6.吉凶


 ゲオルグは目を閉じたまま周囲を探った。身体をぴくりとも動かさない。勘の良い女だから気を付けても隠しきれな

いかもしれないが、最善は尽くすべきだ。

 手足に負荷は感じない。全身に当たる空気も変わりない。縛られている訳でも、身包みを剥がされた訳でもなさそうだ。

「・・・・・・・」

 そーっと目を開いてみる。

「・・・・・・・」

 そーっと目を閉じた。

 目の前に彼女の顔が在ったからだ。寝ているのだろう、目は開いていなかったが。視線を浴びせてしまったから、目

覚めてもおかしくない。

 まぶたと通して彼女の視線を感じるような気がする。

 何とか視線を逸らして周囲の様子を見てみたいが、身体は動かせない。

 まさに手詰まりだった。

「・・・・・・・・・」

 仕方なくそのままじっと様子を窺(うかが)ったが、相手が動く様子はない。熟睡しているのだろうか。このまま居

ても仕方ないので、賭けてみる事にする。

 そうっと目を開いた。

「・・・・・・・・や、やあ」

 ばっちり目が合ってしまった。まぶたを開けたその瞬間から痛い程の視線を眼球の奥まで浴びせられる。逃れられな

い。逃れようもない場所に押し込められてしまった。

 解っていたはずだが、それ以上の敗北感が彼を襲う。

 目を閉じたかったが、目を閉じてそのまま眠ってしまえればどんなに良かったかと思うが、そうする事はできない。

最早何をどうごまかす事もできなかった。

 つかまってしまったのだ。逃げていたはずの相手に。

「なぜなの」

 女が問う。

 ゲオルグはそれに答えられる言葉を持っていなかった。

 今持っている言葉は全て随分昔に彼女へ告げたはずの言葉で、今それを繰り返し告げたとしても、同じ結果にしかな

らないだろう。

 いや、もっと悪くなるのかもしれない。

 この状況を打開できる言葉はどこにもない。そういう意味で絶望するしかなく。口に出来る言葉は一つも無かった。

「帰る」

 彼は全てを諦め、放棄する事にした。

 部屋を出て、忘れてしまおう。どさくさに紛れて強引に進めれば、多分そうできるはずだ。

 もしそうでなくとも、この場所からは逃げ出せる。以前逃げた時のように。

 ゲオルグはずっと逃げてきたのだ。この女から。彼女という過去から。

 それを責められるのは筋違いだ。少なくとも彼自身はそう思っていた。今までも、今も。

 そして立ち、ドアへ向かう。

「えッ!?」

 しかし向かうべきはずのドアが突如彼の視界から消えたかと思うと、恐ろしい痛みが背筋を襲った。

 背骨をへし折られたと思った。真っ二つに身体を折られ、千切られたのだと。

 その一撃には容赦、手心というものが一切無く。殺意をも超える強い意志が感じられた。

 へし折る。それだけを完遂する鉄壁の意志を。

「がっ・・・・な、何を・・・」

 辛うじて出せた声はひ弱で、誰の耳にも届かないように思えた。彼自身でさえそう思っているのだから、多分そうな

のだろう。

 しかし彼女だけは違った。

「また逃げるのね。私から、逃げるのね」

 ゲオルグは自分を保つので精一杯だった。気を抜くと意識を失いそうだ。懸命に鍛えてきたはずだったが、何の意味

も無かった。死線をいくつくぐり抜けても、どれだけ技を磨こうと、その差は縮まるどころかますます広がっている。

 これが追う者と逃れる者の差なのだろうか。だとすれば随分無駄な時間を過ごしてきた事になる。

 それは仕方のない事かもしれないが、神はやはり無慈悲過ぎると思った。自分に対して厳しすぎると。

 教会に属せば多少は加護を認めてくれるかもしれないと思ったが。それも愚かな思考だった。確かに神は平等だ。

そして慈悲深い。相応の罰を人に下す。

 邪な信心など初めからお見通しだったのだ。

 だがそれでも積み重ねてきた事は嘘ではない。苦痛は消えないが、呼吸できるようになってきた。肺が動き、喉に力

がこもる。

「お前は、お前は何をしたいんだッ! いい加減にしろ、ファレル!」

 その途端、彼女にあった敵意がぴたりと止まった。

 そして波が返すように引いていく。

 表情も変わり、鬼そのもののような顔が淡く溶け、泣いている子供のようになった。

 泣きはらした子供が、親に許しを乞う顔に。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。だから、だから、そっちで呼ばないで。貴方が私の名

