7.黒陰


 興味をそそられる相手というのは、どこにでも居るものだ。

 その人の強さ、弱さ、意志、様々な要素に人は惹かれる。そしてそれは一様ではない。だからこそ面白く、

成り立っていけるのだと思う。

 この対象はどれだけ私を楽しませてくれるのだろうか。

 見当違いという事もありえるが、彼には不思議な魅力がある。まだ何にもなれていないし、どう育つかは未

知数だが。人を惹き付け、味方にできる能力は申し分無い。観察を続けるのには充分な理由だ。

 例え本人に力が無くとも、人を集めるという事だけで優れた業績を残す事も多い。

 まあ資質を持つ者だけならば、この世に腐る程居る。彼がそうなれるかは解らない。

 でも私の目に付いたというだけで、大きな意味があるようにも思える。

 まさにそれが運命なのだろう。

「・・・・・様、そろそろお時間でございます」

「・・・・・解った」

 楽しみは長く続かない。もう時間が来たようだ。

 後ろ髪を引かれる思いだが、だからこそ益々惹かれる。私はそれが好きなのだ。

「あなた様の影が光に満ちますように」

「満ちますように」

 形式的なセリフは好きではないが、人生というものは決まりきったセリフを述べる機会の方が多い。それを

意識していない場合も多い。

 退屈だが、便利な言葉という事なのだろう。

「・・・・・またいずれ」

 彼と出会う機会はもう少し先になると思う。

 或いはずっと会わない事になるのかもしれない。

 それでも確かに私は彼を見ているし、これからも見続ける。

 それを忘れなければ、切れる事はない。

「光満ちて、あなたの影にならん事を」

 これは私だけのセリフ。祝福の言葉。

 そして影は陰に溶ける。

 望むままに。



 エンブラとトゥーリと仲の良い姉妹のようで、ミハイルの入る余地は少しもない。嫌われていないようだが

・・・・いや、嫌われているのだろうか。どちらにしてもそこに割ってはいる勇気は無かった。

 高い壁が見える。エンブラは美しく、そばに居るだけで心が高鳴る。もう少し仲良くできればと思うのだが、

そう思うからこそ近づけないのかもしれない。

 彼女が興味を持つ男はゲオルグだけで、それ以外の心が触れる事を許さないのだろう。そうでなければ長い

間離れていて、同じように強く思い続ける事なんかできないはずだ。

 一人だから待てるし、一人だから揺るがない。そんな気がする。

「あれ、だとするとトゥーリは・・・・」

 神に仕える身とはいえ、トゥーリも人間、好悪の情はあるはず。正式にシスターになる前の事はあまり問わ

れないのだし、彼女にも浮いた話の一つや二つあっていい。それなのにミハイルは何も知らない。ずっと二人

で生きてきたはずなのに、トゥーリの事をびっくりするくらい解っていない気がした。

「そういえば、僕は何も知らないな」

 頼っているばかりで、何も知ろうとは思っていなかったのかもしれない。側に居るのが当たり前で、それを

深く考えるという意識自体が無かった。家族というにしては、あまりにも知らな過ぎる。

 トゥーリが何を思い、どうしたくて生きてきたのか。そろそろもっと考えても良いんじゃないのか。

「でもちょっと、気恥ずかしいかな」

 今更母として以外の彼女の事を知るのは恥ずかしい。くすぐったいというか、何となくどうしていいか解ら

なくなる。知りたいけど、知りたくない。そんな気持ち。

