中でも、命は大切だ。人は大事

にされなければならない。愛されなければならない。というトゥーリの教え(即ち教会の教え)は彼の根幹を成す思考で

ある。

 この世に不条理に消えていい命があっていい訳が無い。

 勿論、そこには純粋に死にたくないという思いもある。

 そう、彼は初めて自分のやろうとしていた事、やった事の恐ろしさ、現実に気付いたのだ。

 今更止めようとは思わないが、自分の考えの甘さにどうしようもなく気付かされた。紐獣だってそうだ。ルカが居なけ

ればどうなっていたか解らない。ミハイルは何もできなかった。いや、させてもらえなかっただろう。

 二人が過保護なまでに守ってくれて、初めて自分は霧に入る資格、免罪符とでも言った方が相応しいか、を得る事が出

来る。

「でもそんなのじゃ駄目だ。足を引っ張るのは仕方ないかもしれないけど、せめて戦力に入るくらいでないと」

 ゲオルグ、ルカと仲間である。その事が逆に彼を苦しめる。

 そしてミハイルは一晩中悩み、ある決意をした。



 空は曇っているが、気分はそれほど悪くない。今日は連れはなく、一人で歩いている。ただし何の伝手も無い訳ではな

い。ゲオルグとルカにある店を紹介してもらっていた。

「えーと、この辺かな」

 教えてもらった通りはどこか古ぼけていて、それに相応しいと古びた建物が続く。つらつらと眺めていくと申し訳程度

に出ていた看板に気付いた。その看板には、加工、製造承ります、とだけ小さな字で書かれている。知っていて探さなけ

れば、多分見付ける事ができなかっただろう。

「こんな看板で大丈夫なのかな」

 貧乏暮らしの身としては心配になるが、探している人はミハイルとは違い、一流の職人である。そんな人を相手にあー

だこーだ推測して同情する方が間違っている。

 それに今は人の心配をしている時ではない。

「よし」

 ミハイルは荷物を抱えた手にぎゅっと力を込めた。

 戸を開けるとからんころんと予想外に軽快な音が響き、店の奥に居る初老くらいの男がむすりとこちらを睨んだ。いや

眼光が鋭いだけで、見る以上の意は無いのかもしれない。

「しっかりしろ」

 自分で自分を叱咤し、恐々と近付いていく。

「あのう」

「・・・・なんだね」

「ゲオルグさんとルカさんの紹介で来たんですけど」

「・・・・・・・ああ、あいつらの言ってたのはあんたか」

「は、はい」

 どうやら話はついてるようだ。ミハイルは心底ほっとした。肺から呼吸と共にゆっくりと緊張が抜けていく。

「ほら、見せてみな。・・・・・ふうむ、なかなかの物じゃないか。これをそんな浅いとこで手に入れたとはな。・・・

・珍しい事もあるもんだ」

 始めは無口という印象を受けたのだが、初老男は思っていたよりもしゃべり慣れている。他に人が居るようではないの

で、接客も自分でやっているのだろう。

「今回は紹介があるから安くあげてやるよ。でもまあ、ここまでの物なら売ってその金でしばらくのんびり暮らした方が

いいと思うがね。命を粗末にするような事は頭の悪い大人達に任せておけばいい」

 その言い方がちょっと気になったので、試しに売った場合の値段を聞いてみると。

「これは呆れた。あんた、そんな事も知らずにここへきたのか」

 初老男は心底呆れたようにしばらくの間ミハイルの間の抜けた面を見たが、別に隠す事でもないのか親切に教えてくれ

た。面倒見のいい人なのかもしれない。

 彼が提示した値段はミハイルが想像していたものと桁が三つも四つも違い。ミハイル達のあの慎ましやかな生活なら、

一生とまではいかないが、当分の間は生活に困らない金額であった。

 ミハイルはしばし呆然とし、多少昨日の決意を後悔した。

 持ってきた荷物は例の紐獣からの戦利品で、彼はその全てを防具に使うつもりで来たのである。トゥーリにも勿論了解

をとった。でもこんなにお金が入るのなら、全部とは言わないでも半分くらいは売ってしまった方が良いんじゃないだろ

うか。

 トゥーリも価値を知らずに了承したのだろうし、何だか酷く後ろめたいものを思う。