前を呼ばない時は、怒っている証拠よね。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 余りの変化にゲオルグは痛みも忘れて彼女の顔を見た。

 何年ぶりだろう、この顔は。最後の時、きっと同じような顔をしていた。それからずっと、彼女は自分に見せる為に、

この顔を隠してきたのかもしれない。

 自分に見せる為に。

「もういいエンブラ。・・・いいから俺を、帰してくれ」

「うん・・・・・うん」

 後はもう涙に誘われるしかなかった。

 女というものは、男にとって実に不公平にできている。



 エンブラが寝静まった後、ゲオルグはようやく冷静に考える時間を持てた。

 一体何があったのか、どうして今こうなっているのか、何も聞く事はできなかった。ただ泣いて、泣いて、泣いて。

泣いた後は激しくぶつかり合い、眠るだけ。

 自分が悪い事をしたような気持ちになる。

 だからきっと自分は離れたのだろう。子守に疲れた訳ではなく。それが嫌だったのだ。背負うのが、全てを負うのが。

「だが結局、俺は今も似たような事をしている」

 自嘲にも似た気持ちでミハイルの顔を思い浮かべた。

 思えば彼は彼女の代わりだったのかもしれない。真摯な態度も罪悪感の裏返し。行き場を失った壊れた感情をぶつけ

る相手。それにはぴったりの子だった。

 二人はどこか似ている。

「だが、それも最初だけだ」

 きっかけはどうあれ、今ではミハイル自身を気に入っている。あの教会もだ。この気持ちに嘘はない。

 だからエンブラとも、望んでではなかったが、向き合えたのかもしれない。例えそうするしかなかったのだとしても、

ミハイル達との出会いがなければ、きっと彼は泣き喚く彼女を無視して、昔と同じく逃げ去っていただろう。

 そしてそうする事の方が容易だったはずなのだ。

 それが今こうして側で寝ていられる。これは大きな変化だった。

「不思議なものだな。彼女が俺に頼る理由なんて、どこにも見当たらないのに」

 エンブラ・ファレル。この街でも有数の傭兵。その名は近隣にまで轟いている。

 彼と居た頃から相当な腕前として通っていたが、その名が飛躍的に高まったのは彼が逃げてからだ。だからゲオルグ

も自分の選択を正当化する事ができていたのだが、今思ってみるとそれも彼を捕まえる為に必死で生きた結果の一つで

しかなったのかもしれない。

 或いはそうする事で許してもらえると考えたのか。彼女はおそらく自分が離れた理由を勘違いしているだろうから、

それも間違いではないような気がする。

 つまり、追い詰めてしまったのだ。

「・・・・だが、こうも差を見せられるとは」

 必死に腕を磨いたといっても、度が過ぎている。まったく呆れるしかない。一体どれだけの修練を積んだのか。

 逃げられないはずだ。そこに秘められた想いの重みと強さが全然違う。

 それも解っていた。

「俺は覚悟がなかったのだな。彼女に対しても、自分に対しても」

 過去の自分というのは無様なものだ。どこをどう見ても、誉められる事を何一つしていない。惨めで、嫌になる。

 だから自分と同じような若者を見て、嫌悪するのかもしれない。

 嫌な過去を、目の前に突きつけられているかのようで。

「すぐに諦めると思っていた。いや、試したのか。俺は、彼女を、試したのか」

 彼女の一途さを、疑問を持たずに生きる彼女を恐れながら、その心を失わない事を望んでいたのかもしれない。

 なんという残酷な事をしたのだろう。

「だとすれば、俺はこの結果に満足しているのか」

 昔と変わらず彼女は自分の隣に居る。空白の間に何があったとしても、今は隣に居る。心は変わっていない。むしろ

より強くなったようにも思う。

 そうなる事を自分は望み、知っていたのだろうか。

「・・・・・・」

 途方も無い罪悪感が襲ってくる。