 家族だからこそ隠したい事もあるだろうし、彼女の全てを知ろうとする事が、彼女の為になるとは思えない。

それはミハイルの知りたいという欲であって、善意ではない。そう思う。

「そうだ、善意ではない」

「あら、ミハイルちゃん、浮かない顔ね。悩みでもあるのかしら。お姉さんに話してごらんなさい」

「うわっ!?」

 気付くとすぐ側にルカの顔があった。

 申し訳ないと思いつつも、彼の顔を間近で見るのは少し恐い。

「え、あ、いえいえ、何でもありません」

「そーお、何かあったらいつでも言ってきなさいね。・・・待ってる、わ」

 背筋がぞっとした。でもルカの親切心は嘘じゃない。ありがたく思おう。

 ルカが来た事で女同士?の話に更に花が咲いた。このまま居ても仕方ないからどこかへ行こう。やるべき事

はたくさんあるはずだ。

「それにしても慣れたなあ」

 ルカは毎日のように教会に顔を出している。今ではトゥーリ、エンブラ、ルカが楽しそうに話す光景が当た

り前になっているが、彼らに会う前までは教会がこんなににぎやいだ事はなかった。

 たまに訪れる人が居てもトゥーリ目当てか暇つぶしみたいなもので熱心に参拝する人はおらず(今もそれは

一緒だが)、教会はいつも静かで寂しかった。

 トゥーリが満開の笑顔で話す姿も、この教会に笑い声が響き渡る事も、夢のように思える。

 でも今はそれが当然の現実。

「不思議だな」

 ほんの少しの事でがらりと環境が変わってしまうなんて不思議だけれど、物凄く嬉しい。ずっとこんな風に

居られたらと思う。

 でもミハイルは霧世界で生きる事を決心した。未曾有の危険と財宝の待つ地。そこが彼の現実になる。

 エンブラもルカもそうだ。彼女達もいつ命を失うか解らない。今こうしている事も、明日には永遠に無くな

ってしまうのかもしれない。

 でもだからこそ平和でいられる。

 そんな風にも思えた。



 ミハイルはザンサスに作ってもらった鎧を身にまとい、一人霧に居る。

 表層の街のすぐ側で一時間とせず帰れる場所だが、確かに一人で居る。

 今日だけではない。彼は何度も来ている。

 目的は鎧に慣れる事と経験を積む事。

 ここなら遭っても獣人程度だし、獣人の一体や二体なら労せず倒せるようになった。群れ相手はとても無理

だが、一対一なら怪我をする方が少ない。

 紐獣素材で作られた鎧は獣人達が持つ錆びた刃など物ともせず、むしろ弾き返す事で相手の隙を生む。痛み

もなく、逆に相手の攻撃に対して無頓着にならないよう戒めなければならない程だ。

「凄い鎧だよな」

 これだけの物があっても、奥に行くには力不足だと言うんだから恐ろしい。

 そういえばゲオルグと手合わせした時、確かに衝撃は緩和されていたものの体の芯にまで響くような痛みを

感じた。あれで手加減してくれているのだから、本気で殺しにくる相手の攻撃はどれほどのものか。考えるの

も嫌になる。

「獣人の一人や二人相手にできたところで、何の自慢にもならないな」

 成長すればする程自分の足りなさがよく解る。皮肉なものだ。

 でも得られるものはある。

 攻防の呼吸、視界の確保、位置取り、足元に注意する事がいかに大事か。そういうものは充分に身に染みて

いる。

 索敵にも多少は慣れた。

 ミハイルが狙うのは群れからはぐれたか、偵察の為に出てくるのだろう小数の獣人だけで。三人以上を相手

にする場合はよく考え、退路を確保した上で戦うようにしている。