「いや、駄目だ。こういう部分が甘いって言うんだ」

 走巨獣の姿を思い出す。あんな化け物がうようよ居る場所で生きるとすれば、何を惜しむ余力も無い。本気で挑むつも

りなら、例え今要らぬ苦労をさせたとしても、全てを防具の材料と代金に使う方がいいに決まっている。

 これは命の対価なのだ。どれだけの金額を積まれても、それに見合うものではない。だからこそそれだけの価値が付い

ている。

 ミハイルは決して退くものかという強い決意で自分の貧乏性に打ち克った。

「まったく、道理でわしの事も知らんはずだ。まあいい、これであんたの身を護る鎧を作ってやろう。それで初めてもう

少し奥へ歩む事ができる。そうしたらそこでもっと良い素材を得、ここに持ってきてもっと良い防具を作る。それを繰り

返し少しずつ進んで行く。腕に自信がないのであれば、それがごくごく真っ当なやり方というものだ」

 それから初老男は十日後にまた来いといい、自分の名前を教えてくれた。

 彼の名は、ザンサス・クサヴィエ、ヴィグリムで知らぬ者はいない(極少数を除く)名工である。



 十日後引き取りに行くと、ザンサスの店には先客が居た。顔を布で覆い、細身で背が高く、どこかゲオルグに近い匂い

がする。

 目付きが鋭い。

「・・・・・・・・」

 先客はミハイルに気付くとまるで全てに興味を失ったように立ち上がり、店から出て行ってしまった。ミハイルは呆然

と見送ったが、ザンサスの方は顔色一つ変えない。多分慣れているのだろう。世の中には色々な人間が居て、そのほとん

どは理解できないし、する必要も無い。そんな風に見えた。

「気にするな。あいつはいつもああでね。人と関わりたがらないんだ」

 ザンサスが慰めるように言ってくれたが、初めから嫌悪感は抱いていなかった。何となく寂しそうに、強がっているよ

うにも思えたからだ。

 それにすれ違う時、不思議といい香りがした。優しい香りが。

「例のやつはもうほぼ完成している。後はお前の身体に合わせるだけだ。付いて来い」

 ザンサスは振り返りもせず奥の扉に入って行ってしまった。ミハイルは慌ててその後を追う。

 奥は予想外に広く、地下まであるようだ。棚には様々な武具とその材料らしき物が並び、無造作に散らかっている。簡

単に盗めそうだが、そんな事をする命知らずはどこにも居ないのだろう。

 名のある職工であれば凄腕の探索者と自然親しくなる。ザンサスにケンカを売るという事は、その者達全てを敵に回す

という事。全く割に合わない。

「うちと一緒かな」

 意味合いは違うが、確かにミハイルの教会と似ている。鍵をかけず放っておいても誰も寄り付かない。

 室内に物が散乱しているので少し迷ったが、痺れを切らしたザンサスが声をかけてくれたので見付ける事ができた。

「ここだ。ここでじっとしてろ」

 ミハイルに選択肢は無い。

 でも不快ではなかった。高度な仕事を流れ作業のようにこなしていくザンサスの姿を見ていると、感心を通り越して見

とれてしまう。ミハイルにも何の負担もかからない。多少引っ張られたり、突かれたりする事はあるが、痛みは無く、黙

って立っていれば良かった。

「まあ、こんなもんだろう。何か不都合があったら教えてくれ」

「いえ、ぴったりで全然邪魔になりません。軽くて、何もつけていないみたいだ」

 何度も拳を開いたり閉じたり、肩や首を回したりしてみたが、ひっかかるような事も邪魔になるような事もなく、衣服

と同じように快適に使えている。

 その上軽い。逆に不安になるくらい重さを感じない。これで本当に防げるのだろうか。

「紐獣の触手は軽く、衝撃に強い。二階の窓から飛び降りても、何も感じないだろう。刃にも強く、この弾力で容易に弾

く。獣人どもが使っている武器では傷一つ付かないだろう。表層ならこれで充分だ。少し降りていくと物足りなくなるか

もしれんが・・・、まあヒヨッ子にはお似合いだ」

 それだけ言うと、ザンサスは後ろを向いて次の作業に入った。声をかけるのも迷惑そうなので、そのまま静かに出て行