 しかしそうするしかなかったのだとも思う。自分はこの想いを受け止めるには弱過ぎた。

「でも、今なら、今は、乗り越えられた・・・のだろうか」

 解らないが、彼女と居ても昔のような恐怖は感じない。先程感じた命に関わる恐怖心はあるが、この結果に安堵して

いる自分が居る。

 卑怯で相変わらず無様な姿だが、それでも受け入れられたのかもしれない。

 自分の弱さと、彼女の強さを。

 身勝手だとは思う。だが本当の事だ。

「俺が試していたのは、俺自身だったのかもしれないな」

 逃げても追ってくれるだけの愛を持っていてくれるのだと、確かめたかったのは本当だ。でもそれだけではなく、距

離をおいて自分がどうなるのかを確かめたかったのかもしれない。

「つまらない、わがままだったんだな」

 寝台に身体を倒し、目をつぶる。

 一眠りして目が覚めれば、整理できているだろう。



 ミハイルは困惑していた。

 刺すように感じる美しい視線。それでも胸がときめくのは、おかしな趣味に目覚めたからだろうか。それとも男とい

うものに本来備わっている弱みなのだろうか。

 どちらにしても。

「よ、よろしくお願いします」

 おそるおそる差し出された手を握り、握手を重ねた。

 名前はエンブラ・ファレル。ミハイルはよく知らないが、名うての傭兵らしい。そんな人が何故ここに居るのか、理

由は解らないが、ゲオルグの説明によると自分達の仲間に加わったという事らしい。

 大人の女性が側に居る事の嬉しさと気まずさ、そして何よりも圧倒的な恐さ。しかしそんな事よりもゲオルグの顔が

強張っている事の方に目が行く。こんな顔をする彼は初めて見た。

 いつもは堂々と頼れるはずのゲオルグが小さく見える。

「うむ、よろしく頼む」

 エンブラはしばらく黙ってこちらを見ていたが、ゲオルグに促されてようやく挨拶を返し、手をゆっくりと離した。

 ミハイルも逆らわないよう静かに手を離す。

 それからゲオルグは恐ろしい事を告げた。

「しばらくの間、こいつをこの教会に泊めてもらいたい。まったく知らない間柄では、呼吸が合わないからな」

 後半の理由も言い訳のように聞こえる。一体彼はどうしてしまったのか。

「新しいミハイルのご友人ね。私はトゥーリ、この教会を任されている者です。エンブラさん、よろしくお願いします

ね。主もこの出会いを祝福して下さるでしょう」

 トゥーリだけはいつもと変わらず、それに対して何の疑問も興味すら無いようだ。

 昔からマイペースというか、あまり物事を深く考えない性分だなとは思っていたが。今日ほどそれを強く思わされた

事はない。まるで何も見ていないように思える。

 ちゃんと人の話を聞いていたのだろうか。

「うむ、よろしく頼む」

 エンブラの方もごく自然に挨拶を交わし、これまたごく自然に穏やかな会話を二人は繰り返し始めた。女同士通じ合

うものがあるのか、すぐに意気投合したようだ。

 よく解らないがトゥーリに任せておけばいい。

 ミハイルはそれを少し残念に思ったが、同時に安堵もしていた。

「・・・・・・・・ふぅ」

 ゲオルグの方を見ると、彼も同じような顔をしている。

 そして目が合うと照れくさそうに笑った。

 そんな彼を見たのも初めてだが、今度は悪い気はしなかった。



 ゲオルグは自分の甘さにうんざりしていた。

「あら、エラちゃんってばそんな事されたの。ひどいわね。酷い男とは思っていたけど、想像以上ね。女の敵だわ」

 元凶は決まっている。

 初めから最後まで決まっている。

 ルカ、この忌むべき男がこの世に存在する限り、決して自分に平穏は訪れない。

「神よ・・・・」

 本気で神にこの身を捧げてしまおうかと思った。

 エンブラをトゥーリに任せる事ができ、肩の荷をおろせたまでは良かったのだ。ミハイルと心底ほっとし、久しぶり

に混じり気のない笑顔を浮かべる事ができた。