 そんな好条件の相手に都合よく出遭える訳はないから、専ら野犬や狼と戦う事になるのだが、それでも確実

に収穫が得られるのは嬉しい。

 獣の肉や皮はいつも需要があるし、安価でも数を揃えれば充分な収入になる。これを生業としている人がい

る事にも納得した。大当たりはないが、実際やってみると安定して稼ぐ事が可能だ。

「こういう仕事でも、良かったんだよな」

 一日中獣を相手にし、贅沢はできないものの食っていくには問題の無い分だけ稼ぐ。そういう生き方も悪く

ないと思う。

 だが自分は決めたのだ。後戻りできないようこんな鎧まで作って。その決意は決して嘘ではない。

 でも。

「僕は言い訳を探しているのかな。止められる理由を」

 そうかもしれない。今でも霧の奥へ踏み入れる事を思うと恐いし、体が震える。日常的な平和を感じれば感

じるだけ、あの場所へは行きたくなくなる。悪い夢として忘れたいとも思う。

「認めないとな。自分の弱さを」

 噛み締める。きっとそこから覚悟が生まれると信じて。

「人は恐怖を覚えるからこそ、それに立ち向かわなければならない」

 昔トゥーリに聞いた言葉を思い出した。子供の頃刻まれた言葉が、今も自分を励ましてくれる。決して忘れ

ない。この想いがある限り、自分は立ち向かえる。

「少し、休もうか」

 手早く野営の準備をする。焚き火にも慣れた。火を焚けば魔物に見付かる可能性もあるが、表層なら利点の

方が多い。

 身体を暖めながら手早く獣をさばき、皮と肉に分ける。内臓は捨てるしかないが、これを好んで食べる人も

いるのだとか。

「さすがに、生々しいな」

 一度食べてみようかとも思ったが、どうも踏ん切りがつかない。

 内臓は埋めておこう。良い肥料になるだろう。

 肉を火であぶり、食事の用意を進める。赤々と照りかえる色が食欲をそそる。

 武具の手入れも忘れてはならない。愛用のメイスには血と脂がどろりと巻き付いている。しっかりと拭き取

っておかなければ錆びの原因になるし、そのすべりで威力が半減したりもする。

 手入れを欠かさない事が生き延びる秘訣だと、ゲオルグは言っていた。

 ミハイルもそう思う。

「・・・・・・・・・・」

 しっかりと拭き取った後は鎧の間接部を確認する。ふとした事で破損したりする事もあるので、修理方法ま

でみっちりと叩き込まれた。今なら大抵の事は自分でできる自信がある。

「・・・・・と、思う」

 本音を言えばそんなに自信はないが、気持ちだけでもそう思って・・・・・。

「・・・・・・ん?」

 何か声が聞こえたような気がした。

 獣のうなり声とは違う、人の声、言葉の響き。耳慣れない言葉で意味は解らないが、人が発したものである

事は解る。

 ヴィグリムには周囲の国々から毎日のように大勢の人間がやってくる。その中には聞いた事も無いような国

から来る人も少なくなく。さっぱり意味の解らない言葉を見聞きする事も多い。

 だからミハイルも、理解できるかどうかは別として、大抵の言葉を知っているはずなのだが、今聞いた言葉

はそのどれとも違った。特徴のある響きだから、一度聞いたら忘れないはずだ。一体どれ程遠い場所から来た

のだろう。

「行くか」

 ただの口喧嘩とかならいいが、もし助けを呼ぶ声だったとしたら放っておけない。

 幸い今の装備なら充分に戦える。かえって足手まといになるような事はないはずだ。多分。

「よし、行ってみよう」

 ミハイルは焚き火もそのままに、声の聞こえた方角へと急いだ。