く事にする。鎧のおかげか物音一つ立たない。音を吸収する効果もあるのだろうか。

 店から出て、日の下で改めて防具を確認する。

 色はくすんだ白というのか、目立たない白というのか、そんな感じで、手、腕、肩、胴、膝下、足先まで覆っている。

二の腕と腿(もも)の部分には別素材の物が当てられているようだが、これは動きやすさを考えて作られているからだろう。

 つまりこの鎧は強敵に立ち向かう為ではなく、敵に見付からない為の装備という訳だ。ザンサスがヒヨッ子用と言って

いたのが解るような気がする。

 ちょっと考えさせられるものがあるが、それでも初めて自分用に作られた装備だ。着心地も良く、しっくりくる。ちょ

っと嬉しくなって撫でてみると軽く堅い。でもすかすかではなく、叩くと厚みがある音がする。弾力も失っていない。

「これで、これで僕も探索者か・・・・・うふ・・・うふふふふ・・・」

 ミハイルはしばらくの間身にまとっている鎧を触りながら、気持ちの悪い含み笑いを続けた。

 楽しそうに。



 エンブラ・ファレルは不愉快だった。折角ザンサスと実りある会話を楽しんでいたというのに、よく解らない小僧がき

たおかげで空間を汚されてしまった。まったく人間はなんて不愉快で醜い生き物なのだろう。平気で人の領域を侵し、ど

うでも良い事を口にしては押し付けようとする。

 その考えが利用価値のあるものなら救いもあるが、万の内九千九百九十九は口にするだけ損をするようなたわ言である。

 よくもまあそんな事で生きているなどと言えるものだ。生きるとはもっと意味のある事でなければならない。

 ザンサスのように。

「もう少し希望を言っておきたかったが・・・・。まあ、あの男なら私の希望通りに仕上げてくれるだろう」

 今までもずっとそうだった。これからもずっとそうであるに違いない。

 彼女は自分というものを酷く大事にしている。こだわり、好み、相応しいもの、そういうものに誰よりも敏感で、何よ

りもこだわり、邪魔する者には誰であろうと相応の報いを与えてきた。

 その哲学からするとあの小僧にも相応の報いというやつを与えるべきではあったが、今はとても気分が良い。許してや

ろう。

 ずっと追い求めていた貴重な染料を見付ける事ができたのだ。少々の不満なんかあの色を想うだけで消し飛んでしまう。

美しく輝く夜明けのような紫色、誰よりも自分に相応しい色。だからもっとも良い状態で、もっとも相応しい部位のみを

染めて欲しく、入念な会議をしていたのだが。九割程度終わった所で中断されてしまった。

「まあ、残り一割は職人の腕を見る楽しみと考えればいいだろう」

 全てが思い通りにいくのが最もいい。だがザンサスほどの腕前の男になら、多少は任せてやってもいい。職人ならば誰

であれこだわりや自負するものがあるはずだ。それを見せてもらうのも面白い事かもしれない。

 昔は思いもしなかった事だが、ザンサスの仕事を見てからは考えが変わった。それもこれもあの男に紹介してもらった

おかげである。とても感謝している。

「私は与えられた分はきちんと返す人間だ」

 どこにも属さない中立の傭兵という立場を貫いているが、それができるのは彼女がとても公平であり、金額にぴったり

応じた働きをしてきたからである。その点は誰にも文句を言わせない。誰よりも厳格に守ってきた。その流儀に従えば、

いくらか礼をしてやってもおかしくはない。

「そうだ。おかしくはない。別に他意は無い」

 口に出すとますますそんな気がしてきた。

 その時、ふと先ほどの小僧の顔が浮かんだ。何も知らず、無邪気だがそれ故に邪悪そのものの間抜け顔。しかし何とな

く親しみを覚える。

 誰かに似ている。

 そうだ、どこか昔のあいつに似ている。そうに違いない。いや、きっとそうだ。

「ゲオルグ・・・・・私が認める偉大なる男。礼は必ずする」

 しかしそんな言葉も、家に戻った頃にはすっかり忘れていた。



 翌日、ミハイルは新しい防具をお披露目し、ゲオルグとルカに様々な注意点を聞いた。紐獣素材はそう珍しい物ではな