 しかしルカが戻って来た事で、全ては無駄になってしまった。

 女三人寄れば姦(かしま)しいと言う。それはいい。騒がしいのもたまになら賑やかでいい。だが、ルカとエンブラ

が意気投合してしまうのは完全な計算違いだった。

 ほんの小一時間話しただけだというのに、昔からの親友であるかのような雰囲気をかもし出し、そこからくる絶対的

な不安がゲオルグの心をきしませる。

 最も知られたくない過去を最も知られたくない相手に知られる。なんて無慈悲で腹立たしい事だろう。

 ほんの少し前までは上手くやっていれたというのに。一回前辺りからの不甲斐なさはどうした事か。

 それまでにあった良い印象は吹き飛び、滑稽な三枚目として塗り替えられてしまったような気がする。

「いざとなれば・・・身命を賭してでも・・・・」

 真剣な殺意が燃え上がる。

 ミハイルがそれを困ったように見ているのは解っているが、それでもこの気持ちを抑えるには足りない。今の自分な

ら、例え神にそう命じられていたとしても、否定しただろう。

 貴方が私にそうさせたのではないか、と。

「ミハイル・・・少し出よう」

「あ・・・は、はい」

 小声で応じてくれた彼に感謝しつつ、二人で静かに教会を出た。

 もうどうしようもない。なら良い方に考えておくのが良いのかもしれない。

 エンブラの話し相手がまた一人増えたと思えば、少しはましになる。彼女は絶対的に人との関わりが少なく。それを

埋める相手としてならルカも悪くない。色々と問題はあるが、他の誰とも同じように、悪いだけの人間ではないのだ。

「代償は大きいが、仕方あるまい」

 ゲオルグは全てを受け容れ、自分の頭をもう少し建設的な事に使うようにした。やるべき事はいくらでもある。解決

しない悩みに浪費させる余裕は無い。

「あ、あの・・・ゲオルグさん」

 ミハイルは少し不安そうだ。付き合ったは良いものの、どうして良いのか解らないのだろう。

 悪い事をした。トゥーリにも迷惑をかけるが、最も被害を受けるのは彼かもしれない。ここは少しでも埋め合わせを

しておかなければ申し訳が立たない。

「丁度いい機会だ。一緒に行きたい所がある。来てくれ」

「は、はいッ」

 ミハイルは突然誘われた事に驚きはしたが、それよりもゲオルグの表情がいつものものに戻っている事に安心した。

 人には様々な顔があり、日々増えてもいる。しかしそれがまた新たに一つ生まれたからといって、以前在った顔が消

える訳ではない。その事に深く安堵したのである。

 ゲオルグは大通りまで出てから繁華街を進み、果物などを買って喉を潤しながら中心部を目指した。そして良く目立

つ一つの建物に入る。ミハイルも慌ててそれに続いた。

 ここは他の建物と建築様式そのものがはっきりと違い、酷く不似合いな場所であるように見える。まるで他国の家を

そっくりそのまま移してきたかのようで、異空間に紛れ込んでしまったかのようだ。

 柱は丸く、広い室内に規則正しく並べられていて、どこかの神殿を思わせる。見通しもよく、二階まで吹き抜けにな

った店内は息苦しい感じはしないはずなのだが、窮屈に並べられた席がその印象を崩し、漂う空気をひどく重いものに

見せている。

 席毎に設けられた敷居もその印象を助長し、全体的でありながらどれもが独立しているかのような景色は、自己主張

の塊のようにも感じられた。

 ざわめきもひどく。すぐ近くに居るはずのゲオルグの気配すら呑み込んでしまうかのようだった。

「何をしているのだろう」

 区切られた席の中には怪しげな嬌声のようなものまで聞こえてくるものがある。奥には彼の興味をひどく惹くような

ものがあるような気がしたが、慌てて目を逸らし、それ以上深く考えないようにした。

「またああいうとこかな」

 以前酒場に行った時の事を思い出す。

 あの時は結局二人で飲んでおしまいで、それはそれで楽しかったものの多少後悔もしていた。あれからそういう場所