 すでに死臭が充満していた。

 血肉の濃い臭いが鼻につき、むせ返りそうになる。慌てて首にまいた布を持ち上げ、鼻と口を隠した。これ

もゲオルグから教わった備えだ。

「どこだろう」

 辺りを見回すが、人影は見えない。

 が、金属が激突するような音が聴こえてくる。うなり声も多い。

「向こうか」

 転がっている死体は獣人ばかり。そのどれもが一刀の下に斬り捨てられている。尋常でない腕前なのは解る

が、この数が相手では・・・・。

 うなり声から察するに残る数は一体や二体ではない。どれだけ強かろうと人は無限には戦えない。疲れもす

るし、武具も磨り減る。四方八方から攻めかかられればまず命は無い。

 不幸にもここは平坦な地形で木々や障害物となる物が少なく、身を隠す場所もない。いずれは捕まってしま

うか、散々に切り裂かれた上で食われてしまうだろう。

 命がけなのはお互い様としても、やはり人間の方を救いたい。

 ミハイルは速度を上げた。

「近い。もうすぐそこだ」

 人をすっぽりと隠せる大岩の向こうから声が聞こえてくる。低くしわがれた声だが、よく響き、鋭い。

 だがその息遣いは荒く、獣人達のうなり声で時折かき消されそうになる。どうひいき目に見ても限界は近い。

 ミハイルは岩陰に沿って移動し、見付からないように状況を確認する。

「・・・・・五体は居るな。でも、迷ってはいられない」

 幸い獣人達の背後に出られた。今大声を上げて斬りかかれば、獣人達を驚かせる事ができるかもしれない。

まだ望みはある。

「よし」

 息を整え、全身の力を抜く。

 一、二・・・・。心の中で数え、三で飛び出した。

「ウォオオオオオオオオオッ!!」

 喉も張り裂けよとばかりに声を上げ、手にしていたメイスを一番近くに居た獣人の頭に向けて振り下ろす。

「ぐぇっ」

 鈍い音と奇妙な声を立てて、メイスが獣人の頭にめり込んだ。命はない。

「せやッ!!」

 次いで二人目に向かってメイスを横殴りに払う。狙いは付けていない、とにかく当たればいい。

「げぇっ」

 手ごたえはあったが、運悪くその獣人は金属鎧を身に付けていたようだ。手がしびれ、メイスが根元から折

れて落ちる。

「くッ」

 嘆く暇もなく、急いで刃無しの短剣を取り出す。リーチは短いが、これなら負けはしない。

「おおおおおおおおおッ!!」

 気合を込め、心臓目がけて体重を乗せて突き込んだ。獣人も高々と刃を振り上げていたが、構いはしない。

頭にさえ当たらなければ鎧が弾いてくれる。

「げぇえっ!」

 思い切って前に飛び込んだのが良かったのか、振り下ろされた刃が当たる前に両腕に鈍い重みが走り、ずぶ

ぶっという感触と共に獣人を貫く事ができた。

 血が溢れ、刃を伝い、握り拳を赤く塗らす。

「次っ」

 疲れを感じる前に短剣を抜く力を利用して隣の獣人にぶち当てた。

 こちらの獣人も鎧を着ていたが、皮製では何の役にも立たない。骨ごとへし折る勢いで短剣がめり込んでいく。

「つおおおおおおおッ!!」

 そのまま構わず振り切ると、ぶちぶちっと髪を引きちぎるような手応えがし、獣人の身体を半分くらい裂い

ていた。目の光を失った獣人は、そのまま転がり動かなくなる。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 残りの敵は助けた人が始末してしまったようだ。視界には血しぶきと臭いだけが映り、獣人の声も息遣いも

