1-4.ホルマルの帰還


 議会場での激戦を終えられ、したたかに疲労されたご様子のホルマルは、もうたまらんわいと、一時帰

宅される事を決められた。

 戦利品として、いつの間にか小さめの氷をしっかりといただいておられる事であるし。この冷たさを浄

化させる為には、やはり家に戻って本腰を入れてかかる必要があるだろう。

 ホルマルの気をしこたま当て、悪気の塊である氷を完全に水へと戻してこそ、初めてこの氷は呪われた

宿命から解き放たれる。

 大氷を砕き、溶かしきれなかったのは甚だ残念だけれども、将を射んとすればまず馬を射よ、という言

葉もある。まずは一氷一氷確実に浄化し、あの大氷を強める議会場の怖ろしく冷え冷えとした冷気を、少

しでも取り除く事が肝要であろう。

 そうしていればあの大氷の力も衰え、小枝ででも簡単に砕く事が出来るようになるはずだ。

「ふむ、恐るべきはこの冷え冷え感。ともすれば、この手が寒さで痒みそうじゃわい。このままではわし

の手にまで呪いが移ってしまう。ここは一体どうすべきであろうか」

 ホルマルは押していた氷を止め、自身は切り株にお座りになり、一時休憩をとる事にされたようだ。

 剛勇ホルマルも、寄る年並みには勝てないのだろう。

 これが若きその名も正しくコビットであった時分なら、このような氷などはしっかりと手袋を着用して、

何処までも存分に押し切られたものであったが。それも今は昔の話。今のホルマルではせいぜい手を触れ

なくて済むように、枝を拾ってそれで押すくらいしか出来ない相談である。

 しかし不屈の闘志を持つホルマル。負けたの勝ったのというくだらない言い訳などは一切なさらず、ま

るで持っておられるタオルにも気付かない素振をされ、漢らしく再び素手で押され始めた。

 ぐいぐいと力を込めて押す度に、ずりずりと氷が程好く溶けながら滑って行く。

 そしてその度にホルマルの手を寒気が襲い。このまま続けていれば、おそらく翌朝辺りに手の痒みは最

高潮に達すると思われる。

 氷が早溶け出したのも、単に気温が増してきたからではない。ホルマルの闘志が氷の邪気を祓い、その

為にこの氷は溶け出しているのだ。決して体温の所為ではなかった。

「疲れるのう。ここまでわしを疲れさせるのは、あの何とかいう会戦があったかなかったか、その話し合

いに応じるべく、小一時間ばかり考えながら、実は夕食を食べていたという、あのおぼろげな記憶の中で

しか味わえない塩梅と言えるじゃろう。そうじゃ、確かにあの時は野菜を抜いていたはずじゃ。確かに肉

が混じっていたはず。そう、魚を肉と言えるのであれば、確かに肉を食べていたに違いあるまいて。どち

らにしろ、肉団子を食べた事に間違いはなかろう」

 ホルマルは遠い記憶に夢を馳せてしまわれるように目を瞑り、暫しその手の冷たさを忘れられた。

 いやむしろ、氷をその場に残して立ち去られてしまわれたのである。

 太陽光の力を借り、氷を浄化させる。それも一つの手に違いない。ホルマルは老いた代わりに、類稀な

叡智を身に付けられたのだ。

 放って置いてもいつか溶けるだろうに、とは論外中の論外であろう。ホルマルが邪悪なる氷を放って去

るなどとは、まったくもって考えられない話だ。ホルマルをそのような無責任な無頼漢と一緒にされてし

まっては困る。

 確かに彼は後を太陽に託し、ひんやりと過ごす午後を諦められてまで、この世で最も信頼出来、最も大

いなる存在である太陽へと、その心を受け継がせられたのである。

 これを多大な犠牲と呼ばずして、どう呼べば良いのか。ホルマルは決して面倒になった訳ではないので

ある。くれぐれも誤解なきようお願いしたい。

 ぼうっと考えている内に、ついつい氷そのものの存在まで忘れてしまったのだろう。等とはまったくも

って心外な意見である。

 そのように目を曇らせてはいけない。真実の誠意ある目でホルマルを見るべきだ。

 そうすれば、このホルマルがどれだけ偉大であるか、その片鱗くらいは解るであろう。真夏の太陽の下、

延々と何時間もただ黙ってホルマルの事を考えていれば、誰しも理解できる事である。

 真なるものは、いつの時代も理解され難いが。その代わり一心に考えさえすれば、本来は誰にでも理解

出来るという事に、誰しも気付くものなのだ。理解できない真なるものなどは、この世に存在せず。常に燦

然(さんぜん)と人の前に輝く存在である。

 つまり太陽は暑いと、そう言う事だ。

 それが解らぬ者は、額に熱風を十五時間でもかけて、出直して来るが良いだろう。

 ともあれ、ホルマルは邪魔物が無くなって晴れ晴れとしたお顔で、彼の住居へと帰還されたのだった。

 ホルマルの置かれた氷は、その後暫く通行人達の涼を潤したという。

 人知れず善行を行なう。ホルマルのお人柄がここにも明確に出ておられる。


 その後あやうく道を間違えそうになった、いや実際二度ばかり間違えられたものの。ホルマルは珍しく

日が暮れる前にご帰宅され、どっかりと椅子に腰を下ろされた。

 下男が慌ててやってき、今用意したらしいお湯でホルマルの足を洗おうとする。

「熱ッ!!?」

 しかしつい先ほど沸いたばかりのお湯なので、当たり前の事だが火傷しそうなくらいに熱かった。慌て

て足を抜かれたのは良いが、お湯に浸かった部分はすでに赤く腫れ上がり、このまま放っておけばとんで