へ誘われる事はなかったが、男女別れた今(ルカは男だが)、男同士の付き合いとしてそういう場所に来てもおかしく

はない。

 いや、一度失敗しているのだから、二度目が無い方がおかしいのではないだろうか。

「どうしよう。今度こそ・・・・今度こそ、そうなるんだろうか。うまく・・・できるだろうか」

 頬が赤らみ、耳が熱くなる。恥ずかしいがどうしても抑えられない。その事に対する憧れとどうしようもない焦りの

ようなこの気持ちは、どうしても落ち着かせる事はできなかった。

 ゲオルグくらいになれば、もう少し上手くその感情と付き合えるのだろうか。

「うう・・・・、どうしよう、でも、いっそ・・・・・いやいや、そんな事は・・・しかし・・・」

 やるのならさっさと済ませたい、早くそこに辿り着いてしまいたい、という思いと。引き返すなら今だ、ゲオルグも

強いては止めないはずだ、という思いが無意味に交錯し、悩ませる。

「・・・・・・・・・」

 ちらちらと席を見ては目を離す。どれをどう見てもそういう所であるようにしか思えなくなっている。これは悪い傾

向だ。

「こ、こんな薄い敷居一枚で。そ、その、か、隠せるものなんだろうか」

 素朴な疑問が浮かんでくるが、大人というものはそういう心まで楽しんでしまうのだろうか。

 だとしたらゲオルグやルカも当たり前のように・・・・。

 もしそうなら、こんな所で尻ごみしている訳にはいかない。そ、それくらいできなければ、二人と行く資格はない。

た、多分、きっとそ、そうだ。

「う、うん。そうだ、そうに決まっている。これはぎ、儀式なんだから。うん」

 まぶたにトゥーリの優しい顔が浮かんだが、それですら今は卑猥なものに見えてくる。

 怒った顔ですら、そう思えるのかもしれない。

「い、いかん」

 ミハイルは頭をぶんぶん振って煩悩を祓った。

 祓魔師なのだ。祓うのはお手の物である、きっと。

 ゲオルグの方はそんなミハイルを不審に思うでもなく、奥へ奥へと進んで行く。怪しい雰囲気は深まるばかりだが、

躊躇(ちゅうちょ)する様子は見えない。自分の家であるかのように堂々と迷いなく歩く。

 ミハイルも背筋を正し、無理にでも胸を突き出して堂々とする様子を装ってみたが、似合わない借り物の衣装でも着

せられているかのようにパッとしない。

 自分で自分が哀(あわ)れに思えてきた。

「ミハイル、こっちだ」

 声のした方を向くと、ゲオルグが階段に片足を置いた状態で不思議そうに眺めていた。

 我に返って慌てて後に続く。

 しっかりしないと、しっかりしないとと思うが、鼓動が強く増していくのを止められない。命のやり取りを何度もし

たはずなのに、この惰弱さは何なのだろう。これでも彼と同じ男なのだろうか。

「・・・・・情けない」

 こんな事では一人前になれる訳がない。そういう行為も立派に勤め上げられる訳がない。うだうだせず、きっぱり覚

悟を決めて臨まなければ。

「よし」

 きゅっと唇を結び、大きく呼吸をして腕を回し、心と肩のこりをほぐす。

 いつもの自分を思い出す事ができれば、きっと落ち着くはずだ。

「取り戻せ、取り戻せ」

 いつもの自分を取り戻せ。

 そんな事を呪文のように小声で何度も唱えていると、少し心が晴れてくるような気がした。

「自分に言い聞かせるのって、大事なんだな」

 少しだけ落ち着きを取り戻した心で周りを見回せば、そこには何て事のないただの酒場が広がっていた。確かに建物

の造りは違うし、店員の衣装なんかも全く違っている。しかしやっている事はどれも同じ。ちょっと珍しいだけのただ

の酒場である。

 後はもう何も恐がる必要は無く。緊張はしているものの、ゆったりと奥へ進んで行く事ができた。



 何度も来ているのか、ゲオルグは手早く注文を終え、店員の方も心得ているように二言三言交わしただけで足早に去