聞こえない。立っているのは二人だけだ。

「はあ、はあ、はあ」

 二人の人間の荒い息音が、合わせたように重なる。

 しばらくはどちらも言葉を発する事ができなかった。



 その中年女はヴァルと名乗った。

 声がやけに枯れているのは病気にかかったか、もしくは何者かに喉をやられたのか。

 人間社会にも危険は多い。短くない人生、何を体験したとしても不思議は無いだろう。

 脱走した奴隷、捨てられた子供、全てを捨てて逃げてきた老人、色んな人がこの場所には集まってくる。

「・・・・・・・・・・・」

 話を聞きたかったのだが、女は名乗った後目礼するとそのまま立ち去った。

 彼女の動きは止める暇もないほど速く、有無を言わさぬもので。もし敵であったとしたら、一瞬であの世逝

きだったろう。エンブラとはまた違った凄みを感じ、暗い恐怖を覚えた。

 得物も特徴的で、拳の先に刃を付けたような不思議な形状をしていた。ミハイルもあんな武器は見た事がな

い。よほど遠方から来たのだろう。

「しかし、凄い・・・・」

 どの獣人も一撃でやられている。鎧を貫通している事を考えれば、霧素材の武器だろうか。

「霧から戻る途中だったのかな。それとも・・・・」

 霧素材の武具はヴィグリムにおける重要な交易品の一つであり、世界中に広がっている。価格は当然遠方に

なればなるほど上がるが、最も近い国においてさえ物によっては数倍の値が付く事もある。探索者以外ではよ

ほど裕福な人間の手にしか渡らない。

 その為、国外では実用品というより美術品として扱われている。

 さっきの女はとても裕福そうには見えなかった。やはり探索者なのか。

 身なりがみすぼらしく見えたのは、成果のほとんどを武具に変えているからだろうか。

 探索者の中には利益や名声に興味を示さず、ひたすら最奥を目指している者達も居るらしい。その一人だと

すれば、何となく納得がいく。

「・・・・・・・とりあえず、帰ろうか」

 死体の群れは見ていて気持ちのいいものではないし、そろそろ臭いにも耐えられなくなってきた。普通なら

身包みをはいで資金に換えるの所だが、今はそんな気も起こらない。

 ミハイルは獣の肉皮だけを持って街へ戻る事にした。



 迂闊(うかつ)だった。姿を見られてしまうとは、本当に迂闊だ。

 いや、幸運だったのかもしれない。誰からも認識されないという事に、時折嫌悪感を持つ事がある。酷く寂

しく自分がゴミのように感じる時が。

 決意し、そんな感情は捨てたはずなのだが、年に数回、まるで再生されたように浮かんでくる。その穴を埋

めるには、良い出会いだった。

 だから殺さなかったのだ。

 それとも教義に従って殺すべきだったのか。

 迷うという感情を久しぶりに味わう。

 新鮮だが、いい気はしない。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 まあいい。あの程度の子供なら、自分というものの意味を理解する事はないだろう。

 それに実際助かった。下手をすればあのまま死んでいた可能性もある。さすがに今回の任務は過酷過ぎた。

生き残ったのも私一人。思い出すだけでうんざりする。

「・・・・・・・・・・・・・」

 喉が焼ける。最後に何かを口に入れたのは、いつだっただろう。そんなわずかな時間が死に繋がるくらい、

厄介な任務だった。本当によく生き残れたものだ。

 愛用のジャマハダルにもわずかだが刃こぼれが見える。こんな事はついぞ無かった。

 汚れ、疲れ、飢え。みすぼらしい自分の姿。見ているだけで吐き気がする。

 昔はあの子供のように若々しく光り輝き、全ての希望で満たされていた。何でも思い通りになり、あらゆる

願いが叶う。そんな風に思っていたのだ。

 寄ってくる男も後を断たず、好きなように遊び、見返りも随分得た。

 それが今では使い捨てのようにされ、必死で生き永らえても待っているのは更なる死地。

 ああ、うんざりだ。もううんざりだ。

 誰か私を許してくれ。

「逃げてしまおうか」

 そう考える事は多い。

 だが逆らえない。逃げおおせる訳も無い。

 それに逃げた所で、どこへ行けというのか。

「私の居場所など、どこにも残されていない」

 性別すら捨てたようなしわがれた声が、今の自分をはっきりと現している。

 もう、遅いのだと。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 ならばいっそ・・・・とも思うが、身に付けた技が皮肉にもそれを妨げる。