く、有用なだけに様々な所で使われている。今回のようにそのまま防具にされたり、或いは防具や武器の一部として使わ

れたり、ロープや荷物入れにされたりと、その用途は多彩だ。

 加工しやすく便利な素材だが、弱点もある。熱と寒さが苦手で、特に炎には弱く、一気に燃え上がる。表層ならあまり

気にならないが、少し潜ると炎を得意とする魔物がちらほら出てくる。それもこの素材が初心者向けである理由だ。

「なるほど、なるほど」

 二人の話に頷くばかりのミハイル。

「一番の問題は、この素材の軽さに慣れてしまうと他の素材の武具が使い難くなってしまったり。武器を必要以上に重く

感じてしまう事もあるという点だ。軽さ、利便性に慣れる事は決して良い事ではない。よって、工夫が要る」

 そういうとゲオルグとルカはミハイルの防具に何やら付け始めた。

 ずしりとした重みを感じる。

「これはお前の以前の装備を加工して作った錘だ。このままではさほど感じないが、少し動けば響いてくる。初めはしん

どいだろうが、霧へ向かう前にまずこの重さに慣れてもらわなければならない。寝起きする時も含め、一日中それを着て

おけ」

 それを最後に二人は教会を出て行ってしまった。ルカが一言も話さなかったのが気になる。それだけ重要な事なのかも

しれない。

 便利な物に慣れてしまうと、それに頼るようになってしまう。頼れるものがあるのは心強いが、依存してしまったら本

末転倒だ。

 ミハイルは表層で終わるつもりはない。奥へ進むにはもっと力を付けなければ。

「もうこれは僕自身の問題なんだ」

 だからこそ覚悟を決めて素材の全てをこの鎧に注ぎ込んだ。浮かれている場合じゃない。これが始まり、全てはこれか

らなんだ。

「負けてたまるか」

 手足を軽く動かしてみる。一つ一つは軽い錘でも、全身に付けられるとやはり違う。鎧自体が重いよりも重く感じるの

は、自然に生まれた重さではないからだろう。釣り合いが取れておらず、それが余計に負担に感じる。わざとそうしてあ

るのかもしれない。

「頑張ろう」

 ザンサスもそうだが、あの二人は本当に親切にしてくれる。それは足を引っ張らせない為という事もあるかもしれない

が、それだって共に進む仲間だと考えてくれている証拠だ。ならその気持ちに応えたい。

 ミハイルは嬉しかった。

 心から嬉しかった。

 トゥーリを心配させてしまうのは心苦しい。でもいつかは来る事だ。子供はいつか独り立ちしなければならない。親に

心配をかける事になったとしても、いつまでも甘え続けていてはならないのだ。

「この防具、そして錘に誓おう。決して命を粗末にしない。でも、決して諦めもしない。必ず奥へ行き、そして無事に帰

ってくる。その為には、何物も惜しみはしない」

 まだまだ解っていない事は多く。これも青臭い決意でしかなかったのかもしれない。それでもミハイルにとっては今で

きる中での本気の覚悟だった。



 ゲオルグは満足していた。防具の出来は申し分ない。まだ足手まといだが、奥へ進む最低限の準備はできた。それが幸

せな事かは解らないが、彼自身がそう望んでいるのだ。叶えてやりたい。

 しかしそれもどうやら雲行きが怪しくなってきた。

 現在彼の正面には一人の女が居る。確かめた事はないが、良い香りがするのだから多分そうなのだろう。古い付き合い

で、今も交流がある数少ない友と言えば友と呼べるのかもしれない。

 だがあまり良い思いはしない。この女には散々振り回され、苦労された過去しかないからだ。

 正直、うんざりしている。できれば会いたくはなかった。

 だから。

「帰れ」

 それだけを告げて逃げようとした。そうできない事は解っていたが、賭けてみたかったのだ。例え不可能な事であった

としても。

 が、それはやはり儚い夢に過ぎなかったようだ。

 彼は返答も無く捕らえられ、一切の自由を封じられた。いつもと同じように。

 これからもそうであるように。




BACKEXITNEXT