った。

 階下と違い、二階は完全な個室式になっていて、壁も厚いのか物音一つ聞こえてこない。

「ここでならゆっくり話せるはずだ。少しゆっくりしよう」

 ゲオルグはエンブラから開放されたのがよほど嬉しいのか、いつもより自然な表情をしているようにも見えた。彼の

言うゆっくりという意味がそのままの意味であるようなのには少しがっかりしたが、それはそれでほっとする。

 やはりまだ自分には早い。そう思う。

「面倒を押し付けてすまないな」

 エンブラの事を言っているのだろう。

「いえ、トゥーリも嬉しそうでしたし、空き部屋も賑やかになって丁度良かったです」

「そうか、そう言ってもらえると嬉しい」

 ゲオルグは何かを迷っているようにも見えたが、当たり障りの無い事を話し、とりあえず食事が来るのを待った。

 いや、待つという程の印象は無かった。

 注文してから数分で全ての品が一度に運ばれてきたのだ。これにはミハイルも驚くしかなかった。

 作り置きをしているのかなと考えたが、食べてみると全てが瑞々しく自然な温かさで、どう考えても作り立ての料理

である。味も見た目も満足できるもので、とてもこんな短時間で作られたものとは思えない。

 つまり、ここはそういう場所なのだろう。

 下の雑多あやしげな雰囲気も、二階にある本当の目的を隠す為のものでしかないのかもしれない。

「彼女とは古い付き合いでな。まだ教会に属する前、共に霧を探索していた頃からの仲間だ。戦友と言ってもいいかな。

まあ、割と知った仲という訳だ」

 ここで変に突っ込まない方がいいくらいの事はミハイルにも解る。

「数年探索を共にしたのだが、色々あって俺は教会に属す事になり、彼女達と別れた。それが何の因果か先日ばったり

遭ってしまってな。行く当てもないと言うが、俺も当てがある訳ではなし。申し訳ないと思いながら君の所に連れてく

るしかなかった。本当に申し訳なく思っている」

 酒が入っているせいか、ゲオルグはいつもより感傷的だ。

 それともこちらの方が素の彼なのか。

 そう考えて改めて考えると、普段の彼はどこか無理をしていたような気がしてくる。こういう彼を見るまでは思いも

しなかったが、確かによほど気を張り詰めていなければ、ああもしっかりとしていられないだろうと思う。

 霧の中ではそれが生きる為に必要であるのは確かだが。それを差し引いても無理にそうしていたと考える方がしっく

りくるような気がする。

「勿論、いつまでも厄介になろうとは思わないし、生活費もきちんと支払わせるつもりだ。一時の客として扱ってもら

えればありがたい。少し難しい奴だが、最低限の礼儀は守る・・・・・と、思う。・・・・・・・まああれだ、何かあった

ら言ってくれ。何とかできると・・・・思う、から」

 何だか歯切れの悪い言葉が並ぶが、ミハイルはその言葉を信じる事にした。歯切れが悪いのも、エンブラの力量を考

えれば仕方の無い事だ。

 近隣にまで名が轟く程の傭兵を相手にするのだから、さすがに手に負えない部分があって当然である。見た目からは

想像できないが、エンブラという女性は恐ろしいまでの強さを持っているのだろう。

「解りました。その時はよろしくお願いします。でも、トゥーリが何とかしてくれると思いますから、安心して下さい。

彼女は、そういうの得意ですから」

 トゥーリという女性はどんな人間も穏やかにさせてしまう力がある。それは魔法と言ってもいいような不思議な力で、

あの貧乏教会が存続できている大きな理由にはそれがある。

 彼女が頼めば誰も嫌とは言えないし、力になりたいと思わせる魅力がある。慈母のような穢(けが)れのない、しか

しはっきりした心の強さ。そういうものが多分人を惹き付けるのだ。

 それでいて変な虫が付かないのは、心底に他者への拒絶のようなものも感じ取れるからかもしれない。優しく全てを