 修練を積んだ誇り、今まで生きてきた執着が死を許さない。

 ただ生きるだけの亡骸でも。

 やはり、死は恐いのだ。

「嗚呼」

 確かに自分は影である。

 なるべくしてなった、影に過ぎない。輝ける肉体は、すでに失われた。

 あの子供と同じ世界に住んでいるなどと、誰が言えるだろう。



「・・・・・・・あまり関わらない方が良いかもしれんな」

 ミハイルから今日の成果と報告を聞いたゲオルグは眉根をしかめ、途端に不機嫌そうな顔になった。

 不思議な中年女に会ったと耳にした時からである。

「どうしてですか」

「詳しくは言えないが、そういう武器を使う者達に心当たりがある。その話はもう二度としない方がいい。決

して彼女達に触れるんじゃない。これは忠告ではなく、命令だ」

 ミハイルは納得いかなかったが、そう言われれば頷くしかない不気味さを、確かにあの女は持っていた。

 この街には本当に様々な組織や集団があるが、そのどれもが健康的なものであるとは言えない。非合法のも

のも多いと聞く。もし彼女がその一派なら、関わる事はミハイル自身だけではなく、トゥーリやこの教会にま

で迷惑をかける事になるだろう。

「・・・・・・・・わかり・・・ました」

 でもどうしても納得はできなかった。もしもう一度会ってしまったとしたら、その命に従えるかどうかは解

らない。彼女からは・・・・そう、救いを求める声が聞こえてきたような気がする。

 ミハイルも神に仕える身、救いを求められれば断る訳にはいかない。

 そんな彼を見透かしたか、ゲオルグは苦笑を浮かべた。

「ま、もう二度と出遭う事はないだろうがな」

 彼女らはそういう存在だからだ。ミハイルが助かったのも、彼が無名の子供だったからだろう。

 その存在は古くから知られているが、誰も名を知らないし、実体も解らない。ただ在るという噂と彼女らが

好んで持ちうる武器の形状だけが伝えられ、たまに思い出したように彼女らに遭ったという噂が流される。

 誰も知らないが知っている。そんな禅問答のような状態を維持する事で、彼女らは自身の神秘性と不気味さ

を保ち、この街の陰を支配しているのだ。

 ゲオルグもその影を見た事は幾度かある。おそらくある程度経験を積んだ探索者であれば、誰でも一度や二

度はその存在を感じた事があるだろう。口にはしないが、はっきりとした恐怖と共に知っている。

 だが、ミハイルのようにその姿を目にした者、ましてや言葉を交わした者など皆無だ。

 一体どういう事なのだろう。

「偶然だろうか。それとも・・・・」

 彼女らも人間ならばしくじる事はあるかもしれない。だが、あまりにも出来すぎていないか。まるで意図し

た事であるかのようにも思える。

「もし目を付けられたのだとしたら・・・・」

 厄介な事になりそうだ。

 ミハイルという一人の少年。探索者としてもまだまだ未熟なひよっ子に彼女らが興味を示すとは思えないの

だが、全くそうでないとは言えない所に得体の知れぬ組織の恐怖がある。

 その目的も求めるものも解らないのだから、何も判断する事ができない。ただ恐れ、不安におののく。まる

で鬼神か悪魔に対するかのように。

「ふうむ・・・・」

 結局、ミハイルの話も半分以上耳に入っていなかった。



「下らぬ輩が、また何をしようというのだ」

 押し潰されそうなまでに壮麗な景色。豪華な調度品、豊かな芸術品、目もくらむばかりの武具。そこにある

ものは全てが霧からもたらされた、おそらく現時点で人間の持てる最高の品々。最上の素材を用い、最高の職

人が手がけた。美も価値も超越した途方も無いものを感じさせる。

 それはある意味霧そのものであり、彼はその体現者である。

 しかしそんな男でさえ、悩みや恐怖を感じるものらしい。

 人間とは、不思議なものだ。

「命を賭けて目指してきたものが、こんなものだったとはな」

 どれだけ栄華を得ても、決して逆らえぬ者達が居るのだと知れば、若き頃の自分は進むべき道を変えただろ

うか。

 否。若き彼には選択肢が無く、今もまた無い。この栄華もまた、辿り着くべくして辿り着いた、ただの結果

に過ぎず。あの頃と何も変わっていない。

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

 だが幸いな事に、向こうもまたこちらに手出しはできない。我々は共存関係にあって、この関係は遥か太古

から続いている。最早どちらがどちらの為にできたのかすら、覚えている者は居ない。

「しばらく大人しかったのも、この為か」

 部下からの報告には奴等の身勝手な行動が連ねてある。それだけで人類全ての悪徳を示せそうだ。

「まあいい。どうせ奴等も深奥には辿り着けぬ」

 霧は深く、果てしなく遠い。どれほど優れた人間であっても、彼女らでは辿り着けない。人の団結が必要な