も無い事になるだろう。

 下男もこれには肝を冷やしたようで、急に立ち上がると、後を振り返らず一心に、医者を呼ぶ為だろう、

表へと出て行く。

「あちゃちゃちゃちゃッ!!!」

 その弾みで入れ物がひっくり返り、ホルマルの全身に熱湯が降り注いだ事にも頓着しない。今は足の火

傷の事を第一に考えるべきであるし、何しろろくでもない下男であるから、熱湯をぶちまける事などは慣

れっこで、気にもならなかったのである。

 大体が、下男は別に熱くも何とも無い。熱湯をぶっかけたのなんのだの、そのような細かい事には全然

平気なのだ。それよりも下男は早く医者を呼ぶべきだろう。

 ホルマルは怒り狂う元気も失われたのか、暫く転げながら暴れ狂われていたのも昔の事、ぐったりとそ

の場に倒れられている。

 幸い服を着ていたおかげで、服の各所に隅々まで熱湯が染み込み、服が熱を吸収したのか、少しだけ熱

湯自体の温度を下げる事が出来たようだ。その代わりに服に染みた熱湯が冷めるまでは、延々と熱さに苦

しむ事になったが、そのような事もまた些細な事だろう。

 とにかく少しでも温度を下げる事が肝要。その為には多少の犠牲も止むを得ない所存。それが雄々しき

ホルマルという猛者である。

 その内またドタバタと音が聴こえ、下男が近所で俗に言うお医者さんごっこをしていた子供の中から、

彼にしては上手くやった事に、医者の演技が上手そうなのを一名連れてきた。

 この少年ならば、おそらくは最善の処置をしてくれるに違いない。

 少年は若干五歳という年齢ながら、長き年月を医学を修める事に費やして、ついに独自の療法を十数年

かけて編み出し、更に長い年月をかけ丹念に蒸留して完成させた、医学上にその名を轟かす名医中の名医、

の役柄。

 しかも彼は人格者としても高名で。その療法を惜しげもなく民衆へ教えた後一転して強気になり、民衆

から無理矢理礼金をせしめ。全国からはるばるやってくる息も絶え絶えな病人に対し、まことに毅然とし

た態度で高い診察料をとっては恨まれたと言う、真にコビットの中のドクビットとでも呼ばれるに相応し

くもあるかないか、そこが判断の難しいところだが、概ね良好であろう、という設定をされた少年である。

 まさに時代に選ばれた男。

 それだけでなく、この設定を考え出した者がまた凄い。

 近所でもままごとに関しては右に出る者無しと呼ばれる、あのマルデリアホトミルス、面倒なのでマル

ホト八歳が、その情熱の全てをかけて考え出し。全三十五回の大長編物語の内、現在その三十回、人々に

精一杯尽くしたものの、個人の力の限界と、更に医学界の腐敗によって絶望に取り付かれた中、果たして

彼を妻はその愛で救えるのか、という今正に感動の波が大きく跳び立たんとする回を、彼女自身が妻役と

なって涙ながらにやっている所であった。

 それなのにマルホトは、こっちのが面白そうだわ、とばかりにままごとを切り上げて、この少年を送り

出してくれたのだ。

 そうであるならば、この五歳の少年を連れてきた下男には、常の彼を忘れてやり、幾許かの賞賛を贈っ

てやらねばならない。真に素晴らしい役目を果たしてくれた。

「先生、ホルマル様ぁ、大丈夫でしょうか」

 心配そうにおたおたと落ち着きの無い下男に対し、冷静に下男の肩を叩きながら、慰めるように微笑み

かける少年。そして瀕死の息のホルマル。

「私に任せなしゃい」

 十数分程下男を篤く慰めていた少年が、ようやくホルマルの診察にかかる。

 しかしその顔は険しく、必死に穏やかな顔を保とうとはしているが、ホルマルの病状の悪さを明らかに

物語っていた。

 下男が後悔の涙を流していた為、その顔を見れなかった事が不幸中の幸いであると言えよう。

「先生、ホルマル様ぁは?」

「手は尽くしたのでずが・・・・・」

「そ、そっただこと・・・。ああ、暑い日ですから、初めから御足は水で洗えば良かったのでありました。

それをホルマル様が我侭仰るからこんな事に・・・・」

「ご老人、コビットには寿命というのがありゅのです。それは誰にも止められなひきょと。ちかしまだ諦

める事はありません。ご主人の生命ろくが病魔に打ち勝てば、きっと・・・・・・きっと、なんだっけ」

「きっと神がお力をお貸し下さいます」

 いつの間にか側に居たマルホトが助け舟を出す。この少年の記憶力は村一番と言われているのだが、や

はり若さ故の過ちからは逃れられなかったようである。

「それそれ、きっとお菓子下さいます」

「ありがとうございますだ」

 童心に返って所々方言が出る下男を優しく見、少年とマルホトは続きをやる為に外へ出て行った。

 この治療で協力したのをきっかけに、二人の仲は再び熱く結ばれるはずである。先ほどマルホトが修正

していた原稿を見たから、これは間違いない。

 二人の仲を取り戻した我等がホルマルは、人知れずぐったりと身を大地に委ねられ、いつの間にか気を

失ってしまわれたようである。

 下男は泣いてすっきりしたのか、用事がまだあった事を思い出し、忙しい忙しいと呟きながら、家の奥

へと向った。

 ホルマルには孤高が似合う。




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