包みながら、しかしその全てを奥底では拒絶している。そういうあやふやな不安とそれ以上の安心感。それがトゥーリ

という人間を形作り、その言葉に逆らえない不可思議な力を宿らせる。

「きっと、大丈夫ですよ」

 だからミハイルはとびきりの笑顔をゲオルグに返す事ができた。



 色々な事を話したが、結局ゲオルグが言いたかったのは、エンブラをよろしく頼む、という事のようだった。二人の

関係がどんなものなのかは解らないが、きっと誰よりも強い絆で結ばれているのに違いない。

 例え、その間に何があろうとも、一度繋がれた絆というのは決して切れないものなのかもしれない。

 そして忘れていたその事にある時ふと気が付いて、ぽっかりと空いた穴を思い知るのだろう。人の記憶が毎秒の積み

重ねで、決して過去を抜きにして考えられないのなら、つまりはそういう事である。

 そんな気がした。

 ミハイルは一人夜空を眺めている。ゲオルグとは店先で別れた。彼はそのまま宿舎に戻るそうだ。

 自分もすぐに教会へ戻っても良かったのだが、何となくあの輪に入るのは気恥ずかしいような気持ちがして、帰る気

にはなれなかった。

 振り返り、出てきた店を見上げる。二階へ行けるのは限られた者だけらしい。いわゆる紹介制で、一見さんはお断り

である。

 信用できる客が信用できる者を紹介し。紹介された者がまた信用できる者を連れてくる。そうしてまた一つの輪、絆

が広がり、完成する。

 しかしそこには大きな責任を伴い。紹介された者が不都合を起こせば、紹介者が全責任をとらされる事になる。ミハ

イルもゲオルグに信用された者として、相応しい行動をしなければならない。

「ちょっと重いかな」

 でもその重みは心地よいものだった。何かを背負うというのは、そういう事なのだろう。初めて武器を持った時もそ

んな気持ちになった事を思い出す。

「さて、これからどうしようか」

 もう一度店に入って今度こそ想いを遂げる事もできるが、そんな自信は初めから持っていなかった。

 ミハイルは弱く、多くの事を知らない。今一人で大人ぶったとしても、失敗しかしないだろう。若い内にする失敗は

大事だとしても、解っていてそれを進んでするような度胸は彼には無かった。

 小心者なのである。

「・・・・・・・・」

 夜の街は活気付き、人の流れは衰える気配がない。光差す昼間よりも皆元気に見えるのは、気のせいか。

 ミハイルもその流れに沿ってぶらぶら歩いてみる事にした。

 今はまだ無理だとしても、気分くらいは味わってみたい。そんな気持ちを抱きながら。

 一人で夜の街を出歩くなんて、いつ以来だろう。

 もっと幼い頃、大人に不必要な程憧れていた時、トゥーリに黙ってこっそりと夜の街を歩き、大騒ぎになった事を思

い出す。あの時は散々怒られたし、トゥーリも別人のように恐かった。

 それからは夜の外出まで恐くなって、日が暮れると彼女の目ばかり気にしていたような気がする。

「あんなおっかない顔見せられたら、そりゃあトラウマになるよ」

 今思い出しても恐い。でも、少しだけおかしくもあった。

 昔には感じられなかった愛情が、そこにしっかりと感じられるから。

 思わず顔がほころび、笑い出したくなった。

 久々にいい気分だ。

「ん?」

 ふと視線を感じた。

 振り返ると陰りから誰かがこちらを見ている。口元だけが浮かび上がり、その口が艶やかに微笑んだ。

 それはどこかで見た誰かに似ていたが、気付いてもう一度見ようと思った頃には影に溶けていた。

「・・・・・・」

 気のせいだったのかもしれない。

 浮かれた夜におかしな事は付き物だ。

 そういえば少し冷えてきた。そろそろ帰ろう。

 また心配させてしまわないように。

 もう子供ではない。少なくとも、あの頃よりは。




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