のだ。

 だからこそ自分は今の地位を得、教会を興した。

 しかしまだ足りない。邪魔者を排除し、もっともっと力を蓄えなければ。

「将軍閣下、法王猊下がお呼びです。至急参られるようにと」

「うむ。すぐに行くと伝えよ」

「はッ」

 教会の動きは相変わらず速い。やはりどこかで繋がっているのだろう。或いは教会そのものがそうなのか。

 だとすれば、何としても事を進めなければ。

「将軍、法王、その二人が居てもどうにもならぬとは、全くもって奇怪な奴等よ」

 本来ならばすでに計画は軌道に乗り、後は時間だけの問題になっていたはずなのだ。自分も隠居をし、後は

有望な探索者の後援でもしてそれを待てば良かった。

 しかし全ては奴等のおかげで・・・・。

「所詮、わしも手駒という事よ。一生の結果がこれでは浮かばれぬ。しかし、まだ時間はある。今の内にやる

べき事はしておかなければなるまい。その為なら、何を対価にしようと、どうと言う事も無い」

 霧から得られたものは富と名声、力だけではない。長寿と健康もそうだ。老齢に到った今でも昔のように剣

を揮えるのは、自分が特別な人間だからではない。同じものを得れば、誰でもそうできる。

 全てはなるようにしかならない。

「だからまだだ、まだ終わってはおらぬ。後十年も生きれば、また違った景色が見えてこよう。それまでは大

人しく従っておくしかあるまい。後は法王にどれくらいの事ができるか。或いは力を分け与えねばならぬよう

になるかもしれぬな」

 ならば、それも良いだろう。今までずっと耐えてきたのだ。今更耐える事に迷いは覚えない。

 権力を得て弱くなれるほど、自分は恵まれていなかったのだから。

 とはいえ、最近酷く寂しく思うようにもなった。

 自分という人生の虚しさに。誰も側に居ないという悲しさに。段々耐えられなくなってきているのか。

 そう思えば、十年という時間は長過ぎたかもしれない。



「今日は慌しいようだが」

 ミハイルの報告の後、ゲオルグは教会に戻ってきていた。ミハイル達の住む聖アネス教会ではなく、彼の直

接所属する教会に、である。

 派遣士とはいえ、一応はどこに属するか決められている。直接の上司のようなものと思えば解りやすいか。

以前は本当に教会全体に所属しているような形だったらしいが、数が増え、教会そのものが栄えるに従って全

てのものが細分化されるようになった。

 役職や属する教会、そういったものをはっきりさせなければ運営する事が難しくなったからだ。

 ゲオルグの属する教会は聖カテリア教会。かなり古い教会らしいが、ランクからいえば中堅といったところ。

可も無く、不可も無く、ゲオルグは割りと気に入っている。

 いつもは静かで荘厳な雰囲気に包まれているのだが、珍しく人々が慌しい。何かあったのだろうか。

「一体何があったんだ」

「え、ああ。あんたか。何でも法王様がおいでとの事でね」

「法王様!? 一体なんでまた」

「ああ、いや、それがフィードバルト閣下と会談されるらしい。一応うちは由緒だけはある教会だからね。以

前法王様もここに居た事もあるそうだし、何でもその当時に二人は知り合ったのだとか。まあ、ただの噂で、

何の証拠もないんだが」

「そんな事が・・・・」

「あ、悪いけど失礼するよ。僕も忙しいんでね。何か用があるなら明日にしてくれよ。とにかく今日は駄目だ。

どこも手一杯で対応できない」

「あ、ああ、解った」

 馴染みの神父はそれだけを言うと急いで奥へ行ってしまった。本当に急がしそうで、それ以上言葉をかける

のがためらわられる。

「少し調べたかったんだが」

 仕方がない。今日は大人しく帰り、後日また来るとしよう。

「時間はまだあるし、一度街で探ってみるか」

 どれだけ極秘だろうと一神父が知れるような事はすでに一般に流れていると思っていい。今頃はどこもこの

噂で持ちきりだろう。

 何故突然二人が会談するのか。それも正式にではなく、ごく私的なもので、急に決まった事であるらしい。

責任ある立場の人間が、こうも慌しく動くのは珍しい事だ。

「きな臭くなってきたな」

 ミハイルの会ったという不気味な女。彼女が不運を連れてきたのかもしれない。

「出遭った者は命無し、か。迷信と思っていたが、そうとも言い切れない部分があるのかもしれん」

 うんざりしてきたが、同時に面白くもあった。

 矛盾しているが、それもまた人間らしい。

「しばらく顔を出していなかったから、丁度良いかも知れんな」

 情報源にはいくらでも心当たりがある。そのどれもが正確ではないだろうが、繋ぎ合せれば見えてくるもの

はあるはずだ。




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